機動戦士ガンダムF91(1991年) 

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今さらですが、『機動戦士ガンダムF91』は1991年の作品だったのですね。(参照:Wikipedia
これはちゃんと公開当時に、映画館へ見に行ったのですが、何故かもっと、ずいぶん遠い記憶のように思えていました。
先日、ガンダムシリーズを制作年順に、ただ並べるという変な事をしておりましたのも、その辺を自分なりに整理してみたかったからでした。(あれはあれで、制作年順にWikipediaを眺めていくだけで、けっこうオカズになるんですけどね。「中立的な観点」「保護」の数とかw)
相変わらず非常に個人的な視点なんですが、この年代順を眺めていて「そうか!」とバカに納得をしてしまったのが、この『F91』を観たのをほぼ最後ぐらいにして、私はアニメからもガンダムからも遠ざかる、個人的な「黒歴史」時代に入っていったのだなぁ~という事実でした。

改めて見直してみて感じたこと……第一印象は、たぶん当時感じたこととあまり変わらない"当惑"でした。
絵は悪くない。メカの動きや爆発なんかは、前時代からすれば、かなり水準の向上を感じさせる。音楽も悪くない。特にやっぱり森口博子はガンダムの歌を唄わせたら最高だ!!(笑) ラスト近くの主題歌が入る部分は、だから実に感動的だった。じゃあ何でひっかかる?

物語が煩雑?…それはある。「元々はテレビシリーズの企画で、ストーリーを劇場作品用に再編集しており、この為話の展開が非常に早い。」(Wikipedia) 最初テレビ版で構想されたストーリーを劇場版に圧縮すれば、そんなものかとも思う。けど、それは富野御大の得意技(本人も半ば自虐的にだけどそんな風に言っている)なのでは?
では「これは始まりに過ぎないのよ~♪」そのもののエンディングに不快感?…それもある。どうしたって私の世代は、あの『ヤマト』続編もので散々嫌な思いをしてきたトラウマがあるし。(「ヤマトめ、やりおったかヤマトめ……ハハハハハハ……」と引きつり笑いごっこをしたものです、ハイ。)

だがしかし、そんなことぐらいではないような気がする。もう15年ほども前になるわけだけど、公開当時の私は、どうしてか「もう付いていけないな~…」と思ったようだった。「自分が年老いたのだろう、もうアニメなんていう歳じゃないものな…」ということ。そうして自分を納得させたのか、あきらめたのかはよく分からないけど、あの富野さんが作ったあのガンダムに付いていけない気がしたことは、個人的にかなり寂しい出来事だった。『Ζガンダム』(TV版のね)に拒否反応はあったけど、「付いていけない」というような感じ方ではなかったと思う。『ΖΖ』のときはきょとんとしていたけど、『逆襲のシャア』で、「やっぱり富野さんだよな~」と思っていたはずだった。

今? 
今、見ると? 
…皆さんに、いろいろと教えていただいたおかげなのか、もう少し客観的な見方も出来るようになったような気がする。うまく整理をできるか分からないけど、もう少し何とか言葉を搾り出してみよう・・・。

ラフレシアが「どっかーん」した後の展開。セシリーが虚空を漂っているところ。「御大はこれがやりたかったのね」って、すっごくよく分かった。"ニュータイプ"ってのは、・・・"認識力の拡大"ってのは、つまりこういうことなんだということ、なんでしょ?(ここまで噛み砕いて見せなければならない?)
「そうか、御大はとっても『ガンダム』をやり直したかったんだなぁ~」という見方でこの作品を観ると、いろいろ難しく思えたことが、少しすっきりとしてきた気がする。「やっぱり民主主義はキライなのよね」とか。「モビルスーツは少しでも小さくしたかったのかな」とか。いろいろね。

御大の作品っていうのは、観るのに集中力が要求されますよね。ほとんど"気合"で作品と勝負しているぐらい。(笑)
そこがアンチには受け入れ難いところなのかもしれないけど、ファンにはたまらないところでもあるような。・・・そして集中して観させるだけの"技術"もある。
この作品は、技術論的には、さすが富野さんの作品というレベルには来ていると思う。じゃあ何なのかというと、・・・気分の問題。(ぇ?
気分で言うことをお許しいただければ、この作品は「誰に向かって」表現をしてるのか、分からない。というより、表現が自分(御大)の内側に向かってしまっているという気がする。御大の"気合"がこっちに向かってこないという感覚です。
ぶつかり合わない気合が空回り。集中力がふっと途切れそうになる。見ていて疲れてしまって・・・「もう付いていけないな~」ということを順を追って分析すれば、たぶんそういうこと。

『機動戦士ガンダム』の時代から約50年、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の時代からは約30年経ったUC123年を舞台とした物語。リセットしたい気持ちと、やり直したい気持ちのごちゃ混ぜが、もう、その舞台設定から出てしまっている気がする。縁を切るのなら、もっとすっぱりと切れなかったものなのか?
モビルスーツ隊のコロニー強襲からはじまる物語。完全に前作までの王道をなぞっていますよね?
「ガンダム」だから。モビルスーツがあるのが当たり前の世界観だから。まして「宇宙世紀」ものでもあるし、説明は無用なんだけど。けれど本当にそれでいいんだろうか?既存のガンダムのファンには邪魔くさく思えても、そうした世界観の説明を省いてしまっては、新しいファン層が獲得できないのは自明のこと。

実際には1992年にテレビシリーズが放映されることはなく、1993年に放映されたのは、F92用の企画を翻案した、直接の続編とは言い難い『機動戦士Vガンダム』であった。(Wikipedia)


御大がガンダムの呪縛(重力?)に囚われていった構図は、そういうあたりで理解していったら間違いなんだろうか?
富野監督という人は、出来上がった価値観に挑戦していく人、改革者としてこそ、真価を発揮する作家なのではないかと。ファーストがヤマトに挑戦したように。イデオンのような作品を生み出したように。絶対に守りには向かない人でしょう?

『∀ガンダム』は、そういう意味で、ガンダムそれ自身をぶっ壊そうとするエネルギーを持っていたし、ガンダムの既存のファンではない人たちにも意識が向いていたように思うのです。だからうまくいったのじゃないかと。
ただ、『新訳Ζ』は、旧作のスキームをなぞっているからしかたないといえばないんだけど、そういう意味で言ったら、この作品ではじめて「ガンダム」に接する人には、まだ少し敷居が高いかもしれない。

富野さんの次の仕事は『リーンの翼』なわけなのですが、私としてはファンタジーものもいいけれど、「一大娯楽巨編」をやってみせてほしいなぁ。
『ザブングル』→『キングゲイナー』と来た流れで、たとえが古いけど、『未来少年コナン』を超えるような、アニメーションならではの痛快な大作を見てみたい。(できればNHKの地上波がいいなぁ・・・。)

まとまらない感想が迷走し、しまいにはおかしな妄想で、どうも申し訳ないです。
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