「芸能」について 

[2006/01/10] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

このところ『「芸能と差別」の深層』(対談=三國連太郎+沖浦和光、ちくま文庫)という本を読んでます。まだ半分ほどしか読めていませんが、なかなか面白いです。
こんな本を何で買ったかというと、実は「芸能」という字に引き寄せられただけなのです。このブログでもたまに話題になるキーワードであるエンターテイメント、芸術(アート)、そして芸能というわけです。とにかく「芸能って何?」というのを考えるきっかけが欲しかったわけなんですが、これはなかなか勉強になります。もちろん、にわか勉強なんですし、まして動機が不純なんですけどね・・・。

三國連太郎さんは映画俳優さん、沖浦和光さんは学者さんで、この本は「差別」ということに重要な主題があるわけなのですが、学のない私といたしましては、そういう難しい方面は基本的にスルーと言うことで、入り口からしてかなりのダメ読者であります。(笑)
対談のテーマとしては「日本の文化史において、差別されてきた賤民層が担ってきた役割を中心にして、『芸能』の根本を論じる」ということで、「能・狂言」「人形浄瑠璃」「歌舞伎」それに「民俗芸能と大衆演芸」といった芸能の始原を調べていくと、社会の底辺にあって卑賤視されてきた遊芸民が深く関わっているんだそうです。三國さんは映画俳優なんだけども、そういう伝統芸能といったものと映画のような映像芸術的なものの始原は一つであるはずだ、「庶民が歴史の中で営々と努力しながら作り上げてきた」ということが大事だ、と言っておられます。

たぶんお分かりのことと思いますが(笑)、私としては、社会の底辺の人々というところにアニメの制作に関わってらっしゃる方々なんかを(失礼!)重ねて考えてますし、映像芸術的なものというところに、アニメも入るはずだ、などと思いながら読み進めていっているわけです。まさに歴史の中で営々と努力しながら・・・ではありませんか、未だその歴史は浅いとは言えども。

私は、なんだかこの本を、富野監督も読んでる気がするんですが、どなたか詳しい方ご存知じゃありませんか?アニメの文脈の中に「芸能」という言葉が出てくると唐突な印象があるのですが、芸術ではなく芸能という言葉で言い表したかった内容というのは、例えばこの本に書かれているようなことではないのかなぁと思いながら読んでおります。
〈虚〉と〈実〉の話というのも、面白い内容でした。実人生と役者人生の間に生まれる虚名の部分をどう生きるのか、・・・「これが役者なんだ」と尊大に自分の生きざまを正当化するのも一つの生き方としてありなのではないかと思いますが、三國さんは「自分に対して真実の分別がつかなくなる」ところから、「嘘をつかない方法」を模索したと言っておられます。せめて形だけでもと「及ばぬ知識を無理に詰め込んでみたり」といった告白には、身につまされるものがありました。そうした虚実の境目を歩き続けるのが人生の妙味であり、苦悩でもあるというところで、このテーマは誰もに普遍的なふくらみを持ちます。
人生をオモテ側から解明しようとするのが諸科学、ウラ側から人生の闇の部分に光を入れようとするのが芸術。その中でも芸能は、身体表現を主にして、それに音楽や照明を用い、きわめて情動的なもの・・・。
そして近松門左衛門の「芸というものは、実と虚との皮膜の間にあるものなり。・・・・・・虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあったものなり」という定義へと繋がっていきます。線引き不可能な虚と実の絶妙な間合を描き切るのが「芸」だと。

こういうのを、富野アニメや、御大語録を頭に浮かべながら読んでいると実に楽しいです。もうちょっと学があれば、これをベースにして論考とか書けたりするんでしょうが、私のレベルじゃ残念ながら「面白いですよ」どまり。まだ読み終わっていないので、機会があれば、また続きを書きたいと思います。

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