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『機動戦士Zガンダム』 第36話「永遠のフォウ」
[2009/03/31] | 感想系 | トラックバック(1) | コメント(6) | TOP ▲
『Zガンダム』のテレビ版を見直し始めて、しばらく経って思ったのは、ファ・ユイリィがひたすら走り続ける、あのエンディングのことです。
その昔はただ単調で退屈なEDだと思っていました。だけど劇場版の『新訳Z』を経てきて、久しぶりにこの映像を見たら、山場の「♪ ああ 傷つけあう前に できること探して PLEASE」のところで、ファの広げた腕の中に飛び込んでくるカミーユの、ごく短いワンカットを見て、思わず“じーん”としてしまいました。何てことはない、『星の鼓動は愛』のラストとそれが重なっているという、それだけのことですけどね。
『映像の原則』を読んでいても、実はそのことを思い出していたのですが、ファは舞台で言えば下手(画面左側)から上手(画面右側)に向かって走り続けています。この「下手→上手」の方向で統一された映像は、「上昇志向を喚起してくれて期待を抱かせるが、いつも力強く、厳しいという印象を植えつけるだけで、あまり長く見せられると疲れます」という性質だと書かれています。何て言うか・・・これぞ、まさに『Zガンダム』の物語を象徴する映像だったのかもしれませんね? w
もうひとつ言うと、真横からのアングルのような絵は、解説図のような性格があるので「物語の映像世界では、原則的につかってはならない」ものだとも書かれています。斧谷稔(=富野由悠季)による、このEDは、(ひいてはこの作品自体が、)かなりの確信犯だったのだなぁと痛感させられました。
ここでのファ・ユイリィというのは、単に主人公カミーユのガールフレンドというのではなくて、困難に満ちたカミーユの物語、彼が最終的に帰るべき場所へ迎え入れられるまでのすべてを見つめ続ける、いわば私たち観衆の代表でもあるのでしょう。その役割ゆえに彼女は特別なヒロインであり、物語がスタートした時点から、本来そのシーンにたどり着くべく構想されていたはずの物語は、気が遠くなるような時間を経て『新訳Z』でようやく、それを果たすことができたのではなかったでしょうか。
オンエア当時、あまり熱心な『Zガンダム』の視聴者ではなかった私は、フォウ・ムラサメというキャラクターにそれほど深い思い入れはないんですね。
いったん(それも感動的に)死んだかに見えたキャラクターが、「実は生きてました」という展開は、『宇宙戦艦ヤマト 完結篇』で沖田艦長がよみがえったときに、自分の中で何か大切なものがガラガラと音を立てて崩れ去って以来(笑)、大の苦手でもあります。
36話「永遠のフォウ」と37話「ダカールの日」とは、劇場版『新訳Z』では取り上げられなかったエピソードで、テレビ版の熱烈なファンの間からは、“あんな重要なパートを何故!?”という声も出ていたところでもあるのですが、ゲームじゃあるまいしフォウ生存エンディングなんてものはあり得ないし、あっちゃあならない。となれば、好きなキャラクターであればあるほど、ご丁寧に二度も殺されなくったっていいじゃないかと思ったりもするんですよ。映画の短い尺の中であれば、なおさらでしょう。
特にこのフォウって子は、強化人間ってことだけど、メンタルをやられちゃってる子という意味では思いのほか身近な感じもあって、見ていると本当に痛々しい。
そこへ持ってきてカミーユとの悪因縁がどうしようもなくこじれてしまっているジェリドが登場してきてしまっては、「うひゃぁー」と思わざるを得ない。こいつももう、カミーユと見れば戦いの中で戦いを忘れてしまって能率悪いことこの上もない行動パターンしか取れなくなっています。(しかし、敵とはいえ松葉杖を突いている相手を思い切り崖下へ突き落とすカミーユにはビックリしましたよ。 w)
こう悪い要素が重なれば、こうしかならないというフォウの悲劇は、まあアレとして。このところのクワトロとカミーユの断絶が、ここで決定的になるエピソードとして、今回は印象に残りました。
宇宙からたまたま降りてきてしまったばかりのクワトロにキリマンジャロ攻略の指揮権が委ねられるんですけど、フォウのことで頭がいっぱいのカミーユは「あてにならない」と突き放す。「これは戦争だぞ」と言ってみてもカミーユに伝わるわけがないじゃないですか。まあ、こんなふうだから、後に『逆襲のシャア』では、彼自身が“強化人間”を戦場に投入してくるわけですね。
「戦士は生きている限り、戦わねばならんのだ」というセリフはかっこよく聞こえるけど、むやみにそういうふうであるから、アムロが言う「人は同じ過ちを繰り返す」というメビウスの輪から抜けられないんだって。
カミーユが「あなたはシャア・アズナブルに戻らなくてはいけないんです」と最後に言うのは、次回「ダカールの日」への前振りでもありますが、これはある意味ではカミーユのほうからクワトロを突き放した一言だったとも言えるんじゃないかな。
劇場版では、カミーユからのこれはなかったというか、クワトロが一人で勝手に自分の世界に行っちゃってたような気がしますね。その差は案外大きいのかも。
このカミーユとクワトロの二度目の地球降下全体が、『ZZ』製作決定で引き延ばされた『Z』後半エピソードの一環なのかなと思うんですが、フォウの悲劇二周目、ジェリドとの悪因縁の泥沼化、そしてクワトロとの決定的断絶というすべてが、“本来、最終的にカミーユがたどり着くべきだったラスト”に物語が行き着きようをなくしてしまう、フラグ立てになってしまったような気がします。
コメント
EDの定番
映像の原則!
http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-236.html
この前自分も似たようなものを書いたんですが、今読み返したら全然意味不明で恥ずかしいです…。
いやいや、
前期と後期の微妙な違いは何となく気づいていましたけど、ちゃんと書いてる人はkaitoさんしか見たことなかったです。
画面上での位置にも言及しておられましたけど、『映像の原則』では画面左上は「横に真っ直ぐに移動する」「手前にくる感覚は少ない」モメントを持つ、でしたね。やっぱりkaitoさんの記事にインスパイアされて、この記事は書いたような気がします。
確かに「定番」の表現ではあるのですが、どうもそこにもの凄く観念的な意味性を持たせているのが、このエンディングではないかと思うのですよ。
下手上手という観念(アイデア)はご承知の通りもともと歌舞伎用語でして、さらにさかのぼると下手は橋懸りと呼ばれました。橋懸りとは能舞台の観客から見て左手にある橋のことです。
役者が下手→上手に動くと徐々に小さくなるように見え、逆に上手→下手に動くと徐々に大きくなるように見える、という一種の錯覚・錯視なのですね。
Ζの歌
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