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「夢みたくとも夢みるものを持ち得ないということは空でありすぎる」 

[2009/05/11] | 御大 | トラックバック(1) | コメント(1) | TOP ▲

 物語の作者に近い存在の「自分語り」を初期の富野監督が書いたことがあります。『伝説巨神イデオン』の無限力“イデ”のことですけどね。
 小説版第3巻「発動篇」の最後のパートは、物語の謎解きでもありますが、同時に、神の視座にもなり得る物語作者の立場を自己表明したものというように読むことも出来るでしょう。

伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇

 それは「雑多」であり「混沌そのもの」である己への戸惑いから書き始められます。

この己のありようが雑多で、時も所もわきまえずにぐるぐると時空をかき乱して果てる存在のように思えた。それは不愉快なものであると感じる思惟が己の中心にあった。

 このように感じる己はあまりに不定形で、己のありようを示すべきものを有していない。
 けれど、不愉快と感じ得るのは「己があるからであろう」という推測もできる。それは不自然。

 このような「自己嫌悪と己の不在」が始原にあって、イデは「己のありよう」を最小のものとすることを思い立ちました。「その己の賢明さに己がたくわえた思惟は答えてくれよう」というのはイデの「願望」です。

 そうしてまどろみから目覚めたイデは「キラキラと輝く思惟」を見ますが、同時に「それもまたひどく雑多で煩雑」なことに気づきます。

しかし、初めての目覚めにくらべればより明確な思惟の数々を己の中にとりこむことができた。健やかであり得る力を己の中にたぐりこむことができる。

 ただ、その思惟たちは、イデが「最も願望したもの」をかねそなえてはくれない。

 そうしたものを認めることは己を汚すことではないか、とイデが「恐れ」を抱くことについては、私もたしかに「イデのエゴイズム」ではないのかと疑念を持ちます。
 しかし、その恐れには根拠があるのだと、イデは言うのです。「イデ自身が健やかな発生ではないからだ」というのは、「自己嫌悪と己の不在」がその始原にあるからなのでしょう。

己の願望という欲を示すから我が生まれ、我が生まれるからより雑多な欲が発生するのではないだろうか?

 ところで、ここでちょっと『イデオン』の話を離れて、ネットで拝見した富野由悠季論に言及します。

現実に「残酷」という側面は確かにある。その側面を誇張できる虚構を素晴らしいと思うことも多い。
しかし、残酷な展開や描写ができれば良い作品になるかというと、必ずしもそうではないだろう。いってみれば、声優の演技が巧いだけのアニメや、絵が奇麗なだけのマンガといったものと同じようなものだ。作品全体にとっては、「残酷」な描写や展開を用いて、どのような物語を作り上げていくかが重要ではないだろうか。

 この部分について賛成です。ただ富野由悠季作品は「残酷」や「矮小」を克服しようとせず冷笑的に映し続けるだけだという判断には同意できません。
 ですが、hokke-ookamiさんは「嫌い」だけで終わらずに、高橋良輔監督や出崎統監督との対照をちゃんと明示しておられるので、富野作品の特異点を外側から規定してくれているのは、私とは違う立場からの真摯な指摘として興味深い記事だと思いました。

人物の地に足がついた行動ではなく、唐突な言動による事態好転や、人が介在しない架空設定によって救いが与えられる。それは克服ではない。

 主人公たちの「地に足がついた行動」によって「現実の残酷さ」を「克服」することが大切ではないかという問いだと思います。物語の作者として、何故富野はそうしないのか、と。

 「イデ」の自分語りに委ねて、富野由悠季という人は、物語の中の「現実」ということについて自覚的な物語の作者だからではないでしょうか、と私は答えてみたいと思います。

 『ガンダム』のシリーズだけではなく、『イデオン』や『ブレンパワード』などの作品に目を向ければ、現実の大状況の前には自分たちは無力ではないのか、自分たちの努力に意味はあるのかと自問する主人公たちの姿をしばしば見出します。
 読者は、(そしておそらく作者もまた、)それらの「キラキラと輝く思惟」の数々を己の中にとりこむことによって、「健やかであり得る力を己の中にたぐりこむ」ことができます。
 ただ、イデ(『イデオン』という物語を駆動している舞台回し役)は、力としての思惟がとりこまれてくるほどに、己のうちに生じる「ゆらめき」を恐ろしくも感じたというのです。それを「己の我」として放出することは易しい。だが、安易にそれを果たしてしまえば己も滅びよう、と。
 何故でしょうか?それはイデが「自己嫌悪と己の不在」から出発したものであり、それを不愉快に感じることから不確かな「己の存在」を自覚し得たものだから。少し難しいんですが、ゆえに、あいまいに「自己嫌悪と己の不在」を手放すことは、宇宙の深淵に立つ恐怖にも似て「真実、恐ろしいこと」なのだと言っているようです。

 物語の作者は自作の中で無限の力を振るうことができます。そもそもイデ(≒作者)自身が最小限度の自己主張しかしないから、富野作品のキャラクターたちは「雑多で煩雑」なのであって、「イデが最も願望したもの」をはじめから与えることのほうが普通の態度ですよね。(宮崎アニメのキャラクターたちの一途なイノセントさなどは、それでしょう。)
 そして「現実の残酷さ」を克服すべく、地に足が着いた努力を積み重ねる主人公たちに、その無限力の一端を貸して「奇跡」すれすれの成功を与えてほしいというのが、おそらく読者という大衆の望みでもあるでしょう。なので、それをあえてやろうとしない富野の姿勢が、人によっては「冷笑的」に見えるというのも分かります。
 「残酷な状況を描くだけでは創作の意味がない」・・・たしかにそうです。しかし観衆に充足感を与えるだけで物語は意味があるのか、と私は思うのですよ。

 たぶん、そこで「キラキラと輝く思惟」に「克服」を与えることも、与えないことも、双方ともに(そもそも健やかな発生ではない)「イデのエゴイズム」なのだろうと私は思います。
 この『伝説巨神イデオン』という小説では、物語の駆動役を果たしてしてきたイデが作品の最後に前景化してきて物語の描写対象のひとつとなっており、さらにはイデ自身も「エゴ」を持つ存在であることを自覚しているところが比類なく面白いと思います。

己の思惟を与えるのではなく、ただ、あの輝く思惟、イデの中心に輝いた快い光明に似たきらめきを発する思惟に、惑わぬ道を示すだけにしよう

 「イデの発動」について、イデの思いはこれだけのことです。
 「我の現れ」をこれほどに禁じながら、「最も願望したもの」の発現を繰り返し試みることは空しくはないのかと、さすがのイデも自問自答しているようです。

ただ、今度は前ほどに眠りたくはないと思う。
なぜならば己だけで眠るということは寂しいことだからだ。
夢みたくとも夢みるものを持ち得ないということは空でありすぎるからだ。

眠り疲れた夜と昼と、眠り疲れた生命を目覚めさせる刻は決して長くはない。
イデはそう信じ己の行為を空と思いはしない。

 このような物語の語り手の姿勢を迂遠なものであると感じて嫌う人がいるのは分かりますが、主人公たちの努力によって「現実の残酷さ」を克服する解決を与えないことを、富野由悠季は常に「現状認知」に留まっている作家だと言う人が多いことは、哀しい誤解ではないかと私は思っています。
 富野の問題の本源は、「自己嫌悪と己の不在」を繰り返し繰り返し、問い返し続けているところにあるのでしょうから。


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コメント

> 『イデオン』だけでは足りない・・・でしょうか?

トラックバックいただいたkaito2198さんと対話している中で、『イデオン』だけでは足りないという指摘を受けました。自分の文章力のなさでもあるのだろうと思います。
追記になりますが、少し考え直している中で、『イデオン』という作品について私が思っていることを、私よりも的確な言葉で語っているかもしれないと感じられたものを紹介しておきます。

以下引用。
イデオンは、今もって日本のアニメが到達した一つの頂点であると思っています。「哲学」のアニメとは、作品としての語ったことが、一つの「思想」ではなく、考え続けること、問い続けることであったからです。何かを信じることから始まる「思想」や「宗教」ではなく、最後まで問い続けることが「哲学」なのです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa997179.html

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