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『機動戦士Zガンダム』 第38話 「レコアの気配」 

[2009/05/07] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 先日買ってきた『機動戦士Zガンダム』の小説版を早く読みたいんだけど、いちおう以前に自分で「テレビ版の再見を終わってから」とハードルを設けてしまったので、まだ読めないのでありました。

機動戦士Z(ゼータ)ガンダム〈第5部〉戻るべき処 (角川文庫)

 しかし、目の前に人参をぶら下げる必要が?

 なくもないですね。でもつまらないものを我慢して見ているわけではありません。面白いんです。面白いんですけど、しんどいんです。そんな感じ。

 ついに38話。二回目の地球降下からカミーユとシャアが宇宙に戻り、いよいよ終盤の物語に向かっていこうというところ。この回では地上篇の前半から宇宙篇の後半までを、ひとつのエピソードの中で切れ目なく繋いでいっています。『ZZ』の製作決定で後半全体が引き延ばされていますから、このままラストアクションに入っていかないところはシリーズとしてはテンポが悪いんですけど、一話一話が間延びした感じになることはないのは、さすがです。

 のっけからカミーユへの怨念に凝り固まっているジェリドが出てきますけど、個人レベルの小さな勝負にこだわってるだけの、こんなつまらん男では、もうカミーユのライバルというポジションは保てない。冷徹ですね。

 二話前の『永遠のフォウ』ラストで、もうクワトロ大尉とは呼ばない、と突っ張っていたカミーユなんですが、やっぱり「シャア」とは言いにくいし、この回で案外あっさりと妥協。何か微妙な距離感で、それでもシャアについて行くって感じかな?
 この緊迫した場面で(宇宙で会うはずの)カツへの伝言はないかとハヤトに尋ねるカミーユは、いろいろ気配りの出来る優しい少年。ハヤトの「生きていてくれれば」というセリフは、後のことを考えると切ないです。カミーユは気配りのできる子だから、こういうのも記憶のどこかに残っていて、一人一人の死を重く受け止めずにいられなかったのかもしれないなー。

クワトロ 「一昔前の人々は、この何倍ものGに耐えながら宇宙に出た」
カミーユ 「知っています」
クワトロ 「彼らは宇宙にこそ希望の大地があると信じた。自分達を宇宙に追いやった地球のエリート達を憎むことより、その方がよほど建設的だと考えたからだ。地球の重力を振り切った時、人は新たなセンスを身に付けた。それが、ニュータイプの開花へと繋がった。そういう意味では、確かに宇宙に希望はあったのだ」
カミーユ 「よくわかる話です。僕もその希望を見つけます。それが今、僕がやらなくちゃいけない事なんです。(・・・そうしなければ、フォウはオレの中に生き残ってはくれない。)」

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 ハンナ・アレントの『人間の条件』という本を読んだとき、その「プロローグ」で、あ、これが“ニュータイプ”のイメージの源だな、と直感しました。
 「公共性」について述べられているこの本は1958年(!)に刊行されていますが、その書き出しは、前年のスプートニク(最初の人工衛星)打ち上げのことから始まっているんです。

「地球に縛りつけられている人間がようやく地球から脱出する第一歩」というこの発言が陳腐だからといって、本当はそれがどんなに異常なものなのかを見逃してはならない。というのは、なるほどキリスト教徒はこの地上を涙の谷間といい、哲学者は人間の肉体を精神や魂の囚人として眺めてきたけれども、人類の歴史の中でいまだかつて、人々が本気になって、地球は人間の肉体にとって牢獄であると考え、文字通り地球から月に行きたいとこれほど熱中したことはなかったからである。

 「地球は人間の条件の本体そのもの」ですが、その条件から脱出したいという望みを人間は持つ。こうした「与えられたままの人間存在にたいする反抗」についての判断を、職業的科学者や職業的政治屋だけに委ねることはできない。この「プロローグ」でアレントは、生命のあり方や労働のあり方などの「現代的な不安」を例示していますが、彼女はそれに対して「解答を与えようとするものではない」とし、「人間の条件を再検討すること」をこの本で試みています。
 「空想科学小説」について、「それは大衆の感情と大衆の欲望を伝える媒体として注目に値するものであるが、残念なことにこれまでそのような注意を払った者はだれもいない」とも述べています。とても難しい本ですが、非常に興味深い内容です。

 「そういう意味では、確かに宇宙に希望はあった」とシャアは言い、それにカミーユは「よく分かる」と。地球の重力(つまり人間の条件)を振り切る希望に僕は生きるんだ、と熱っぽく同意しちゃってます。

「本当に排除しなければならないのは、地球の重力に魂を引かれた人間たちだろ!」

「排除しなければならないのは、地球の重さと大きさを想像できないあなたたちです!」

 ちょっと先走って最終話の話題になっちゃいますが、『機動戦士Zガンダム』のテレビ版と劇場版で、最も顕著な相違点を示している上記のカミーユのセリフの変更は、この38話でのシャアとの距離感の取り方で既に決まっちゃってるところもあるような気がします。
 ガンダムみたいな“巨大ロボットアニメ”なんて、大衆の感情と欲望にまみれた「きわめて尊敬すべからざるもの」だったんでしょうが、富野由悠季はそういうところでこそ「人間の条件」を再検討していたような気がします。

 しかし、フォウの死をまだ引きずっているところへダカール演説の高揚感も重なって、しかもシャアの操縦しているシャトルに自分の命を預けているという絶妙のタイミングでこういうふうに“オルグ”されちゃったら、カミーユがシャアから自立した独自の視座を持つことは難しいでしょうね。つくづくテレビ版のストーリーテリングは残酷です。

でも、富野喜幸は因果を描く人だから。ファンタジーにおいても原因と結果、そして人の業は描くぞ。

ファンタジーを便利なツールとして描くことはしない!
むしろ、ファンタジーにのまれた時、人がどうなるかと言うことを徹底して書いて、書いて、書きまくっていた。

 つまり、そういうことですね。“ニュータイプ”ってのはファンタジックな方便なんだけど、その方便は「人間の条件」を外側から規定して再検討するために用いられたものだったことを見ないで、観念的にもてあそぶと、ただのSF的ギミックになっちゃう。でも劇場版で『新訳』をやってみせてさえも、それがなかなか通じないんだから、大衆の感情と欲望は真に恐ろしいものなのかもしれません。

 このへんを読めば、製作開始直後の富野監督は、「確かに宇宙に希望はあった」ことをまだ信じたかったのかと思いますが、願望に引きずられずにシビアな思考実験を詰めていった結果、テレビ版のカミーユは、ああいうふうにしかならなかったんですね。(『逆襲のシャア』でのアムロとシャアも同様。)

 38話の後半では、ヒロインたるべきファ・ユイリィのパイロット資質のなさが、これでもかと強調されていて、ファを乗せて出撃させるのはメタスを壊すのと同義だといわんばかりのブライトのセリフには、さすがに吹きました。(笑)
 パイロットの適性だけじゃなくニュータイプの素養も皆無なんでしょうね。ティターンズに寝返ったレコアさんがニュータイプの勘を見事に発揮して、起死回生のクワトロの狙撃をかわしたのと好対照。それでもすったもんだの末出撃して、いちおうアポリーさんの窮地を救う活躍を一瞬見せるんですが、案の定、メタスは壊しちゃいました。(笑)
 それでも、明らかにアーガマの大ピンチでさえ、彼女を出撃させるのはためらわれるというのは、メタスを壊したくないというより、母性の象徴のような彼女を殺したくない、“守るべき存在”としての描写なんだろうかと思ったりしますが、今ひとつよく分かりません。少なくとも、このテレビ版『Zガンダム』では、“母性は強い”という描写はないことは言えるかもしれません。

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>製作開始直後の富野監督は、「確かに宇宙に希望はあった」ことをまだ信じたかったのか

cryin' 今は見えなくとも
searchin' 人を変えてゆく

……という作詞をした富野監督は、やっぱり当初はそう思ってたんでしょうね。
しかし後半の展開を思うと、この前半主題歌の歌詞は何と重いことか。

逆を言えば、前半主題歌ではこのように歌う気でいたのに、
最後は「現状認知」で終わったというのは、
制作中の監督に、いろいろと激しい葛藤があったのかなとも思います。

まあ、私はこの歌詞、けっこう好きなんですけどね(笑)。

> 「夢みたくとも夢みるものを持ち得ないということは空でありすぎる」

・・・という記事を書きました。
zsphereさんへのお返事を書くつもりが、長くなってしまって。(笑)
『Zガンダム』のテレビ版というのは「現状認知」というよりも、「現実の残酷さ」への敗北のような気がするんですね。シロッコを倒したから勝利なのではない。
それはいい。しかし、そこで狂ってしまうことは「空」に屈してしまったことになります。

『Z』テレビ版を基準点にして富野監督を見てる人が多いけど、それだけじゃないでしょ?ギリギリの試みを続けてれば、奈落に落ちる事だってあるでしょ?
そこから這い上がろうとしている姿を何故見ないの?と思うと、私は哀しくなるんですよ。

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