スポンサーサイト 

[--/--/--] | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | TOP ▲

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『機動戦士Zガンダム』 第37話 「ダカールの日」 

[2009/05/04] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 恥ずかしながら、約ひと月ぶりの『Zガンダム』再見日記です。さすがにレンタルし直してきて見返したんですけど、意外にも違和感もなく、飽きもせず。不思議なもんであります。富野アニメでは例外的に、気持ちのいい「完」に向かっていく物語ではないことは、当然分かっちゃいるんですけどねー。

機動戦士Zガンダム 10 [DVD]

 劇場版ではオミットされたエピソードのひとつ「ダカールの日」。シャアとカミーユの二回目の地球降下自体が、『ZZ』の製作決定で引き延ばされた『Z』後半エピソードの一環なのだろうなーと思いながら見ておりますが、再登場したアムロがなかなかカッコいいセリフを言っています。それはいいんですけど、この後の展開(『逆襲のシャア』まで含めて)を知っていると、微妙ですよねぇ。

 それにしても、この回の作画の悪さは何なんでしょう?今だったら「作画崩壊」と騒がれてもおかしくないレベル。

 一話完結のエピソードとして見てみると、この「ダカールの日」のシナリオは最後にカタルシスもあって、物語としての出来はいいと思います。で、シリーズとして見た場合にも、エゥーゴとティターンズの力関係が逆転する契機になった重要なイベントだから、劇場版でこれを削ったことは理解できない、なんて意見をよく聞くわけなんですが、そこははて、どうなんでしょう?w
 世論も無関係ではないんでしょうけど、エゥーゴとティターンズの戦いって、戦争ではなくて紛争レベルに留まっていて、善良な市民さんとかの好きそうな言い方をすれば、“セクト間抗争”というような印象が個人的にあります。以後のストーリー展開を考えても、まあティターンズが(少なくともテロ集団のエゥーゴと同レベルぐらいには)危うい主義者の集団だという認識が、スペースノイドだけではなくアースノイドにも知られる契機にはなったのかなぁという程度じゃないでしょうか。

 そんなことより、この37話で見ていて不思議な感じがするのは、この回のまさにカタルシスになるラストで、主人公カミーユが「人って絶対に分かり合える」などと、ちょっと感極まった感じで言っていることのほうです。
 このエピソードのゲストキャラとして、アジス中尉というティターンズのパイロットが出てきて、彼がベルトーチカやカミーユとのつかの間の接触を機にして、それまで信じ込んでいた自陣営の正しさを疑うようになる(おかげでジェリドはまたしても、恨み重なるカミーユを倒すチャンスを逃す!)っていう、おおむねそのことを指して「分かり合える」と無邪気なことを言ってるわけですが、ちょっとへそ曲がりなことを言うと、私なんかはいかがなものか、と思わずにはいられない感じです。

 先日、『聖戦士ダンバイン』の話でもちょっと触れましたけど、富野アニメの思想的な極北としては、『伝説巨神イデオン』で示されたような、人間というのはつくづく度し難い“業”を背負ったものだという視座があると思うんですね。“ニュータイプ”というのもご都合主義的な見方をされがちなものなんですけど、この地上にウィルスのようにはびこっている、度し難い人間というやつが未来を迎えるためには、何らかの“人の革新”が必要なのではないかという、富野由悠季という人物なりのギリギリの思考実験のような気がするんですね。(「人の革新」ということについて、そこの、つくづく度し難い人間、という重さをしっかりと描き切れないと、ただの能天気なSF的ギミックになってしまうんじゃないかと。)

 『機動戦士ガンダム』で富野由悠季がかろうじて見出したニュータイプという観念は、しかし、そのように実に簡単に一人歩きを始めてしまう危うさがあって、富野監督は自ら手がけた続編である『Zガンダム』という作品を、ニュータイプというものをもってしても結局人間は「分かり合えない」(人間はやはり度し難い)というカウンターとして描くしかなかったと思うんですよ。(そのために、前作では超能力的なものとは一線を画すことにあれだけ尽力したニュータイプというものの性格を一変させてしまっています。)

 クドクド書きましたが、要はそういう富野アニメの、『Zガンダム』の主人公であるカミーユが、この回に限って「人って絶対に分かり合える」などと能天気に言うのは、何たることかと。
 (二周目の)フォウ・ムラサメの死を経てきて、カミーユはもの凄く追い詰められた心情にあるのがこの回だと思うんです。キツイ言い方をすると、ここで「人って絶対に分かり合える」などという、はかない希望に取り付かれてしまったことが、むしろ最終回で彼の神経がもう持たなくなってしまう遠因になってしまっているとさえ言えるかもしれません。(『イデオン』発動篇の絶望的な戦況の中でさえも、ユウキ・コスモはその最期まで、つくづく度し難い“人間の業”を直視し続けました。)

 だから、『Zガンダム』というのは、実に際どいバランスの上に人間ドラマを刻んでいるなぁと感服するんですが、こんなところでカミーユにあらぬ希望をみせるというのは、とても残酷なストーリーテリングなんですね、私が思うには。あらぬ希望をついつい見たがってしまい、そこにしばしばカタルシスさえも感じるのが人間だという言い方もあり得るかもしれません。
 そんな、たいそうな話ではないんですよ。ほんのちょっとした視点のずらしで、状況の見え方が全く変わることがある、という、その一点さえ体感されさえすれば、劇場版の『新訳Z』という作品には(少なくともテレビ版以来のファンにとっては)深い意義があると私は思っています。
 それにしても、テレビ版の『Zガンダム』という作品は、いろいろ事情はあったにしても、本当に残酷な作品だったなぁと改めて思う37話でした。

関連記事

この記事のはてブ はてブの数 livedoorクリップ クリップ数 Webスカウター情報

permalink | トラックバック(0) | コメント(1)

[tag] Zガンダム fc2ファビコン

TOP ▲

コメント

> 新訳Zって人気ないんすかね?

はじめまして!
通りすがりでコメントご容赦下さい.
とても興味深く,わかりやすく,なるほど!と読ませていただき,
すごく共感させていただいたので,コメントさせていただきました.

ダカールの演説が切られたことに関して,
俺も驚きはしましたが,同時にいらねぇもんなとも思いました.
あの話はシャアが云々とか演説が云々とかより,
囚人022様が書かれているように,過剰ともなり始めたカミーユの使命感とか,追い詰められていく精神とかそっちのが強調されてたような記憶があって,しかもその彼にうながされて,やっとやる気になるクワトロの無能さばっかり気になりました.
本当だったら,支えてあげないといけないのに.

自分はVやF91の世代の人間で,あまりシャアに感情移入してないというのもありますが,
それにしたって初めてZを観た中学生当時,何で彼に心酔する人がいるのかまったく分かりませんでした.
だからそのダメさをダカールを使わず,さらに強調した映画はすごいと思いました.
そして,救われたカミーユ.とても意義のある作品だと思います.
オタクに向けた,オタクのための映画だと思いますが気づいてくれない人が多いのは残念です.
でも,その残酷なストーリーテリングを徹底しているところに,TV版Zの魅力はあるとも思うのですが….

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://zmock022.blog19.fc2.com/tb.php/1444-85b92be2

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。