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コードギアス 反逆のルルーシュ R2 TURN21 『ラグナレクの接続』
[2008/09/02] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲
大河内さん、『ゼロ年代の想像力』読んだでしょ~?(笑)
私がぐずぐずと読んでいる最中だからかもしれないけど、今回の展開はなんか、すっごくそんな感じがしちゃいました。シャルル皇帝ってば、めっちゃ“セカイ系”だし!マリアンヌさんなんて、皇帝と並んで“キミとボク”のセカイを分かりやすく見せるために出てきたようなもんでした。(出番だけは“閃光”のマリアンヌ!)

「俺はお前の考えを認めない!
人はなぜ嘘をつくのか。
それは何かと争うためだけじゃない、何かを求めるからだ。
ありのままでいい世界とは、変化がない。生きるとは言わない。
思い出の世界に等しい。完結した閉じた世界。
俺は嫌だな。」
まああいまいな定義の言葉なんですけど、これってどう考えてもセカイ系批判だなと聞こえてきたときに、谷口監督が『ガン×ソード』でやったカギ爪の男の“しあわせのとき”ってのは、「セカイ系」だったんだーということが、このエピソードのおかげでやっと分かりました。あれ、相手のヴァンが思いっきり“馬鹿”だったから、すっごく分かりにくかったんだけど、何だーそういうことだったんですかー。
今回のエピソードは、そういうふうにサブカル論壇的には、非常に興味深いサンプルとなる話題を提供したと思うけど、少し論が勝って、表現としてはこなれ切ってない印象もありました。『ガン×ソード』はエンターテイメントし過ぎて、言いたかったことが伝わらなかったとでも思ったのかなー?
「時の歩みを止めないでくれ!」
「それでも俺は、明日が欲しい!」
(私はナナリーは生きているんじゃないかと思ってますが、)ナナリーもいない、シャーリーもいない、そんな世界で、「それでも俺は」と言わせるだけのバックボーンを、この物語世界の中でルルーシュは築くことに成功していましたっけ?
たぶん、ナナリーのためだけではなく「俺は、俺が守りたいと思う、すべてのもののために戦ってきた」ということが、「俺は今こそ自分を知った」という悟りなんでしょう。要は、ナナリーと自分だけ(キミとボク)の閉じたセカイから、ようやく社会に目を向けたってことだと思います。(ちょっと説得力は欠いていたけど、補完すると、たぶんそんなようなことですよね?)
「自分に優しい世界」(セカイ)を否定したルルーシュが「他人に優しくなれる世界」ということを口にしたのは興味深かったです。「世の中には自分ひとりで出来ないこともある」というのも、ナナリーをダシにして言っているのは気になるんですが、ともかく彼は、ギアスって言うよりも、そういう考え方を武器にして、今度は「シュナイゼルの世界」と対決しなきゃいけないんですね。それがたぶん、“決断主義の克服”という課題の検討になるんでしょう。
ここまでの伏線を、21話というところで一気に回収してしまって、なんと攻守すっかり所を替えてラストアクションを再起動するなどという荒技があり得るなどとは、本当に思ってもみませんでした。今のところ、スザクが何を思って“ナイトオブゼロ”としてルルーシュを補佐しているのかというのが気になるところです。「たとえ愚かだと言われても、立ち止まることなんか出来ない」という彼の言いようは、見事に決断主義っぽいのですが、さて?(笑)
少しフォローを。
- “閃光のマリアンヌ”さんに関しては、ただの行儀見習いの少女がナイトオブラウンズに出世するぐらいには、さすがな才能の持ち主だったんでしょう。
- って言うか冒頭?(笑) この超展開の回のアーバンにマジック持ってスザクの顔にいたずら書きしようとしたのは、まさにあり得ない“閃光”でした!
- あと、碇シンジの母、ユイってのも、こんな天然なキャラだったような気がします。天然、怖いですね?
あと、この辺をとっても参照しました。
今回やっと分かったんだけど『コードギアス』って作品は、“旧来のヒーロー”然としたスザクをわざわざ脇に配して、“決断主義”っぽく派手にふるまいながら、内面にはナナリーと自分だけの“セカイ系”志向を持ったルルーシュっていう構図(と、そこからの変化)だったんですね。
「悪魔の力」を「身につけた正義のヒーロー」は「裏切り者の名を受け」ながらも「すべてを捨てて闘」わねばならないのである
そしてこの辺も解体されて、あっちこっちに散りばめられているのかも(笑)。
しかし、今回の親殺しは、親を無茶無茶カルトな存在として描くことで、それを排除することをかなり恣意的に正当化していたけど、これはこれでOKとされて終わるのか、何かむしかえされる場面がこの先にあるのか、その辺も注視したいところです。
ルルーシュといい、スザクといい、何だってアッシュフォード学園の制服を着て現れたんだっていうのは不思議なところですね。
袂を分かつことになったかつての仲間たちと、これからあるいは争い、あるいは和解する場面もあるのかもしれないですけど、とりあえずブリタニアを掌握するのに、ルルーシュは躊躇なく超常の力・ギアスを使い、C.C.は浮かぬ顔をしていました。
セカイ系作品の課題とは、社会の変革などというものではなく、世界の存立条件という究極の次元にまでいったん遡ることによって、世界に対する意味づけや関わり方を再検討することにあると言えるだろう。現在の社会には不満がある。だからといって、非合法な手段によって、あえてこの社会を変えたいとも思わない。だとすれば、できることと言えば、この世界との関わり合いを再考するしかない、ということではないだろうか?
こっから先をやろうとした作品って、たしかにあまりないんじゃなかろうか? 「死ねない」ということについてC.C.とスザクが話していたけど、この物語全体も、“世界丸ごとやり直し”という策を、ここで封じ手にしてしまったことで、どれだけ生きづらい現実であっても、目を背けずに立ち向かわなくちゃならなくなりました。
もの凄く面白いと思うんですけど、キャラクターが論を語るためのサンプルになってしまっては、それはもはや芝居ではなくなるので、どうかぎりぎりのところで踏みとどまって欲しいなと。その上で、作品を楽しんでいきたいと願っています。・・・え、ほんとにあと4話?(笑)
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コメント
ナナリーは
んー
私がナナリーは生きているんじゃないかと思うのは、あのフレイヤ炸裂の回の描写が不審だったのもありますけど、物語がこうなってくると、シュナイゼルにもルルーシュにも世界は委ねられないだろうという、物語の外形から決め付けている要素が大きいです。
この作品にエンドマークが打たれるときに必要とされるのは、今回の描写を見ていてもナナリーしかいないと思うんですよ。(でも、その再登場はもつれにもつれた物語を救うための最後の切り札だと妄想しています。w)
あと、書くの忘れてましたけど今どき「一ヵ月後」なんてテロップでやらなきゃいけないレベルまで、ストーリーを詰め込まなくったってねぇ。そういう無茶、『ブレンパワード』みたいで好きですけど。(笑)
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