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鈴木プロデューサーのプライベート・フィルムとしての『ゲド戦記』 

[2008/09/16] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(9) | TOP ▲

まぁ、何と言うか、評価しないわけにはいかないだろ、というのが率直な感想。

結果として、『ゲド戦記』は、宮崎吾朗初監督作品ではなく、「宮崎駿作品のフェイク」になってしまった。ジブリというブランドを信用する人たちに対する、壮大な詐術になってしまったと言わざるを得ない。

 コメントだけでなく、何かアンサーになる記事を書こうかと思いながら、果たせずにいたところでした。

 “「宮崎アニメ」というのを現象として考えると、”という私のコメントを補足しておきますと、“作品”として考える場合にも、鈴木Pのストーリーへの示唆というのは皆無ではないけれど、その重要性は比較的小さい。
 それに対し、世の中に影響を与える“現象”として考えた場合には、人気を博しているのは宮崎駿という所沢のおじさん(?)が作ったアニメだけではなく、鈴木敏夫という敏腕プロデューサーが設定したテーマもまた無視できない重要なものだ、ということを言いたかったのでした。

 私も無論、鈴木敏夫さんの業績は高く評価しています。富野監督も宮崎アニメにおける鈴木Pの存在を、うらやましそうにしばしば言っておられるような気がしますよね(笑)。
 鈴木Pのプロモーションは、しばしば宮崎駿のアニメーションそのものの宣伝ではなく、(そこから連想されたイメージに基づくとはいえ、)さらにどんどんと翼を広げて“テーマ”を語り過ぎているようなところを感じます。にも拘らず、それが毎回あまりにも図に当たるので、これはあるいは「不誠実」なのではないかと。
 そう疑わずにいられないことが、私には多かったのです。(ままあることではありますが、とりわけ宮崎アニメについて語ろうとすると、宮崎駿のアニメーションの感想を話しているのか、鈴木Pによって“発見”されたテーマを論じているのか、時々分からなくなってしまうのです。)
 ・・・ただ、これが大方から疑われることなく許されてしまうのは、もしかしたらほかの誰よりも鈴木敏夫という人が、宮崎アニメの“熱烈なファン”であるからなのかもしれないなぁーなどと、zsphereさんの記事を読みながら、別のことを考えたりしておりました。

ゲド戦記

 『ゲド戦記』という作品については、吾朗監督だけではなく鈴木Pの内面を内容に反映している面もあるような気がします。つまりzsphereさんが「ジブリというブランドを信用する人たちに対する、壮大な詐術になってしまったと言わざるを得ない」とした製作経緯が、作品の内容とシンクロするかのように、まるで“魔がさした”ようだなぁ、と。
 これは何の根拠もない、ただの個人的妄想ですけど、私には、「本当に宮崎駿のアニメーションだから世の中にこれほど認められるのか? お前の時代を捉えたテーマ設定やプロモーション手法が優れているから売れているんじゃないのか? 疑うのなら、一度試してみたらどうだい?」と鈴木Pの耳元で何かがささやいているという絵が浮かんできて仕方ないんですよ。
 そして、ある意味では無残なことに、『ゲド戦記』という作品は、内容面での批判も多く集めましたけど、興行的にはまず申し分のない好成績をおさめてしまったんですよね。

 あのストーリーは作品を見てもよく分からない難解なものなのですが、鈴木プロデューサーの指示に基づく部分が大きいようです。ここには、さまざまなものが入り乱れて投影されすぎているのではないかと私は思ったのですけど、吾朗監督の解説によれば、「影」は本来は主人公の「心の光」だった部分が切り離されたもので、心の闇に捉えられた主人公と再び一体化するために追いかけていたのだとか。
 『ハウルの動く城』で、鈴木さんは宮崎駿監督との間に埋めがたい溝を感じたのでしょうか? それが投影されているのが、あるいは『ゲド戦記』でのアレンの影?

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コメント

> 原作

>「影」は本来は主人公の「心の光」だった部分が切り離されたもので、心の闇に捉えられた主人公と再び一体化するために追いかけていたのだとか。


原作一巻目のテーマがそんな感じなんですよね。

> Wikipediaには

「原作3巻にアレンの影は出てこない。鈴木敏夫がゲド戦記のテーマに触れる入り口として導入を提案した。原作1巻の影の物語をハイタカからアレンに移植し、影の役割も変わっている。」とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%89%E6%88%A6%E8%A8%98_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
ここには原作との違いにも触れているのですが、原作の「影」は説明を読んだだけでもある程度分かるのですけど、私にはアニメの説明は要領を得ない気がしてしまいます。
そのへんがプライベートな感じなのかな、と。

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> ただのおセンチな妄想ですが。

くどくどと書いてしまいましたが、『ゲド戦記』という作品は、「宮崎吾朗初監督作品」ではなく、「宮崎駿作品のフェイク」でもなく、“宮崎アニメという現象”から宮崎駿という要素を引き算してみたものではなかったのか、というのが、ここに書いた要旨です。

「もしかしたらほかの誰よりも鈴木敏夫という人が、宮崎アニメの“熱烈なファン”であるからなのかもしれない」というのも大事なところで、鈴木氏の優れた手腕が、彼の愛してやまない宮崎アニメのために振るわれていた時代というのは、アニメ史上に残る幸福な出会いだったのだろうと私も思っています。
ところが『ハウル』あたりで、その愛が揺らいだかに感じられてしまったのだろうと。

「心の闇に捉えられた主人公と再び一体化」したいと願う「影」こそが、本来は主人公の「心の光」だったなどという話を、宮崎駿と鈴木敏夫に託して考え始めてしまうと、『ゲド戦記』の経済的成功(それを可能にしてしまった鈴木氏の手腕)とは、何と無残なことに思えてしまうかと。

> なんとなくですが

なんとなく論旨は分かりました。分かった気がします。

つまりゲドは宮崎駿に憧れた鈴木俊夫が、駿の代わりに吾朗を使って作品を作ってしまったのではないか?
果たせなかった駿との一体化願望が吾朗に向けられたのではないか?
そして、ゲドが経済的に成功してしまったがゆえに、駿と俊夫の光と影の役割が、ある意味で逆転してしまったのではないか?
しかし、それは鈴木俊夫にとって不幸なことではないのか?

そんな話でしょうか。

> 妄想話は恥ずかしいですね・・・。

「一体化願望が吾朗に」までは思ってませんでした・・・。
『ハウル』の宮崎監督こそが、鈴木氏視点から見れば「心の闇に捉えられた主人公」のような気がしたのです。そして宮崎アニメに高尚(?)なテーマを設定する自分こそが「心の光」なのではないかという密やかな思いが鈴木氏の内面にあり、それが吾郎監督に伝わったのではないかと私は邪推してしまったのでした。

しかし、ここまでぶっちゃけないと何を言ってるか分からないようなことを、文章力もないのに書くものではないと反省しました。いやはやすみません。

>

それは(いい意味で)俗悪なテレビまんがだった宮崎作品を(悪い意味で)お上品な文学にしちゃってませんか?鈴木さん?という話でしょうか。(で、吾朗監督の作品をヒットさせてしまったことで、そのことを証明しちゃっているでしょう、という)

ただ、先にも書きましたが、集団お見合い、合コンセッティングが鈴木氏の仕事なので、実像よりは少々美男(美人)に宣伝するのは仕方ないといえば仕方ない。そうしなければ、お見合い、合コンがはじまりませんから。で「あとはご両人(作品と観客)で…」というのが彼の仕事だ、と書くと、最初の話にもどってしまうのですが…(笑)。

> そうではないです

俗悪なテレビ漫画などではないと思います。(何か煽ってません?)(笑)
宮崎駿の個人的な趣味性(ニアリーイコール作家性なのか?)が強いものに、社会的な意味性を加えてる(または発見している)のではないかとは思ってます。ただ“現象としての宮崎アニメ”は、その状態で作品として機能していることをどう捉えるべきなのかは、私の中にまだ答はありません。(私は『ポニョ』を見ていません。psb1981さんはご覧になりましたか?)
鈴木氏がプロとして成果を挙げているということには誰も異論をさしはさむ余地はないと思うのですが、私はただ、彼は今も昔と同様の達成感を味わえているのだろうか、と要らぬ心配をしてるのかもしれません。

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