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小説 『リーンの翼』について、もう少し書きたいこと 

[2009/06/16] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 富野由悠季の小説『リーンの翼』の感想を書いたところですが、少し辛らつじゃないかというリアクションもいただいておりまして、そうなのかなぁと。

 今日における富野由悠季作品偏愛に至るまでの、超個人史的なことを言うと、今現在、感想に手こずっているテレビ版の『Zガンダム』のリアルタイムの時点で、私は富野離れを一度体験しているというのが実はあるんですね。それで無意識にしても同時期の作品である小説『リーンの翼』については、どうも同じような抵抗感があったんじゃないかと。

 つまり「個人的な感情を吐き出すことが、事態を突破するうえで一番重要なことではないか」という思いは理解できるにしても、それに共感できるのかどうか、それを普遍的に価値あるものとして認めるのかどうかということですね。(バカな話ですが、当時の富野監督と同じような年齢に今の自分がいるのでよけいにそう思います。)

 ご都合主義というのは悪い言い方ですが、都合というものは絶対にある。誰しも世の中にあふれる都合の中で、折り合いをつけながら生きているんですよね。これの否定はナンセンスです。
 ただ物語の中の都合にも、いろいろな種類があって、物語の外的要因(スポンサーその他含め)もあるし、内的要因の中には、物語それ自身が要請してくる都合と、作者の個人的な都合もあるんじゃないかと。

 これは主観的な印象ですが、小説『リーンの翼』の中でばたばたと死んでいったキャラクターたちは、必ずしも物語それ自身の都合によって死を与えられたものではなかったような気がしてなりませんでした。その死(あるいはその生きざま)が、物語の中で適切に意味を持つ(物語表現の一角を正当に占める)ことができないと、どんな端役であれキャラクターの生は空しいと感じるのです。

 本来、富野由悠季という演出家は、こうした物語の「本線の情」を一貫させる(物語の世界に生命を吹き込む)ことに卓越した才能を持っていると思います。『リーンの翼』におけるこれはテクニカルな問題というよりも、「自分独自のもの」で作品を充たそうとする“作者の都合”だったんじゃないかと私は感じてしまったのです。

 以上は一見ネガティヴ一辺倒で辛らつな評価に見えるかもしれませんが、私にとってはそうした地点から、「あるかも知れぬ事なれば、あるかも知れぬとして聴くのだぞ!」(『ファウ・ファウ物語」)という形で、自意識の井戸を掘るばかりではない物語(ファンタジー)の意味を再構築しはじめた富野由悠季という個性に惚れ直したという経緯があるんですよ。
 なればこその『新訳Z』でありOVA『リーンの翼』ということです。(この両作品については、「なればこそ」が多少の問題かもしれませんが。)

 ちょうど小説『リーンの翼』と対にして語るべきアニメ『聖戦士ダンバイン』について、半径1クリック圏内で話題になっていたりもするんですが、『ダンバイン』はそんな意味ではとってもアンヴィバレントだと思うし、どうもうまく言葉が出てこないので、そこはまた今度ってことで。

 もうひとつ、『リーンの翼』巻末のあとがきにあたる「オーラ・ロードへの遥かな道」はツッコミビリティ満載で思い切り書き殴りたい思いもあるのですが、富野監督にとって克服してきた過去のことを書いてみても世間の誤解を招くだけで意味がないのかもしれないと、ちょっとためらっています。

 それと、読後感想で気になっていることのもうひとつは、作品についてのネタバレ度が高いので、「続きを読む」のあとで。

 以下ネタバレ注意!

オリハルコン・イデ・リーンの翼・・・

アマルガンの満身の力を込めた剣が、電光以上の素早さで迫水の喉に走った。
リーンの翼は、顕現しなかった。

 このシーンを読んだ瞬間に思い出したのは、『イデオン』発動篇でのカララ・アジバの最期でした。あのときも、それまでビームの直撃からさえカララ・アジバを護っていたイデは唐突に彼女を見放し、実質主人公格のキャラクターに与えられる最期としては信じられないような、酷い死を迎えたのでした。

 古くは『海のトリトン』のオリハルコンにさかのぼると思いますが、富野作品における超常の力は、しばしばこのような気まぐれをあからさまに示します。
 “イデ”については以前に触れたと思うのですが、超常の力ではあっても「神」ではない、雑多で混沌そのものである、つまりエゴを備えた存在であるがゆえに、そのような気まぐれを示すと考えてもいいのですが、“オリハルコン”や、ここでの“リーンの翼”についても同じようなことが言えるのかどうか。

 この問いについて、今のところ私には何もアイデアはありませんが、面白い検討課題ではないかという直感だけあります。
 物語の方法論として考える場合には、これに接した読者(観衆)の胸にいつまでも消えないトゲ、わだかまり、何度も反芻して問い返したくなる疑問を(あえて)残したものだと言えるでしょう。
 それはそれとして、方法論を離れて考えたときに、こういう超常の力のあり方というのは、どういう共通した感覚から立ち現れるものなんでしょうか。考えれば考えるほど面白いテーマだと思います。

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> 初めまして!

初めまして!私はガンダム暦20数年になる者です。
囚人022さんの文章を読ませていただき「そう!私はこれが言いたかったのだ!」と心の中で快哉を叫びました。
初めてガンダムを観た小学5年、そして中学生になって富野さんの考えとかテーゼって何だろう?とずっと考えていました。ガンダムやダンバイン等をよりよく知るために哲学書をひも解いたり、政治学の本を読んでみたり・・・。
「リーンの翼」を読んだのは中学~高校あたりです。結構ショックでしたが・・・。
富野さんのことを理解するのは容易ではなかったのですが頭の中では何となく分かってきたつもりでした。ただ、思いを共有する人がいなかったり、私の稚拙な文章力ゆえになかなか言葉と言う形で表出させることが出来ませんでした。
また、結婚・子育てという現実のなかでその時期富野離れを経験しました。
子供たちが大きくなった今、また少しずつ富野作品を観たりしていますが、囚人022さんの文章に触れ、私が当時、そして今思っていることそのままだ!!と。
気持ちがスッキリしました!特に「Z」に関してはなかなか感想の難しい話で、でもそれをスパッと書いてくださっていることに感激しました!
突然現れていろいろ書いてしまいましたが、感動の思いをお伝えしたくて書かせていただきました。
長文申し訳ありません。
これからも読ませてくださいね。応援しています。

> いらっしゃいませ

ありがたいコメントをいただき、本文でお返事しようかとも思ったのですが。どうも近ごろ頭が冴えてませんのですみません。
過分なお褒めの言葉をいただきましたが、私もこのブログを書かせていただいて、いろんな方からご教示をいただいている中で、ようやく少しずつ、富野作品への思いが言葉にできるようになってきたところです。
いつも決して上手いことは言えていないと思います。たどたどしいブログですが、それでも何とかかんとか書き続けていると、多くのことを学ばせてもらえて大変ありがたいです。
またどうぞ、お立ち寄りください。ありがとうございました。

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