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富野由悠季の「物語」再考・・・『ファウ・ファウ物語』「あとがき」から 

[2008/12/13] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(2) | TOP ▲

 1985~86年に発表された、一般にはあまり知られていない富野由悠季の小説『ファウ・ファウ物語(リ・ストリー)』について、ここ何回か、実験的なファンタジー小説(ファンタジックな実験小説?)という読み方をしてきています。

ファウ・ファウ物語〔リ・ストリー〕 (下)

 これはごくマイナーな作品だけど、とても大事なところにさわっているような気がするということを、なかなか思うように伝わる書き方ができずにいるんですが、もう一度、この作品の「あとがき」を読み直しながら、話をまとめてみたいと思います。

  1. この小説は、富野由悠季のライフワークと言われる異世界ファンタジー“バイストン・ウェルもの”のひとつでありながら、同シリーズのほかの作品と異なり、童話風でほのぼのとした雰囲気に仕上げられており、暴力や性に触れた描写がほとんどない。富野小説のそういう側面を期待して読むと、「面白くない」で終わってしまう作品である。
  2. この作品ではイーグルスの『HOTEL CALIFORNIA』(1976年)が、象徴的な音楽として表現されている。『ファウ・ファウ物語』が『ニュータイプ』誌上で連載された1985~86年というのは、『Zガンダム』の時期でもあり、次作への期待と、思うように製作が進まないプレッシャーの中からイーグルスが生み出した『ホテル・カリフォルニア』には、当時の富野監督の意識に強く響くものがあったと思われる。
  3. 手塚治虫が、まんがという「記号的」な表現による傷つかず死なない身体をあえて傷つき死んでいく身体としてとらえ直し、その相反する場所でまんがを描いていくという困難さが、戦後の日本のまんが界の表現を豊かにしてきた。手塚と師弟関係にある富野由悠季の初期作品群は、その問題意識を「テレビアニメ」というフィールドで継承発展したものだと総括することも可能である。
  4. しかし、「死」あるいは「性」といった肉体性を伴ったテーマをマンガやアニメが扱うことが一般化してくるにつれ、これらについても「記号的」に受容する(今日でいう「オタク」的な)傾向が受け手側に萌芽するようになり、この状況の中で「物語」を描き続けることの意味を再考する必要を、富野は感じていたのであったかもしれない。

 以上のようなことを前提に置いておいて、『ファウ・ファウ物語』の作者による「あとがき」をもう一度読んでみます。

 このあとがきでは、物語を物語ることへの深い懐疑と、そこで得た一つの諦観、そして啓示のようなことが語られていると思います。

 崇高な思想家でもない自分の「曖昧な意識」から生み出された物語では、「虚構を現実まで引き上げさせる力など持たせられるはず」もなく、仮にそうした意識が持てたとしても、そのありようを明快に表現するだけの才能がないかもしれぬ(「それだけでない別の理由」)という自嘲。しかし、それでも「昔から人を支配したであろうなにかに迫りたい、という欲望を捨てきれない」自分というものを、富野由悠季は、まず自覚しています。

 曖昧だった「意識」から、『ガンダム』の製作を経て、ようやく思い至ったことは、『めぐりあい宇宙』のラストシーンが象徴するように「人の意思は、孤立して存るものではない」という当たり前のことでした。
 しかし次の瞬間には、「が、そうだろうか?」という「疑問」にぶつかります。そう思わざるを得ない「賢しさを、人は一杯もっているのではないか」。「それは、一般に言われる、例えば、企業が個人を抹殺する、と言った程度の認識ではなく、もっと根深いもの」であり、「危険を恐れずに言うなれば、人は、本来、庇護されたいという習性を持ち、孤立できず、独自の個の存立などはあり得ないという事実」である。これは例えば『イデオン』などで追求した人間の業の問題でしょう。(その「危険」を自覚している点にも留意が必要ですね。)

 このあたり。最近もよくおっしゃってますが、「個性」を絶対のものとして何ら疑わない傾向への懸念ですね。「公共性」の問題かもしれません。「共存するためには、その群の意思に従って、妥協する知恵がなければ、村八分になって、暮らしていけなくなるのです」とはそのことでしょう。
 それが本来のありようだと。
 「個人の独立性、自由」というのは、本来は「夢と希望という名前でもって」語られるべきもの、語られねばならないものなのだと。

 しかし、そうした夢や希望がなくては、人は生きられない。
 そのためにこそ、「自然への畏敬と感謝がないまぜになった夢物語が、口から耳へ、耳から口へと語り継がれ」てきたのである、と。古来、人々が物語を必要としてきた意味とは、そうしたものであると。
 「口先だけのものではなく、文字の中だけのものでもなく、まして、意識の中に封じ込められただけのものでもない」、というのはつまり、「記号」に回収されきってしまうものではない「現実を支えるもの」としての物語が語られなくてはならないのだということでしょう。

 このとき、「『あるかも知れぬ事なれば、あるかも知れぬとして聴くのだぞ!』と言うに似た言葉」を、富野由悠季は聞いたと言っています。そのときからバイストン・ウェルは、「個人の創作物以上に、現実のものになった」のだと。「それが、ぼくにとっては、バイストン・ウェルでした。」と。

 しょせん虚構だよ、という(記号論的な)言い方も可能な「物語」というものを承知の上で、むしろだからこそ『あるかも知れぬ事』として捉えなおさなくてはならない。「我々は意思して物語を創出して、昔ならば、森が残しておいてくれた物語を、今、語り継がれなければならない。」

 それはなぜなら「アニメとかコミックスとかパソコンとか、ホビーの世界だけのことではなく、政治や金融や科学技術の研究開発の世界」まで含めた現代社会の全ての分野で、「一見、社会全体を支えているように見える各種のスペシャリストたち」が、「それぞれの壁を作って、その中に閉じこもって」、「世界を大観することを忘れてしまっている」からこそ。

 しかし、その記号論的な捉え方のほうが現代社会の現実なのだから、『あることなれば、あることとして、認めなさい』という圧力は、間断なく押し寄せてくるものでしょう。その言い方に対抗するのが、「あるかも知れぬ話なれば、あるかも知れぬと思い、繰り返す物語とした……」という一種の決意表明なのではないでしょうか。

*

 ところで、「『あるかも知れぬ事なれば、あるかも知れぬとして聴くのだぞ!』と言うに似た言葉」を富野由悠季はどこから聞いたのでしょうか。
 その答は、この「あとがき」の中には見当たりません。しかし暴力や性といった本能に直接訴えるエンターテイメントを排し、作中で“ファンタジー”であることの楽屋裏を読者向けにあからさま以上に語りかけてくる、この『ファウ・ファウ物語』を読んでいると、それはクライマックスでバイストン・ウェルの扉が開くとき、どこからともなく聞こえてくる歌、『HOTEL CALIFORNIA』に接した中で、富野の内に生じた啓示ではなかったかという想像をすることができるような気がします。

 架空のホテル「カリフォルニア」は素敵なところで、みんな幸せそう(Such a lovely place... Such a lovely face...)。たくさんの部屋があって、一年中いつでも部屋が見つけられるよ(Plenty of room at the Hotel California... Any time of year, you can find it here)。魅力的なヒロインに心奪われて、踊り続ける人々。・・・だけど、ここは天国なのか地獄なのかと自らに問う自分もいる(And I was thinking to myself, "This could be Heaven or this could be Hell")。

So I called up the Captain, "Please bring me my wine"
He said, "We haven't had that spirit here since nineteen sixty nine"

 イーグルスは、この謎めいた歌詞に暗喩を込めているんですけど、1969年というのはウッドストックという伝説的なロック・コンサートが開かれた年で、ロックが市民権を得ていったのとひきかえに商業主義に陥っていく契機ともなったイベントとのことです。「ワインを」と言われたのに、「そんなスピリットは1969年以来ございません」というのは、スピリットに蒸留酒とロック魂の意味をひっかけているんだという話。
 ただ架空の物語ではあっても作者の強い意識を暗喩としてそこに込めたことで、普遍性を備えているところがやはり名曲なんでしょうね。富野由悠季は、このフレーズは作中で用いてはいないんですが、“テレビアニメは「アニメブーム」以来、そんなスピリットは…”と思いながら、この曲を聴いていたかもしれません。

 みんなホテル・カリフォルニアに住んでいる。……アリバイを作ってさ(They livin' it up at the Hotel California... What a nice surprise, bring your alibis)。
 何かと口実を設けては、人々は物語の空間に逃げ込まずにいられないということは、これは認めざるを得ないのではないか。
 富野由悠季は、作中での『Hotel California』の引用をここで止めているんですが、本当はこの曲は、ここからこそが富野好みのアンビバレントなクライマックスなのですよね。

 ・・・「われわれは皆、みずからの意思でこの物語の空間に囚われの身となったものたちだ。」広間では祝宴の準備が整い、人々はナイフを突き立てるが、誰ひとり内なる獣を殺せない・・・。

 覚えている最後のことといえば、出口を求め走りまわっていたことか。元の場所に戻る出口をなんとかして見つけなければ・・・。夜警が言った。「落ち着いて。運命を受け入れるしかないのです。チェック・アウトは自由ですが、ここを立ち去ることなど永久にできませんよ」

 ただ、あえてここまで描かなかったことにも意味があるんだろうと思います。それはたぶん、バイストン・ウェルの物語の存在理由が、「想像力を想像する」ということにあるからではないかと私は思います。そして、この後も富野由悠季が出口を求めて走り回り続けていることは、皆さんもよくご存知のとおりです。

 ただし、繰り返しますが、この『ファウ・ファウ物語(リ・ストリー)』は、「物語の物語」、いわばメタフィクションというような構造を備えてはいますが、外観上はあくまで子ども向けの体裁を保っており、一目でメタフィクションと分かるような小難しげな様相を示してはいないところが、むしろ秀逸なのです。それから、これは強くそう感じたので最後にもう一度、書いておきますが、「オタク的想像力」なんて本当にあるのでしょうか、それは単なる想像力の欠如ではないのでしょうか?

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コメント

> 「かのように」

森鴎外の小説のタイトルを借用すれば「かのように」ですね。鴎外の著作は青空文庫で読めますです。

> うわ、これは面白い!

http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/678_22884.html
こちらですね。

「秀麿は平生丁度その時思っている事を、人に話して見たり、手紙で言って遣って見たりするが、それをその人に是非十分飲み込ませようともせず、人を自説に転ぜさせよう、服させようともしない。それよりは話す間、手紙を書く間に、自分で自分の思想をはっきりさせて見て、そこに満足を感ずる。そして自分の思想は、又新しい刺戟(しげき)を受けて、別な方面へ移って行く。」

あ、このへんで気に入っていてはいけないのですね。(笑)

「小説は事実を本当とする意味に於(お)いては嘘だ。しかしこれは最初から事実がらないで、嘘と意識して作って、通用させている。そしてその中(うち)に性命がある。価値がある。」
「人生の性命あり、価値あるものは、皆この意識した嘘だ。第二の意味の本当はこれより外には求められない。」

うわ、これだ!

「そうだね。てんでに自分の職業を遣って、そんな問題はそっとして置くのだろう。僕は職業の選びようが悪かった。ぼんやりして遣ったり、嘘を衝いてやれば造做(ぞうさ)はないが、正直に、真面目に遣ろうとすると、八方塞(ふさ)がりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ。」
「八方塞がりになったら、突貫して行く積りで、なぜ遣らない。」

大変面白かったです。森鴎外って、あまり読んだことなかったんですけど、これはいいですね。よいものをご紹介いただきました。ありがとうございました。

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