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『ファウ・ファウ物語(リ・ストリー)』 これは富野由悠季の重要な小説です! 

[2008/12/08] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(17) | TOP ▲

 ずっと前に上巻だけをブックオフで見つけ、久しく気になっておりましたが、今回ようやくにして下巻を入手。
 なんと不思議な物語なるよ!・・・というのは、物語の内容がというか、本のタイトル(=主人公の妖精の名前)にも語感が似てますけど、“ふわふわ”として、まったくつかみどころが分からない、そういうお話なのでした。ちょっと長くなりますから最初に言っておいてしまいましょう。私はこの作品、大好きです!

ファウ・ファウ物語〔リ・ストリー〕 (上) ファウ・ファウ物語〔リ・ストリー〕 (下)

 上巻を読み終わってから下巻を見つけるまでに間が空いてしまったわけですが、あまりの不思議さに、下巻のほうを読めば私が思っているような“富野小説”になるのかなーと思っておりました。

 甘かったっ!(笑)

 そもそも下巻を読み始めた瞬間に、頭の上に大きな「?」です。自分は何か間違ったんじゃないのか?・・・話が繋がらない?

ファウファウ物語(リストリー)
ニュータイプ 角川書店
1985年4月号~1986年12月号(全21回)
*1:原題「ファウファウ物語 From BYSTON WELL STORIES」。
*2:連載第11~13回は文庫版未収録。
*3:連載挿絵第1~10回藤井勉、第11~21回大森英敏

 連載3回分がすっぽりと未収録?kaitoさんのおかげで、自分の間違いではないことは分かりましたけど。これはいったい・・・?

2009/2/13 補記

 kaito2198さんの真摯な追求のおかげで、上巻と下巻の間に未収録ページがあるのは初版(ともしかしたら第二版)だけだということが分かりました。ここで欠落しているのは、本来の第十七章「魚の話」から第二十二章「本番」までの77ページ相当分であるようです。ミス・・・とは考えにくいので、意図だったのではないかと思うのですが、結局は本来の形に戻したということらしいです。

 この小説は、富野由悠季のライフワークと言われる異世界ファンタジー“バイストン・ウェルもの”のひとつです。小説メディアの出版順でいうと、『リーンの翼』(小説版のほう)と『オーラバトラー戦記』の間に入ることになります。
 富野マニアの皆さんにはお断りするまでもないですが、特にこの前後の二作では「生首ブッとび腕がちぎれる世界」=バイストン・ウェルという面があります。しかし、その狭間にあって、この『ファウ・ファウ物語』には吹き荒れる暴力もなければ、性的描写もまったくありません。そして、そういう期待と違うから「面白くありません」と、一読して二度と手にしない人が少なくないだろうという作品なのは事実。
 でもですね。「オタク的想像力を作ったのって高橋留美子と富野由悠季じゃん。オタクのお母さんとお父さん(笑)。」とまで言われている富野監督が、まさに「オタク」的想像力の爛熟しつつある80年代半ばに、『ニュータイプ』というオタク濃度の濃い場所で、こうした発信を試みていた。成功不成功はひとまず脇においておいて、ここで「何故?」と問い直す感覚ぐらいはあってもいいんじゃないかと私は思わずにはいられないのですよ。

  • 手塚治虫が、まんがという「記号的」な表現による傷つかず死なない身体をあえて傷つき死んでいく身体としてとらえ直し、その相反する場所でまんがを描いていくという困難さが、戦後の日本のまんが界の表現を豊かにしてきた
  • 肉体というのは、わかりやすいところでは、「死」とか「性」とかいうことが関係してきます
  • アニメのキャラを、自分の「性」の対象として偶像化していったのが、70年代の「おたく前史」ではないか
  • ファンの側が勝手に「性」を読み取る一方で、アニメの製作者側は「死」を描きました
  • それ以前の作品でも、死をきちんと描いているアニメは存在しますが、受け手の方がそれを肉体的に受けとめて、性的なものと合わせて受容し、ファン活動という形で顕在化していった歴史は、この時期から始まったことのように思います

 上記は、少しさかのぼって1970年代末の状況について、ササキバラ・ゴウさんの「おたく的なものの起源を考えるためのメモ」の一部。

 ここで「テレビアニメは、いかにして肉体的な表現を獲得していったのでしょうか?」という問いに対応するのが手塚門下の富野由悠季の初期作品群だと私は思います。(「“皆殺しのトミノ”は伊達じゃないっ!」と私は言いたい。)
 しかし例えば戦争を知らない世代が「死」さえも記号的に受容していったのが’80年代のオタク状況だったとするとき、そのA級戦犯と名指しされた富野監督はただ傍観していたのではないと私は考えます。富野アニメに見られる、ときにあっけなくも無残であったりする死の表現には、そうした意味があると思いますが、制限の大きいテレビより、「性」の問題を含めたさらに濃密な表現を小説の中で試みていたのも、ひとつにはそうした状況に対するカウンターであったのではないかと私は思うんです。

この作品はおとぎ話を意識してるのか、文体はわざと童話風で仕上げていて、 主人公の目線もいままでの富野アニメと違って、明らかに子供に設定している。
話の内容はファウ・ファウという生まれたばかりのフェラリオが人間界に彷徨いこんで、 小学生のエミコとその周りとの触れ合いというかなり王道なものですが、 ファウ・ファウという不思議な世界の住人の誕生、出会い、日常の風景など、 どれも丁寧に描いていて、富野作品にして、珍しくほのぼのな雰囲気を溢れています。

 そこに場違いのように放り込まれている、この『ファウ・ファウ物語』とは何か。たしかに童話風であり、ほのぼのとする雰囲気ではあるのですが、この不思議な感覚はファンタジックな内容だけによるものではないと私は思います。

 人は、一人では生きていけません。
 人は、この世に存るもの全て関係の中で、生かされているのです。
 そんな語りかけを、森に変わってしなければならない現代という時代は、本当に危険なのです。
 ですから、ファウ・ファウ物語には、繰り返す物語という意味で、リ・ストリーというルビを振ったりもしました。
 それは、今、現在、ぼくがいかされている現実のひとつでも覗いて見たいという欲望の現れなのです。

 この作品のテーマはまさにこういうことで、「繰り返す物語」というのは、“バイストン・ウェルもの”全体にかかる言い方のような気がします。ですが、特にこの『ファウ・ファウ物語(リ・ストリー)』には、表現上の裏テーマとして「物語についての物語」、メタフィクションとでも言いたくなるような性質があるような気がします。
 “ファンタジー”であることの楽屋裏が、しばしば作中で読者向けにあからさま以上に語られてくることを私はそう思うのですが、これがあくまで子ども向けの体裁を保ったままで、一目でメタフィクションと分かるような小難しげな様相を示してはいないところが、むしろ秀逸だという気がします。

 富野由悠季の“バイストン・ウェルもの”の特徴は、ファンタジーでありながら、現実世界と背中合わせの異世界ということに尽きると思います。ファンタジーなのだから、もっと自由奔放でいいじゃないかという問いかけは当然あるでしょう。
 まして、この作品では「変だとお思いでしょうが、あるのですから、仕方がありません」などと、これがファンタジー以外の何物でもないことを臆面もなく読者に語ってきます。そのくせファウ・ファウの超能力というのは、ずいぶん控えめに「会った人に自分の存在を信じさせてしまう力」なのですよ。(ラスト近くに、もう一つささやかな奇跡を見せますけど。)
 例えばエミコと出会ったばかりのファウ・ファウは、生まれたばかりなので裸なのですが、雑草の葉でいきなり怪我をします。半裸の少女がそのまま飛び回れば怪我だらけになるということをちゃんとやるのが富野由悠季なのです。(他にも、グダちんさんも書いておられましたが、ファウ・ファウの羽の付け根はよく見ると気持ち悪い、というのが妙に繰り返されるのも面白いところです。)

 荒唐無稽、嘘八百の作り事がむしろ読み手からは望まれるフィクションの空間にあって、どうしようもなく現実と背中合わせの世界を描かずにいられないのが、富野由悠季という作家の作家性なのであって、それは読者のことを考えているからそうなるというところもありますよね。
 子犬さんのブログへのコメントでkaitoさんが指摘しているように、富野監督の二人の娘さんの名前が『ファウ・ファウ物語』の作中に出てくるのも、そうしたことの表れなのではないかと思います。(この頃だと小学校高学年か中学生か。読者として想定できる年代ですよね。)

 「死」とか「性」とかいうことを扱うことで、マンガにせよアニメにせよ、表現の豊かさを手にしてきたけれど、それらの表現のセンセーショナルさというエンターテイメントだけが重要視されるようになっていってしまった。(『イデオン』についての自己批判や、のちの『エヴァンゲリオン』への批判についてもそうでしょう。)
 そこで、「死」とか「性」とかの要素をいったん取り除いた、物語の構造そのものを提示するような作品、物語を物語ることの意味を考え直すような作品として書かれたのが、この『ファウ・ファウ物語』なのではないかと私は思うのです。

 エミコの家の「開かずの間」がバイストン・ウェルに繋がっているところで終わる上巻。下巻はいきなりファウ・ファウとエミコがテレビ出演するところから始まります。(このへん、『河童のクゥと夏休み』なんかも少し思い出されます。)
 この間の三章がどうなっていたのか。劇場版『∀ガンダム』の「地球光」と「月光蝶」のインターバルのように、飛躍したドラマの欠落した部分を想像で補うことというのは十分にできますし、それは無意味なことではないと思うんですよ。
 いっそ、こういう問いを立ててもいいんです。
 「オタク的想像力」なんてあるのか、それは単なる想像力の欠如ではないのか、と。

 kaitoさんが言うとおり、この『ファウ・ファウ物語』は、のちの富野が鬱から復活する予告をも含めて「富野由悠季思想の集大成」的な要素を内包している不思議な作品だと私は思います。何だって、そこで最後のBGMが『HOTEL CALIFORNIA』なんだろうかという、大きな大きな「?」も含めて。(しかし、そこがいい!)

 大人になって、どれだけ賢くなりましたか?
 賢くなってはいけないのです。共存するためには、その群の意思に従って、妥協する知恵がなければ、村八分になって、暮らしていけなくなるのです。
 だからこそ、人は、夢と希望という名前でもって、個人の独立性、自由を語るのです。
 そうなのです。
 なのに、なんで、夢を先にして、暮らそうとするのでしょう。
 希望を持たないと、堪らないからでしょう。
 ですから、ズーッと昔から、自然への畏敬と感謝がないまぜになった夢物語が、口から耳へ、耳から口へと語り継がれたのです。

追記:

 なお、ちょうどこういうことを考えていたときに下記の文章を読んで、オタク的感性の一面を育ててしまったことへの高橋留美子なりのカウンターが、『めぞん一刻』だったんだなーとしみじみ納得されたので、あわせて付記しておきます。

さらに追記:

 これを書いて以来、ずっと頭の中でこの作品のことが渦巻き続けてしまったので、続きを書きました。よろしければ、こちらもあわせてご覧ください。

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コメント

> 妖精ブーム

そう言えば、1985年前後というとテレビアニメ的には妖精ブームでしたね。メモル、サミアどん、スプーンおばさんは妖精ではないですね、はい。ペルシャは自称妖精(笑)。そのような中で富野御大が描いた妖精は古典的な、まさにフェアリー然としていて、逆に不思議に感じたものです。

ちなみに、大塚英志さんも駄目です。彼もまた東浩紀さんと同様な柄谷行人インスパイア組のひとりなのです。記号うんぬんというのは、柄谷が『日本近代文学の起源』で明治の演劇改良運動について書いたことをかなり無理矢理に敷衍しただけでしょう。

> 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

> 実写映画化して欲しいです

間の三章はなんだったんですかねえ?
お兄さんの話でしょうか?とってつけたように辛気臭い要素ではあります。時期的に文庫の前に全部書き直すのは大変だったんでしょうねエ。

> この小説は

この小説は、読んでない方に説明するのが、本当に難しい作品だと思います。ここでは作品の感想というか、勝手に私が思ったことを書きました。
ふわふわとした童話風ファンタジーですけど、やっぱり富野由悠季の作品だなーというところへ入っていきますし、ラストもまさにそういう感じです。
「HOTEL CALIFORNIA」もいやみとか皮肉とかではなくて、「?」としか言いようがないんですが・・・。よく知られた曲だけに唐突で違和感は禁じ得ないんですが、でも妙にはまっているんですよ。いや、はまっていると私は思います。

関係ありませんが、最近ネットで、自分と対立する意見についたコメントはおろか、「はてなスター」の一個一個までをいちいち取り上げて名指しで激しく非難しているような人を見てしまいました。もちろん触らぬ神に祟りなし!
しかし反対意見への不寛容も、あそこまでいくとほとんど議論の封殺でありファッショだなーと。
いろんな見解に触れさせていただくことは、私の大いに喜びとするところです。
「共感か反発かの二択しかないネットなんて貧しすぎる」
「どちらか片方を切り捨てたりせず、二項の両方が自分の中に内在するのではないかとよく省みて、冷静に言葉を発していく必要がある」
このように思ってはいるのですが、まだまだ未熟者です。

> 懐かしいなぁ。

私なんかほら、リアルタイムで連載を読んでいたので。
で、一応「ニュータイプ」なんでお間違え無く・・・。途中で「アニメージュ」って紹介してるでしょ。

> うわっ!

これは助かりました。すみません! > スカルさん

> 決断主義とは

決断主義とは「共感か反発かの二択しかないネットなんて貧しすぎる」 という考え方への反発ですよね。少々メタになりますが、なぜ、このような主義がゼロ年代においてもてはやされたのか、
についてネグレクトしてはだめだと、わたしなどは思うのですが、いかがでしょう。

> 決断主義って、セカイ系のなかで決断しているだけな気も

新参者ですが、面白そうなので入らせていただきますが。

決断主義(サバイブ)って、バトルロワイアル系の話を総称し、戦わなければならない時代に引きこもってどうする、という論理だったような気がするけど。

でも決断主義の最大の弱点は、たとえば「バトルロワイアル」という小説は、中学生同士が殺し合いをしてしまうシステムを生みだす社会構造が悪いという批判を実はしているのに、そうした間違ったシステムを改良していくことを放棄して、「殺し合いをするシステムに乗っかって、決断していく」ことを訴えているところにあるんだよね。評論家の宇野くんの考え方は決断主義といいながら、サボタージュもしている。

あとサバイブというなかには犯罪という決断があるわけで、そうした最悪の決断を防止する倫理性を同時に訴えていくことも普通やっていくべきだけど。
それをやらないどころか、たとえば「Fate」において人を殺すのに逡巡するキャラクター描写がないのはおかしいと訴えた東浩紀に、逡巡しないのがサバイブだ的に訴えているのは非常に危険な気もするけど。


それでも
これで社会批判・システム批判までいけば、つながりがでて、広がりのある批評家になれるんだけどね。
ただ彼が述べる町コミュニティ論もね、町内会単位でさえ、社会・システムは絡んでくるし。
そこから逃避し続ける意味がよくわからない。
ネットシステム論を語る東浩紀より、評論的には実は社会性を閉ざしている気さえする。


あとどうなんだろう。
宇野くんが、サバイブだと訴えている「コードギアス」も。ルルーシュなんて、足と眼が不自由なナナリーという妹を助けがたいために、超越的な力を行使しているわけだし。ストーリー的には、宇野くんが批判する零落してマッチョな「レイプファンタジー」でもあるんだけど。
批判に一貫性がみられないのが残念。

> 政治神学

かつやさん、はじめまして。

>そうした間違ったシステムを改良していくこと

システムと呼ばれるものは、そのような改良主義を含んでいるのだと思います。ヘーゲルとか進化論とか自己組織化論とか、あるいはケインズ主義とかです。ゼロ年代はあと一年とすこしです。2010年代はどのような世相に変化するのでしょうか。楽しみです。

> すみません

私は今ちょっと、頭が「Hotel California」なので、当面のこのあたりを考えていった出口で、そういう今どきのお話に接続できる接点を見つけることができるかどうか。少し判断保留中です。
「決断しない主義」ではなくて、単にまだ決断できない状況というか、・・・とにかく保留にします。すみません。

> 脱線しました

元レスとは関係ない話しを書きまして、ごめんなさい。『ファウ・ファウ物語』は未読なんですが、囚人022さんの解説を読むと、いかにも'80年代初頭な内容のようですね(笑)。是非、『ファウ・ファウ物語』について、もっと、いろいろなお話をお聞かせください。

> 再びスミマセン

結局、そうした話柄に繋げることはできませんでした。ただ、たしかに'80年代の問題意識で書かれていると思いますが、今日の状況についても示唆になるような内容は多く含んでいる本であったように思います。
「決断主義」については、その呼び方に何か意図があるもののように感じられますが、主唱(?)している善良な市民さんもそのような「主義者」なわけではなくて、むしろ超克すべき現状について、そう名づけているものだと私は雑駁に理解しています。(あの方の批判は「現状肯定」に主眼があるはず。現状肯定している人に「主義」などは本来ないのですが、それを「主義者」とみなすことで、攻撃対象として浮かび上がらすことを考えておられるのではないでしょうか。あまりよく分かってませんが。)

> 「ゼロ年代の想像力」も東浩紀との対談もすべてみた上で話しますが

宇野くんの主張は、大きな社会(公)を断念し、小さな社会のなかでコミュニケーションを図っていくべき。「コミュニケーションスキルを高めるべきだ」という主張だったと思います。ただ、そこから社会・システム論には踏み出せない弱点は持っている。


東浩紀と対談した際、「僕がネットシステム論をやっているのは全部つながっているんだよ」といったりして、彼を諭したんですが、残念ながら、彼は東浩紀のそのときの一連の言動を誤解してしまっている。

また彼の述べているセカイ系→サバイブ→中間共同体の再編という論説も、じつのところ、東浩紀の「AIR」論、「ひぐらしのなく頃に」論、「CLANNAD」論に相当する部分を接合すれば、成り立つ論理だったりする。

ところが宇野くんは、ギャルゲーはもてない男性の逃避行為という主張にとどまってしまい、「AIRはきみのいうとおりだとしても、FateもひぐらしもAIRの弱点を克服したギャルゲーとしてでているんだよ」「俺はドラマ観ない。きみはギャルゲーしない。それで話は終わり。そうなっちゃうよ」みたいにいわれちゃう。宇野くんは、きっとこのときの東浩紀の言論も誤解してるんだろうが、彼がなぜ汎用性のある論理にいこうとしないかがわからないところ。

さらにいうとコミュニケーションの下手な奴は、ダメな奴、として切り捨ててしまっていいのか、という部分もある。


あとついでなんで、突っ込んだ話をしますが。
80年代アニメの特徴は家族主義の崩壊と「疑似家族」の膨張のはず。主人公の家族が崩壊していることと、それに代わる「疑似家族主義」が膨張していて、主人公は「疑似家族」から巣立つことができないまま(囚われたまま)になるケースが多い。

ガンダムがその意味では特徴的ですが、アムロは「家族」が崩壊し、ホワイトベース上につくられた「疑似家族」によって大人へ成長していく。
家族からの離脱と、疑似家族による大人の成長はかなり一般的な話ではありますが、家族へ戻ることがなく、父・母とは相互理解できないまま、ストーリーが終わってしまうことは象徴的です。

この家族主義の崩壊による疑似家族の構成はロボットアニメの特徴で、90年代のエヴァンゲリオンはある意味、シンジくんが、家族が、シンジくんが逃れるべき疑似家族空間の中枢にいついちゃったのが、非劇を生んでしまったといえるかもしれません。

一方、「めぞん一刻」は、主人公の家族は崩壊していませんが、親から離れ「一刻館」というアパートで疑似家族めいた不思議な空間(オタクにとってのユートピア空間)を構成し、結婚したあとも、一刻館にとどまることで、疑似家族から巣立つことができない構造となっています。
一刻館は不思議な疑似家族空間によって、漫画読者やアニメ視聴者を実の両親の代わりにやさしく包み込む代理母として機能しているわけです。

なので、めぞん一刻は本質的には、最後までいってもオタクからすかれるユートピアを提供しつづけた話でしかないです。


ついでなんですが、コードギアスについて述べますが。これははっきりしてます。
家族主義のみならず疑似家族主義の崩壊と、徹底的な個人主義です。

ルルーシュは家族と戦い、さらに疑似家族としての黒の騎士団とさえ、最終的には戦います。
疑似家族としてのC.Cは、この作品が、きわめてセカイ系の構造を持つゆえに、最後までルルーシュ側にとどまりますが、それでも疑似家族の黒の騎士団が、ルルーシュの敵となるのが特徴といえば特徴。

一方、スザクも同様に最終的に、家族どころか、疑似家族の構成員からもはみだしていきます。

(最終的に世界が平和になったとはいえ)2人とも世界を考えつつ、それは独断と偏見に満ちた個人主義にしかならないのですが、きわめて個人主義な2人があれだけ一時的に憎しみあっていたにも関わらず、わかりあって、最後に共闘するのは、印象的。


さて宇野くんの主張は、こうしたサバイブから、家族にとって代わる疑似家族、町などの中間集合体を構成することで、崩壊した家族主義を補えるべきだという論調にみえるのですが、こうした疑似家族や中間集合体の構成を説いた作品は、80年代以降にみられるものだし。
正直なところ、サバイブ→小社会(疑似家族)は00年代から80年代へ回帰しているにしかみえません。

> かつやさんへ

元レスへのコメントではなくて、囚人022さんがコメント欄で触れられている論旨に関係して、わたしは「決断主義」と言う言葉をつかいコメントしました。かつやさんの上記のお話しは「決断主義」から発展した内容ですよね。その意味で、ここでさらにコメントを加えることは場違いなのですが、管理人さんにはご寛恕を乞います。

宇野さんの著作に関心を持てないので、なんとも言えないのですが、かつやさんの書かれたことから想像するに宇野さんの議論は「決断主義」の始祖であるハイデッガーにかなり影響を受けているようです。回帰というのならむしろ1930年代へ、かも知れません。それでは。

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> 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

> これはこれは・・・

大変なお手間をかけていただいてしまって、本当にありがとうございます。
これは・・・何とも言えないですねぇ。
もう少し考えてみます。考える良い材料をいただきました。
本当に、毎度お世話になります。大感謝です。

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