「芸能」について その2 

[2006/01/14] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

『「芸能と差別」の深層』(対談=三國連太郎+沖浦和光、ちくま文庫)について、前回に引き続き、読み進めていますが、未だに読み終わりません。まったく学のない私であります。しかし読み進めるにつれ、「富野監督もこれを読んだに違いない」という印象が、確信的思い込みになりつつあります。(笑)

役作りには「特別に繊細な心と頑強な身体」を備えることが重要だという三國さんの話も、御大の言っていることと通じる気がします。役者も「哲学」を持ち、「人間を取り巻いている社会的な諸関係」についてちゃんと考えねば(勘がいいだけではダメ)、という話。富野監督が、何かそういうマジメなことについて発言しても、「たかが漫画映画の監督風情が・・・」と、世間が鼻白んで聞いている印象を思い浮かべると、「芸能者」は「河原者」と呼ばれ、賤しい人たちだと思われてきたという歴史は、決して過去のものではないのかな、と考えながら読みました。

芸能について考えながら読んでいくことで、例えば『∀ガンダム』の中で、レット隊というヒッピーのような格好をした人たちが、「♪月のたぁーまーよぉー・・・・」と踊り狂う姿を見たとき、「これは何だろう?」と正直思ったことについて、あれは富野監督がクリエイターとして、原初的なシャーマニズム(=呪術的な所作)への率直な共感を、ああいう形で表していたんだろう、と思えるようになりました。
これはひとつの象徴なので、装飾的な衣服、仮面、楽器、そしてさまざまな「呪具」「呪文」を駆使して、「忘我・恍惚・憑依の状態」を起こす「呪術儀礼」が持っていた、演劇的・音楽的な象徴性が、「芸能の奥深い始原」と考えた場合に、アニメもこれに連なるものと考えることは、真剣に考えようとすればするほどに、きわめて本質的な視点だと思えます。
富野アニメの話のテンポが早過ぎるというのもよく言われることですが、「ノリ」という言葉は「乗り」であり、神が乗り移ってシャーマンがエクスタシーに入ることだという語源を聞けば、ストーリーの説明的描写よりも監督が何を優先しているのかが分かるような気がします。

今日、アニメの持つ社会的な影響力が認められはじめ、一部ではあっても世間的な地位を認められる作者も現れてきたときに、こうした本質的な部分を忘れると、形式主義からやがて形骸化に繋がっていくということを、伝統芸能や既存の「芸術」の歴史は示しています。

「物語」とは、「モノ」を語るもの。「モノ」とは、日本語の最も基層にある言葉で、多義的な意味を持つ。(物の怪、物に憑かれる、物忌み・・・。)
「モノ」は畏れつつしむべき大自然の神々の威力のようなものを漠然と表象する言葉。聖俗の分化(自然の恵みと災い、創造と破壊、善悪、正邪、浄穢・・・)以前の、渾然一体とした力。
富野アニメの「物語」は、まさにこうした「モノ」を語ってきているように思えます。(そこが難解だといわれるゆえんなのでしょうが。)

学のない私には、こういう本は、なかなか読み進めるのが大変です。それこそ学のある方々がお読みになったら噴飯ものな感想文(お勉強ノート?)かもしれませんが、続きはまたそのうち書いてみたいと思います。

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