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アニメの『批評』とか、『感想』とか 

[2009/05/05] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 『批評』って何なんだろうと分からないまま、『感想』を書き続けている私なんですが、zsphereさんの上記の設問への反応に興味深いものがとても多かったので、自分の整理用に少しメモしておきます。

まず一応言っときますがいわゆる「アニメ批評」には興味はありません。興味があるのは(というかそうならざるを得ないのですが)、「感想」の方です。個人的には(もうはっきり言いますが)「アニメをダシにした自分語り」以外興味ないし、それしか出来ません。

中途半端な知識、伝聞で書きながらも、そういった用語を使うことで読み手に「批評」と誤解される可能性が高い。「感想」なら、そんな用語を使わなくったって書けるはず。「批評」じゃないんだから。でもそのハードルは高い。たかが「感想」なんていうな、「感想」は実は難しいんだよ。

 とぼふさんの、これは凄いです。実は、ちょっとうるうるっとするぐらいに感動しました。

 たかが『感想』なんていうな!

 『感想』は実は難しいんだよ!!

ぼくはなにが専門というわけではないけれど、批評とはなにかについてだけは、ここ15年ほどえらく真剣に考えてきたという自負があります。
そんなぼくにとって、批評という行為については、もはやなにを論じているか、その対象やメッセージはどうでもよくなってしまう傾向があります。言いかえれば、ぼくは批評をメタ作品というよりも、ベタにひとつの作品として読んでしまうところがある。

 それでちょっとこの文章を読み返してみたんですけど、『批評』という言葉って、普通名詞なのか、(たしか以前にnishinomaruさんがそういうことを言ってたような気がしますが)文芸の中の特殊な一分野を指す固有名詞的なものなのか、曖昧なところがありますよね。
 「批評とはなにかについてだけは、ここ15年ほどえらく真剣に考えてきた」という東浩紀さんの言う『批評』は、「個人的な愛の問題として、日本の文芸批評の伝統は生き残らせたいと感じる」という言い方を見ると後者に近いような気がします。
 ただ、それでも私がこの人の書く文章がけっこう好きなのは、「なにかを愛しているひとの行為は、それを愛していないひとには滑稽に見えるものです」という覚悟がそうさせているのかもしれないな、と思ったりもしました。その「なにか」の中身が『アニメ』な人もいれば、実は『批評』そのものだという人もいるらしいぞというのは、ちょっとした再発見でした。

 もちろん広義の意味での『批評』性(観念的には「アニメをダシにした自分語り」の対極に位置するニュートラルな性格)も世の中で必要とされているんでしょうけど、それはとぼふさんが「アニメ観賞のためのガイドブック的なもの」と言われたものに近いような気もします。(東さん的に言えば、データベース的な批評の消費?w)

 “ちょ、www グダちんさん、挑発的・・・”と思ったりもしたんですが、読み返してみればpsb1981さんの記事も、内容としては意図的な挑発の性格もあるのかな。

 上で書いたことに関連付けて考えると、「面白くない」と思いながら書き続けている感想は、そこに『愛』がないから、単にデータベース的になりがちだという話なのかもしれません。(違うかなぁ?)

ガンダムSEEDのSEEDは「話の種」だと俺は思っていた。消費者にとってはアニメはコミュニケーションツールでええやんと思う

 私はSEEDはちゃんと見てないから、グダちんさん言うところの『エア批評』(笑)になっちゃうんですけど、“SEEDは「話の種」”には、思わず噴いちゃいました。でも後半部の開き直りについては、個人的には首をひねっちゃうんですよね。世代のせいもあるのかもしれませんけど、私はコミュニケーションツールでええやん、とはなかなか思えません。

 むしろ「富野のように反骨のアティチュードを見せてみろ」ぐらいに『愛』の熱量がある文章であれば、それが自分語りに過ぎない『感想』だろうが、世の中を豊かにできるかもしれない『批評』だろうが、私は(きわめて個人的にですが)面白いと思うんですよ。
 だけど「話の種でええやん」という開き直りは、「貧しさ」ではないのかと。いや実際、私なんか貧しい感受性をやりくりやりくりしてますから、ひとのことなぞ言えた身分ではないのですが。

ファウ・ファウは、壁に掛けてある油絵を見て、また、テレビに映っている動く絵を見つめました。
ファウ・ファウには、どうしても分からないのです。
テレビに映っている動く絵は、どう見ても、良くない絵なのです。動くことなんて絶対にないはずの絵なのです。

 アニメというのは、絵としてだけ見れば、「どう見ても、良くない絵」だということを、テレビアニメのマイスターとも言うべき富野監督があえて書いているのが可笑しいですよね。

情報量が桁違いに多い分、そこに解釈の余地はほとんどない。
本や漫画であれば、まだ「自分はこう読んだ」という感想が書ける。
それを読んで、「ああ、そういう風に見たのか」、という反応が返ってくる。
でもアニメくらい情報量があると「正解」に辿りつけてしまう。

 私はこの「決まった正解」が存在するという見方には、どうしても同意できないんですよ。アニメは「どう見ても、良くない絵」でしかないんです。なので言われるように、そこにストーリーや演出や音楽や声優の演技などの諸々の要素を総合していくんですけど、スタッフワークのテレビアニメでは、そのそれぞれの分野を担当する監督がいて、総監督がそのすべてを細部に至るまで完全にコントロールできるわけではないですよね。

「なぜ、動かないものが、動いているように見えるのさ!」
「アニメだからよ」
「でも、動くのって、命があるから動くのでしょ?この絵は、命がないわ。動いてはいけないものが、動いているなんて、とても気持ちが悪くない?」
「気持ち悪い?」
エミコは、ファウ・ファウが、何か別のことを言おうとしているようだ、と感じました。

 『命』の創造というのは奇跡のような偶然が積み重なって為されることで、でもだからこそ感動的なんだと思うんです。それは優れた技術なくしては出来ないかもしれないけど、でもいい作品を創ろうという『愛』の熱量もそこにはあって欲しいと私などは思わずにはいられません。
 諸々の要素の総合について語るので、ただの感想でもつい長くなり、『批評』に似た外見になるという指摘はとても納得の行くものでした。それが読者に分かりやすくデータベース的に整理されればされるほど、『批評』と区別がつかないものになるのかもしれません。

 でも、繰り返しになりますが、それが自分語りに過ぎない『感想』だろうが、世の中を豊かにできるかもしれない『批評』だろうが、かまわないんで、私は『愛』の熱量がある文章を面白いと思うんですよ。
 たしかに『愛』なんざ銭にもならなきゃ喰えもしないものかもしれないけど、何となれば誰かの『愛』に応え得るものといえば、(たとえどんなに貧しくとも)自らの『愛』でしかないじゃないですか。

 しかし『愛』について語ることほど、難しいものもまた、ないですよねぇー。(苦笑)

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[tag] アニメ fc2ファビコン

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コメント

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言及ありがとうございます。
僕は挑発的ですね。(笑)

SiTube氏の
「消費者にとってはアニメはコミュニケーションツールでええやんと思う」
について、私は「消費者にとっては」コミュニケーションと言うことだと思います。
つまり、消費するだけの人や、消費するためだけの作品と。
消化して血肉にできる場合があるんじゃないだろーかと言うことです。
まあ、そういう作品についてもこうして語り合えるコミュニケーションツールになりますけどね。
私としては、作品の立ち位置も、それに触れる時の受け手の態度も、臨機応変にいろいろとあると思います。

> ちょっと補記

>『批評』という言葉って、普通名詞なのか、(たしか以前にnishinomaruさんがそういうことを言ってたような気がしますが)文芸の中の特殊な一分野を指す固有名詞的なものなのか

「批評はうざい、面倒くさい」・・・とは私は言いたくありません。(http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-1373.html)

ここでNishinomaruさんからいただいたコメントにあったのでした。この指摘は、この種の話では大事なポイントだと思います。

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