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いわゆる“善”ではない「白富野」の話と、それから・・・ 

[2008/06/15] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 どうも、アニメの感想がうまく書けないで、(もっとも・・・もともと、うまい感想なんか書いたこともないんですが、)ブログの更新が滞っております。今日は、kaitoさんの記事が興味深かったので、コメントしようと思ったら例によって長ーくなっちゃったので、ここに書いてトラバするというパターンであります。

つまり、人はそういう強固さを持つ同時に、そんなに利口でもないから、 そう簡単にひとつの行動原理で支配されるわけがない。 どういうことが言いたいというと、とにかく人は平気でうそをつく。 人はそんな便利な生き方をするから、そう簡単に死ぬわけがない、ということです。

 ・・・いい話だと思いました。それを“しなやかさ”というんでしょうかね。
 なかなか難しい話でもあります。人々は理路整然とした「主義主張」を求めたがりますが、往々にして人間の現実は、そのように理にかなったものではあり得ない。これを、どのぐらいの人が受け入れられるのか。

 「黒富野」と言われる作品群はおおむね、さして利口でもない人間が理詰めで考えていっても、結局は行き詰ってしまうという、そういう人間の本質的な愚かさを見据えたものであったと思います。
 人間の「生」のありようとして、それは一面の真実を捉えています。その一方で、主義主張のとおりに生きねばならないと思いつめる(いわゆる“原理主義”的な)人々だけが、人間の典型的なありようではないのですよね。

 近ごろ世の中で実際に起きている不穏、悲惨な事件についての報道や、あちこちのブログの記事などを読んでいて、漠然と“フィクションの機能”ということを思ったりしています。それらはたしかに現実に起きている出来事には違いないと思うのですが、ほとんどの人にとっては“目の前の現実”ではなくて、メディアを通して知った情報に過ぎない。
 そのように、たまたま聞き知った情報の断片だけで語ってしまうことの怖さを、あまり強調し過ぎてしまうと、誰も何も語れる言葉がなくなってしまうことも知っていますので、そういうことが言いたいわけではありません。ただ、例え“目の前の現実”であってさえも、一人の人から見えていることというのは、常に“一面の真実”でしかないという。・・・その危うさを自覚しながら、それでも敢えて何かを語らずにはいられないんだという、そういう覚悟が行間から見えてくる文章と、そうでない文章というのは、これはあるような気がいたします。

 ちょっと脱線しました。
 そういう中で、“フィクション”というものが求められ、果たすべき役割というものがあるんじゃないかと考えたりしているのですが、漠然とした思いを説明するのは、なかなか難しいですね。
 いわゆる「黒富野」と「白富野」というのは、これはオセロゲームのように表裏一体で、小利口で小賢しい(というより本質的に愚かな)人間というものを見ていったときは、これはたしかに「黒」である、そして、その裏面にもまた。
 人間というものはその一方で、案外しなやかに、己の主義主張に殉じたりせず、その時その場の都合次第で手のひらを返したように矛盾したあり方が出来てしまう。そのように、「白」と言われるものは、多くの人々の思い浮かべるだろう“善”ではまったくなくて、実はむしろ逆に「平気で嘘をつく」ようなしたたかなタフネスさ(=しなやかさ)を持っている、それもまた人間ですよ、という反面の真実を捉えている。そういうことなのでしょう。

 この「黒」にせよ「白」にせよ、一般論として語るには難しく、といって具体的な実例を挙げて述べるとすると、視界からこぼれ落ちていってしまうところにも、その論によって傷つけられてしまう誰かが常に存在するかもしれないです。そんなことをいちいち考えていては、何もしゃべれない=しゃべらないほうがマシってことになっちゃいます。・・・そこで“フィクション”を通じて考えることに意味があるのではないか、とか何とか。(笑)

 あるいは、フィクションであるというその時点で、それは現実に対する一つのメタファー(暗喩)を構成しているとすれば、さらにその中に配置されたメタファーを必要以上に分かりにくくするのは、内向きに閉じた自己満足でしかない、などとも思います。“分かる人には分かる”というメタファーの置きかたのほうがそれはカッコいいんですが、それは技術論でしかないのではないかと。

 フィクションには限らない話に戻りますが。(と言うか、kaitoさんの記事からの連想が、ずいぶん遠くまで行っちゃってますが。)
 なるべく間違いのないことだけを言おうとすると、目の前の字面から見えていることに集中していかなくてはならなくて、個人的な想像力のようなものは、むしろ話の基盤を危ういものにしてしまいがちです。ただ、そうして字面から読み取れるテクニカルな部分だけを語っていても、そんなことは面白くないんじゃないかと。私はそう思うんです。
 まるでフィクションの世界を捉えるように、現実の問題を語っている人が多いように感じます。それ自体はそれでいいんですが。もしかしたら私はフィクションの物語をベタに読み込むことに慣れすぎているのかもしれなくて、自分の目の前にはない“現実”を、自分の想像力を交えずに扱うことについては、どうもいつまでたっても苦手なままです。

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[tag] 富野由悠季 fc2ファビコン

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コメント

> それは難しいことです

富野監督についての話は、おそらく囚人022さんはもう私が言いたいことをすべて代弁してくれましたので、今回はそっちから脱線させていただきます。

現実を受け取るべきか、という問題に関しては、とても難しい問題だと思います。物事をどう正確に受け取るのは問題ですし、口から出す瞬間、つまりコミュニケーションを取るとき、またしも自分というフィルターに通わなければなりません。そうなりますと、誤解と誤解を重ね合わす二重難に陥るかもしれません。となると、現実はどこまで真実なのか、というのでさえ分からなくなるのです。(なんだか押井監督になった気分だな)

ただ、フィクションと現実は必ずしも対立的な位置にいるとも限らないと思います。少なくとも”物語”という範囲のなかでは。人は常に物語るし、物語のなかで生きている、と私が思っています。

でも、今回囚人022さんの書いた記事を読んで、自分が反省しなければならないのは、一面の真実を語るには”覚悟”が要りますという指摘でした。特にやたら嫌な出来事が起こってる現在では、私もそんな覚悟が獲得したいです。

> ウソを見抜くよりホントを見抜くにしかず

という気分になりますよね。むずかしいです。
まさにシミュラークル!などと簡単には割り切れないです。

追伸:
リンクの件、お手数かけしました。ご高配ありがとうございました。

>

モテ、非モテのお話などからもきっかけを戴いたイメージなのですが。

確かに人間は自分の夢/物語の中で生きている訳ですが、
そしてその中から完全に抜け出すことは仕様上不可能な訳ですが、
あたかも科学の手法のごとく、検証と再現を駆使することで「胡蝶の夢」にも、何らかの首尾一貫した法則性を見出すことは決して不毛ではないと思うのです。

人の心は誰にとっても解明不可能です。
でも、本当に必要なのは解明することではなく、双方(と仮定し得る関係性)を有効かつ快適に運営することだけです。その意味ではエゴは欠くべからざる探針となります。
「今」「ここ」で、「自分」が考える、ということをとっかかりにして、波紋と言うかキャッチボールをする。薮の中を探る最初の杖です。

数こなすことで、「フィルターがどういう風に『歪んで』いるのか」を知っていくことも出来ると信じます。その補正も、数こなすことで出来るようになる、少なくとも近づくことが出来る筈だと。

「分かる人には分かる」というのはカッコいいですが、
「分かる人にしか分からない」というのは、カッコわるいかもしれません。
ちょっとえらそうだな、補正しなくちゃ。→自分

> タイトル欄になにか書かないと1行目が不細工になるので

>ほとんどの人にとっては“目の前の現実”ではなくて、メディアを通して知った情報に過ぎない
そういやVガンだと、
地域紛争というものをメディアを通してしか知らない少年がそれに巻き込まれる、という位置づけに
ウッソをおいていた、というのをどこかのアニメ誌で読んだような気がします。

小説1巻あたりのウッソのザンスカール等に対する認識とかみると
それが垣間見えたかと記憶しています。

ーー
それとは関係ないんですが、元記事の元記事、トミノ監督
あの本(「平気で嘘をつく人たち」)を読んでああいう認識にいたるの!???
とはいえ、私も内容についての記憶は定かではないですが、
あれはカウンセリングの症例を読んでいるようなもので
結構、精神を消耗する感じです

ずうずうしいとかいう意味で「平気で嘘をつく」のではなく
当人に罪の意識なく、彼の人の中では
それが真実としてまかり通っている、というレベルで
口に出している虚偽、なんですよ。

「決してエキセントリックではないがサイコさん」な
キャラをリアリティこめて描きたいときには
結構いい参考資料かもしれません
ーー

>さらにその中に配置されたメタファーを必要以上に分かりにくくするのは、内向きに閉じた自己満足でしかない、などとも思います。
認識しているものの範囲が違うかもしれませんが
「ほんの少し世代や層が違うだけで『言語が違う』」なあと感じている
私の感覚と同じものでしょうかね。

違う世代の人はじめ、同じ世代ですら共通体験がない層とは、
話をしていて正しく意味、ニュアンスが伝わってないな、と感じることがあって
そういうディスコミュニケーションを実感するとき
「言語が違う」といっているのです。

「言語」というのがその言葉を話す人の
文化、思想、生き様といったバックグラウンドを体現している
という意味で

ただ、人は相手の意思を理解するとき言語(文字、音声には限定せず)を通じて行います。
相手のバックグラウンドを知らない場合、その言語から意思とバックグラウンドをセットで理解するというプロセスが必要になります。

母語が違う場合は相手のバックグラウンドまで学ぼうという意思が多少なりとも働きますが、
母語が同じだと、そのあたりを省略できてしまうと勘違いしてしまうのでしょうかね。

ーー
バックグラウンドが共有できない、理解する姿勢がない人と
意思を疎通させることは無理で
そのあたりを考慮せずに
「わかる人にはわかる」「わかる人にしかわからない」ことに対し
価値判断を下そうとするのはちょっと、理想主義が過ぎますね。

全員が互いの意思すべてを共有できるだけの英知を授けられるというのなら話は別だ、という意味で理想主義的です。

さじ加減みたいなもので、最低限こういった人たちには理解されるだろう、ということを明確にし、それに対応した文章を書ければ、それでいいのだと思いますが。

私の場合、自分自身の理解(内部のもの)を、私個人が納得できる文章にする(外部にだす)ことすら不自由してるのでえらそうなことはいえないのですが。
その意味で、クリエイターなんてのは、それなりに効率のいい表現手段を見つけた人種なんでしょうが

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