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小説 『機動戦士ガンダムF91 クロスボーン・バンガード』  

[2008/11/27] | 感想系 | トラックバック(1) | コメント(3) | TOP ▲

 このところブログも書かんと富野由悠季の小説ばっかり読んでるわけですが、まだ熱は冷めやらない感じ(笑)でありまして、今日は『クロスボーン・バンガード』の感想をメモしておきます。

機動戦士ガンダムF91クロスボーン・ガンダム(上) 機動戦士ガンダムF91クロスボーン・ガンダム(下)

 前にも書きましたが、世代的なこともあって私は、富野由悠季の「小説」には、半ば無意識に抵抗感を抱いて来ました。富野由悠季のファンを自認してるのに、我ながら妙なタブーを設けて来たものですね。
 そしてこれも前に書きましたが、『F91』というアニメも、私の中では釈然としない印象として記憶されている作品だったのでした。幸い、この小説は勢いで手に取ったので、そのあたりも変に構えて読まずにすんだのですが、感想を書くというと、そのへんのことも微妙にフラッシュバックして来てしまいそうです…。

 アニメと比べると、出来事の前史にあたる部分のボリュームの大きさが、小説版の特徴になるかと思います。
 普通は鉄仮面=カロッゾ・ロナが、いかにして、あのような暴挙に及ぶに至ったかという、アニメで説明しきれなかったところの補完を重点的に読むのかもしれません。富野由悠季という人が、内面に抱いた思想の代弁者として。
 …でも今回、私が思いきり強い印象を受けたのは、たぶん作者のもう一人の分身である、シオ・フェアチャイルドのほうでした。
 カロッゾのほうは、ある意味作者の叶わぬ(叶えてはならぬ)願望を、代償としてフィクションの中で形にしてみせてしまっているわけですが、このブンガク崩れの小市民たるシオという人物の惨めさたるや!
 それと、富野監督の娘さんたちの年齢を詳しくは知らないのですけど、この作品での「親子」の関係というのはそれ以前の富野作品とはどうも違って、ダメな親だけど親は親で一生懸命・・・だけど、やっぱりダメなのよね、というような、人の親の立場のほうから見つめなおした視点というのを不思議に親密なものとして感じました。

 富野監督、当時50歳ですか。『ブレンパワード』で「世代を重ねる意味」というテーマがひとつ、ぽんと投げ出されてあったわけですが、「人は手前1人でおぎゃあと生まれて1人で勝手に死んでいくものではなくて、それには他の人が大なり小なり関わっている」ということが、まさしくこの小説の「序」には懇切に書かれてありました。ナルホド納得。

 富野アニメを批判する人たちが言うことには、たとえば父親が王様で兄弟が将軍とかで、家庭内紛争みたいなのばかりをやっている、あれはリアルな戦争じゃない、みたいな話があるわけですけど、それは違うんですね。別に富野監督はリアルな戦争を描きたいのじゃなくて、人間の問題が最初にあって、その必然として家族の問題がある。ひとつの家庭だけでその暮らしがなりたつわけではないのが世の中だから、その衣食住をまかなってくれる、あるいは生計をたてるために両親が出てゆく、そういうものとして社会がある。
 そうしたことを丁寧に分かりやすく示しているのが富野監督の作品なのですね。(それに、少なくともガンダムのシリーズでは、戦争らしい戦争を描いたのは最初のガンダムぐらいであり、この作品もそうですが、あとは微妙に「内紛」というのに近いようなレベルの戦いに抑制されて描かれているということも、そのあたりの節度というものをわきまえているから、このようになるのではないかと私は思います。)
 なので上巻の全21章のうち7章までを費やして描写されているロナ家の事情というものこそが、この作品ではとりわけ魅力的であり、まだ物語は動き出してもいないのだけど、ちっとも退屈せずに読み進めることができました。

 もうひとつ、「あれ?」と思ったのはラストの部分が大きく違う、ということで。
 (・・・!) この間の肝心の本編にあたる部分をすべて飛ばすとは、何たること!!(笑)
 いや、アニメでよく分からなかったことが「そういうことか」と納得された部分はいくつもあったのですが、まあそこは個人的には、そんなに重要ではなかったということです。淡々と事象が積み重なっていって、悲劇が拡大していくという。

 で、終劇の迎え方ですが、やけにあっさりと終わったなぁと。いや本当は、なかなか余韻が残る、いい終わり方でしたが。
 それでアニメのことは見事に忘れて小説の物語だけにすっかり入っていたので、その時にはささいな違和感という程度だったのですけど、・・・今になって考えてみると、アニメではラフレシアの撃破以上に重要な感じで描かれていた、虚空を漂うセシリーを探す、あのシーンがごっそりとなかったことに気づき、ちょっと愕然。
 アニメであれを見たときには、富野監督は「ニュータイプの“認識力の拡大”っていうのは、エスパー的な戦闘力のことではなくて、こういうもののことなんだよ」というのを、とても強調したかったんだなぁと私などは感じていたわけです。その部分、丸々カット。(笑)

 ただ、このほうがずっと良かったですね。いまだからそう思えるんで、リアルタイムのあの頃に、そんなふうに思えたかどうかは分かりませんけど。

 生み育ててくれた母と父がいるならば、そこに戻るのが人でしょう。
 もちろん、その逆もあって、不幸な生立ちをもてば、両親を憎しみ忘れようともします。ときには殺そうとも・・・・・・。
 それも、父と母がいるから起ることですから、結局は、戻ることなのです。

 ここから始まる物語は、「世代を重ねる意味」こそが主題であって、ガンダムらしくニュータイプの話などを入れなければならない、などと欲目を出すべきではなかったのでしょう。
 たとえ、父をその娘が殺める悲劇の物語であったとしても。

 しかしこれで「元々はTVシリーズの企画」、「そのTVシリーズ用の構想の1クール分にあたるストーリーを劇場用に映像化したものが本作」と言われても、なかなか難しいですね。立ち上がりは同じように事件の始まりから描きだして、回想的な部分で前史を分厚く描いていけば、見ごたえのあるいい作品になったという気もしますが。テレビアニメ的に弾む物語になるかというと、私がスポンサーでも疑問符を出したかも。(笑)
 そういう意味では劇場版で正解という作品だったような気がします。

 『イデオン』で示したように、個である限り業を乗り越えることができず、むなしいものである人間の生に対して、富野監督が「世代を重ねる意味」という視座を持つに至った起点を確認できただけでも、この小説は読んでみてよかったです。だけど映画がああなっちゃったのは、TVシリーズへの展開という欲目がどこかでやっぱりあったんだろう・・・と思わざるを得ない。

 シオ・フェアチャイルドっていうのは、最後どうなっちゃったんでしょうか。逃げていったはずの女の金魚の糞みたいにくっついて出てきたのを最後に、すごく中途半端に消えてしまった? すごくどうでもいいことのようですが、私にはそれが残念でなりません・・・。

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[tag] 富野由悠季 fc2ファビコン 読書 fc2ファビコン F91 fc2ファビコン

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> グリフィスを見なければいけない?

ノベライズは未読なのですが『F91』は好きです。

>別に富野監督はリアルな戦争を描きたいのじゃなくて、人間の問題が最初にあって、その必然として家族の問題がある。

『パトレイバー2』を見た直後に聞くと”リアルな戦争”に脊髄反射してしまいますが、私なりの言葉では、「現代の戦争」に置き換えられるでしょうか。

つまり富野監督の再現(シミュレート)する戦争は近代以前の戦争あるいは革命に見えるのです。具体的に言うとグリフィスですか。

『F91』につづく『Vガンダム』は”リアルな戦争”だと思います。しかし、その結果、囚人022さんの言われているような人間=家族=社会は主題になり損ねている。富野監督が『Vガンダム』を失敗作とした理由と真意ははかりかねますが、可能性として、”人間”の描写が薄いからかもしれません。

もちろん、その薄さは”リアルな戦争”がもたらす酷薄さを忠実に反映しているのですが。

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[富野語録][F91]「オタクがニュータイプになれないワケ」富野由悠季(月刊『NEWTYPE』1991年4月号

kaito2198さんが読んだことないとかおっしゃるので、ほんとかなーと思いながら(笑)、載せてみます。*1 オタクがニュータイプになれないワケ 富野由悠季 ”鉄仮面”は彼ひとりでない。そ
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