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いまだに総括しきれない「松本零士ブーム」の時代 

[2009/11/25] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(7) | TOP ▲

 えらく間隔が空いてしまいましたが、どうもこの間もPSB1981さんとの世代差トークはずっと頭の中に残っていて。普遍性のあるオープンな表現を保つのはあちらで引き受けてくださっているので、私のほうはそれをいいことに個人的な感懐をダダ漏れに語らせていただける。(ぉぃ

  • 松本零士への失望と西崎義展プロデューサーへの反発
  • ビジネスへの反発
  • 草の根運動
  • 底辺
  • イデオロギーへの嫌悪
  • うる星やつら(80年代)
  • マニアとオタクの差異

私は、ここから囚人022さんが青春を過ごしたあの時代の、時代精神のようなもの=なぜ松本零士ブームやアニメブームがあり、その先、ある意味、頂点にガンダムがあったのか、が読み取れるんじゃないかと思います。そして、そこに今日のオタク文化の雛形、原型を見出すことができるのではないかと思います。

 前の記事を読んで、こういう風に思われたとのことで、ちょっと話が大きいんで焦りますが(苦笑)、何かのサンプルにしていただけるのは幸いです。

 「学生運動」は私の中高生時代には、もうほとんど見られませんでしたが、そういう反動なのか「受験戦争」を勝ち抜くことだけを目指す「管理教育」は強まっており、さらにその反動で「校内暴力」が問題になっていたような時代でした。『3年B組金八先生』の時代と言えば、分かりやすいでしょうか。体育教師は竹刀をぶら下げて校内をうろついていましたね(笑)。
 ああ、そうか。私はのほほんとしていたほうなので、「夜の校舎 窓ガラス 壊して回った」りはしませんでしたが、尾崎豊と同世代というほうが、若い人にもより分かりやすいかも。「組織」への嫌悪というのは意識してましたが、イデオロギーとか高度経済成長とかは、当時はよく分かってなかったような気がします。

当時の若者は松本零士作品やあしたのジョーの、何に熱狂したのか。それはおそらくは、松本零士の戦争まんがや、あしたのジョーの中で描かれた「たった一人で、理屈じゃない闘いに挑み、そして負けてゆく男の美学」でしょう。

〈ANIMEX1300 Song Collection シリーズ〉(7)宇宙海賊キャプテンハーロック

 なるほど尾崎豊なんかも同じようなところに根ざしていたのかもしれないですね。ただ、少し繰り返しになりますが、『あしたのジョー』にしても松本零士の『宇宙海賊キャプテンハーロック』にしても、原作マンガはストレートにそれでしたが、アニメの製作者たち(出崎統だったり、りんたろう&上原正三だったり)には原作に対する批評性のようなものがあった。そこの些細な違いは、私には重要なことだったように思われます。

 機会がありましたら、『キャプテンハーロック』(TV版)はぜひ見てみてください。まったくPSB1981さんが言われるとおり、ほとんど戯画的なまでに「豊かで平和な時代に背を向けて、たった一人で理屈じゃない戦いに挑んでいく男」のストーリーです。

 あれ、今から思えば大人の事情がありありと分かるけど、アニメでは宇宙戦闘機のしょぼいメカアクション(「エアーダッシュ!」ってコマーシャルを、何故かトラウマ的に覚えている・・・)なんかを追加させられて、普通に不出来な作品だったようにも思います。ただ、マンガのほうでは(案の定)完結できなかったストーリーになんとか(?)結末を付けるなど、物語的には、苦しいなりにアニメスタッフは頑張っていたんだろうなぁ。

『宇宙海賊キャプテンハーロック』エンドシーン 『宇宙海賊キャプテンハーロック』エンドマーク

 そうした実朝が、「平家ハ、アカルイ。」と源氏の総大将の立場にありながら仇敵の一族を誉め、続いて一人ごちたのが「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」というセリフなのですね。
 平家琵琶の壇ノ浦合戦のくだりを聞きながら、平知盛が女中衆に敗色濃厚な戦局を尻目に「只今珍らしき吾妻男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ」と笑って見せた。その場面で出てきたのがこのセリフだということは、この作品が発表されたのが戦時中の1943年だということを考え合わせると、大いに注目に値します。滅び行きつつある国の中での「文学」の立場。ただ無力なだけでなく、ときに傀儡として利用さえされるにもかかわらず、争う意思さえも持たない「文学」というもの。

 そういえば、以前にキャプテンハーロックの最終回について、こんなことを記事にして書いたりしていました。たぶん本放送以来、一度も見返したことはないと思うんですけど、頭の隅っこに強烈に残っているラストシーンです。
 もう一度見てみたいなぁ。あの頃には、全然分かっていなかった。あれが、りんたろうさんと上原正三さんが時代を抱えながら、松本零士的なものと対決し続けた末のアンサーだったんだろうな、と思います。
 だけど、それをどう受け止めたらいいのか。「松本零士的なもの」の総括が、私なんかには、いまだに上手に終わっていないようなところがある。そういう気がしてなりません。(PSB1981さんには、そこをズバッと切ってもらっているのでありがたいです。)

  • 要するにオタクにはアナキズムへのシンパシーがあるんだろうね
  • ガンダムのニュータイプ思想もアナキズムをニューエイジ(洋風東洋思想)とSF(科学)でアップデートしたものだよね

 PSB1981さんの結論に「だいたいあってる」とコメントしながら気になってるのは、考えてみるとアナーキーというか、不断に権威から身を離す方向へと振る舞うことは、私には大事なものに思えるのですが、それは若い方からはアナクロだったり、敗北主義的だったり、あるいはこっけいなものにしか見えないのかなぁということですね。

  • ただ、今は、何が権威なのか、それ自体が分からなくなっているので、自分の立ち位置を見失い、敵を求めて右往左往している人が多いですね。

 なぜ分からなくなっているのかというと、PSB1981さんが指摘したとおり、権威に反発していたものが再び権威化していく「無限ループ」が可視化されてきたからではないんでしょうか?(松本零士センセイは、それを地でやってみせてくれたのかもしれないなぁ。)
 だから、成功も失敗もあるかもしれないけど、わりと根幹的なところでのアップデートあるいはアップグレードを指向し続けている富野由悠季が、私は好きなんですね。

 その好きだという気持ちをうまくオブラートにくるんで、私ももう少し公共性のある物言いをできればいいとは思うんですけど、ただ批評的な言説の冷笑してる感じや、それこそ「権威」指向的に思える感じは得意ではなくて(笑)。
 たしかに私は、「昔っからダンスフロアの隅っこで踊りも踊らずに眺めていて、退場するタイミングも分からなくて、そのへんに取り残されている」ものの一人だと自覚してますけど、「悔い」は別にないですね。

最初に『宇宙戦艦ヤマト』が登場したのは戦艦大和があった太平洋戦争から29年が過ぎた1974年でした。ところがそれから2009年までは35年。いつの間にか、こちらの方が長くなっていて、すでにヤマトそのものが歴史になっていることを実感します。

 「批評家」よりも、こういう「史家」的なスタンスを持つ言説を読むのが好きです。しかし、これにはどーんと一発、何か重いパンチを食らった気分です。お立ち台に立っていた人も、ただ眺めていた人も、みんないつの間にか時代の目撃者になっていくものなんですねぇ。怖ろしいことです。

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[tag] 松本零士 fc2ファビコン キャプテンハーロック fc2ファビコン アニメ史 fc2ファビコン オタク fc2ファビコン

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コメント

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> そうですね、

あえて言うと近ごろ流行の批評家には、私たちの子ども時代に、竹刀ぶら下げて校内をうろついていた暴力教師の姿に、やや似てると感じるときがあります。(笑)

「お前ら、うだうだ言っとらんと、大人しく大人にならんかい!」

私たちの世代の教師はそうやって「人間の個性」の芽を力で踏みにじってくれたので、その反動が大きかったのかもしれないですね。我々の人間形成にも、我々の次の時代のあり方にも。
そうして我々を小突き回していた教師たち自身にも、何のビジョンもなかったのは分かっていたんですよ。まあ、それでもそれが彼らの商売だったんだから仕方がないのか。

「松本零士(笑)」とか「ヤマト復活(笑)」とか、それはそのとおりだと思いますよ。

「どのような歴史も政治性とは無関係ではいられない」というのもそのとおりだと思います。史家にもたまに、ただの年表オタクみたいなのはいますけど、まっとうな史家はその程度のことは大概分かっているでしょう。
ただ、それと同時にこれを裏返して、「どのような政治も歴史性とは無関係でいられない」というのもあると思うのです。

ときどき批評家は(意識的にか無意識にか)そういうことを考え落としているのではないかと思えてならないときがあるのです。

>

たぶん世代差からくるのでしょう。
学校、教師云々の話がちょっと面白いと思いましたので、そこだけ。
ブログに書くのも変な気がするので、すみませんがコメントにて。

ええ、僕も中学校は、坊主頭で詰襟で。。。みたいな田舎の学校で、それがほんとうに嫌でした。
僕らの世代であれだったのだから、相当後進的(笑)な学校だったのでしょう。

ただ、そもそも論になってしまうのですが、近代の学校教育制度は、その起源からすれば「人間の個性」の芽を伸ばすためのシステムではなく、むしろその逆であったはずだと思いますし、制度的にも明らかにそういうことが出来るようにはなっていない。

学校に「それ」を求めるようになったのは、わりと後になってからの話で、その結果、学校教育で個性を伸ばす、自動車に例えると「ガソリン車だけどエコ」みたいなキャッチコピーが広まっちゃったと思うんですよ。
その辺りのしわ寄せがここ数十年、現場の教師に全部いってしまっている。
つまり工場の中で、教師はオペレーターに堕すことなく職人となれ。
そしてラインを流れる個々の製品=生徒を作品に仕上げよ、という。
ちょっと無茶です。
あの時代の暴力教師も、そして現在のメンヘル教師も、そういう制度的な矛盾を現場の個々人が処理した結果の犠牲者ではなかったでしょうか。
(しかし学校=工場なしでやれるかというと、そうでもないという)

批評家についても言及しようと思ったのですが、ちょっと暴走気味になっちゃったので、この辺で終わります。

>

中には好きな先生もいました。大学出たての先生でしたけど。
何十年ぶりかでお目にかかったことがあって、そのときアレッと驚いたのは、今の自分の歳になっちゃうと、師弟っていうより友達みたいになっちゃってましてね。なんだ、そういえば十歳ほどしか歳も違わんかったのだな、と。
ただ、中学生のときには「大人」は「大人」という生きものにしか見えませんでしたよね。(笑)

今の年齢になると分かってくることもあります。
「勉強」を教えることに関しては、優秀なオペレーターでよかったんだと思うんですよ。
でも「人を育てる」ことは、それとは別。
「近代の学校制度」というよりは、むしろ「近代」それ自身が人間にとって歪みのあるものであったのかもしれない(というか今もそう)と思いますが、人が人を育てる中では、「ともに苦しみ悩むものである」というところを見せてもらえるだけでも、はるかにましだったと思うのです。

「勉強を教えること」と、「人が人を育てること」がごっちゃにされてきた。そのことが、よくなかったのだと思うのですよね。

> 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

> 学校ネタで、もう一回だけ

言われるとおりだと思います。
なので、学校は教育機関に徹して「人を育てる」責任を、本当は抱え込む必要はないと思うんですよね。
もちろん、完全に分離させることが出来るとは思いませんが、
でも、面白いことにヨーロッパでもカトリック系の、特にスペインやイタリアは
学校の機能が日本にくらべて小さく、比較的そんな感じのようです。

あと、その世代の教師が、いまだ「教師は弱みを見せるものじゃない」という価値観の中にあったのかもしれません。

で、多分囚人さん世代って、ちょうど僕らの教師世代だと思いますが。。。(笑)
が、私たちの世代だと、なんでしょうね。
ときどき教師が変なヒューマニズムに毒されているというか、今度は、子供の前で安っぽく弱み(涙も)をみせるんですよね。
これはこれで、逆に子供心に白けてしまっていたような。
「こっちは大人しく子供をやってるんだから、そっちも適当に大人やっとけ」、と。
たぶん反動で、大人は子供にすべてをさらけ出してどーんと体当たりした方がいい、みたいな価値感があったのかもしれません。
で、闘牛みたいに、こっちがヒラリヒラリと体をかわしていると「私の努力が足りないのか。。。グダグダ」とか凹まれてしまう。
もう放っておいてくれと。子供は教師の人生に興味はないぞ、と(笑)

僕も一応凹み系(?)でしたけど、でも学校に勉強以上のあれこれはあんまり求めていなかったですね。
振り返ってみれば、(富野由悠季ふくめ)大人に人生相談みたいなことをしたこと(しようと思ったこと)があまりないです。
でも一方で、引きこもりのめちゃめちゃ多い世代でしたから、ドライな奴とウェットな奴のギャップが激しい世代だったのかもしれません。

> 「あえて」というのは、

ニュアンスや本当の意図を無視して、「結果がどう見えるか」だけの乱暴な話をしています。
「たった一人で、理屈じゃない闘いに挑み、そして負けてゆく男の美学」→「要するにオタクにはアナキズムへのシンパシーがある」というのと同じ程度(笑)に、細かい屈折を度外視したほうが現象としては分かりやすいというメソッドです。(耳障りでしたらすみません、批判のつもりではありませんでした。)

カトリックの強い国では、「人を育てる」役割は学校ではなく、今も教会が果たしているのでしょうかね。神様という絶対的な権威が、いまだ現役なんだろうか・・・。(これも批判ではないです。)

先生の話で言うと、『三年B組金八先生』は一回だけでやめておけばよかったんですけど、これもパート2とかパート3とか延々と作られて、それにもうんざりしたのを思い出しました。(笑)
「苦しみ悩むものである」っていうのは見世物じゃないんですね、それは分かります。おっしゃるとおり適当にというか、むしろ真剣に大人をやって見せてくれれば、それぞれそれなりに子どもは見たり見なかったり、また見ないふりをしたり、などと適宜ふるまうものなんでしょう。

私も富野由悠季に人生の相談をしようなどとは思いません。あの方は半分(あるいはそれ以上に)反面教師でもありますから。でも、そこが好きなんだな。よい子のみんなは真似しちゃダメだぞ(笑)。

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