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『機動戦士ガンダム』 第42話~最終話 これぞ何度見直しても感動する名作! 

[2008/03/21] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(5) | TOP ▲

 ソーラ・レイの光の奔流は、前話「光る宇宙」で、かつてなく思い切りエモーショナルな方向へ跳ね飛んだ振り子の針を、この作品本来のドライなタッチに引き戻す役割を果たしました。

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 レビル将軍も失って、混乱する地球連邦軍。目立つホワイトベースが、ただ集合の“目印”役を果たしているのが、この作品らしくって好きなところです(笑)。
 勝ち誇ったかのようなギレンの演説。・・・で、(それなのにそれなのに、)間髪をいれずにア・バオア・クー攻略作戦スタートってことで、ここは視聴者も「えぇーっ?作戦中止じゃないんだ?」って思うところですが、それも登場人物たちの不安な気分をじかに体覚してもらうための演出技法なんでしょうね。
 逃げ出したいほどの恐怖から皆を少しでも安心させようと「ニュータイプのカン」という嘘をつくアムロですが。発進前にフラウ・ボゥにもう一言、励ましの言葉をかける・・・と、その後に自然な流れですーっとハヤトが。

「ハヤトは?」
「お姉ちゃんとこに引っかかってる」
「そりゃ結構。ニヒヒヒヒ・・・」
「いやらしい笑い方」
「いいじゃないですか」
「そうだけど」

 ・・・うー、・・・アムロかわいそう。未来のことが分かればって言うよりも、本当はこんなところで「逆立ちしたって人間は神様にはなれない」のかもしれないですよね。
 ソーラレイでデギン公王を殺めたことを巡るギレンとキシリアの腹の探り合い。ニュータイプ能力は未知数と言われながら、完成度80%のジオングで出撃するシャア。刻々と移りゆく戦況の中で、淡々と積み重ねられる描写。“ジオングの足なんて飾り”と率直に言う技術士官だから、シャアにジオングが使いこなせるかも「保証できるわけありません」と正直なもんです(笑)。

 そうした中で、一瞬ぐっとエモーショナルなのはキシリアの独白。「父殺しの男が・・・。」
 酷薄な印象のある二人なんですが、「父殺しの罪は総帥であっても免れることは・・・」とキシリアがギレンを倒すというのが、どこまで計算づくだったのかというと、結果的には意外に感情に引っぱられていたような。ガルマの国葬のときなどを思い出しても、父デギンへのキシリアの接し方には、案外暖かいものがありました。もちろん政敵ギレンを倒す口実を得た千載一遇の好機という計算はあったと思うんですが、キシリアの計算には誤差があって、その原因はデギンへの親子愛だったかも。・・・一方、ギレンは自分同様に計算高いキシリアが、そんな計算違いをするというのが、これは彼のほうの読み間違いで。
 一瞬の指揮の空白が、ここでの戦局の逆転にどこまで決定的影響を持ったのかは正直分からないんですが、冷酷に見えるキシリアがふと見せた人間らしい感情が彼女の敗因となったかもしれないとすると、これはなかなか皮肉なものですね。

 ナレーション的には、ニュータイプ用に開発されたジオングのパワーを最大限に発揮できていないと焦るシャアなんですが、アムロのガンダム相手によくやってるふうにも思えます。相討ちに持ち込めたのは、ジオングの性能のおかげかもしれませんけどね。しかし「赤い彗星も地に落ちたものだな」ってキシリア、ここで彼女が多弁なのは、脱出工作を周囲の兵に気取らせないためもあるんですが。誰が上手いこと言えと・・・(苦笑)。
 後を託すトワニングが、降伏後の自分の身柄の保証を口にするのも、この作品らしいところなんですが、「私が生き延びねば・・・」と危険を承知で脱出しようとするキシリアは、これはこれで信念の人ですね。

 “ラストシューティング”は淡々と見せられるので、“え、ちょっと、・・・あ、あれ!?”って、見ているとそんな感じです。やっぱりボロボロのガンダムという絵の衝撃力は、これはすごい。
 “本当の敵”、ザビ家の頭領を倒そうと考えるアムロなんですが、シャアは危険すぎるニュータイプのアムロを倒そうと、生身での戦いを仕掛けてきて。「私は君を殺す!」と自信満々だったんですけどね。そこへ気配に引かれてセイラが割って入ってきて。
 生身で再び相打ちになる二人。シャアの眉間に剣が刺さりかけるのにはハッとします。最近になって富野監督がシャアのマスクへの屈折した思いを語っていたりするんで、そう思って見ていると、ここもなかなか微妙な作り手の思いを反映したことをやってるんですかねぇ。

「ザビ家打倒なぞ、もうついでのことなのだ、アルテイシア。ジオン無き後は、ニュータイプの時代だ。アムロ君が、この私の言うことが分かるのなら、私の同志になれ。ララァも喜ぶ」

 シャアの考えも分からないではないんですけど、ここでそれは、見事に思いがかみ合わないというか。ニュータイプ同士であっても、結局はこんなものでしかないというか。
 シャアは(自分では)いろいろ考え抜いて、すごい戦略性を持ってふるまってるつもりなんでしょうが、次の瞬間には、キシリアの脱出工作を知って「やはりザビ家の人間は許せぬと分かった」って、案外場当たり的じゃないかとも。(「いい女になるのだな、アムロ君が呼んでいる」ってのも、勝手にセイラとアムロの仲を思い違いしたんですかねぇ。)
 ただまあ。「ガルマ、私の手向けだ。姉上と仲良く暮らすがいい」って、物語の糸を前半と結び直しながら、とにかく最後までキザを演じきったのは、たしかにすごい。すごいキャラクターでした。(ただ出港したとたんにザンジバルは轟沈するというのも、“シャアが何もしなくても・・・”と思いを残させる、これも実にニクい演出ですよね。)

「殺しあうのがニュータイプじゃないでしょ」

 ここまで淡々とドライな描写で、どうしようもないコミュニケーションの不全を描き重ねてきて。その果てのここからがね、もう何度見ても泣けます。洞察力。意思の伝達力。本当はこうでありたいニュータイプ像。・・・ところでその中でさえね、アムロは『僕の好きなフラウ・・・』って呼びかけてるじゃないですか。これも考えてみれば哀しいなぁ!
 沈みゆくホワイトベースからの脱出を促して、みんなを救ったアムロだけど、彼自身の脱出はブライトもセイラも導くことが出来なくて、「人がそんなに、便利になれるわけ、ない・・・」と再び絶望の方向へ持っていっておいて、カツ、レツ、キッカの三人組が!本当にキャラクターの配置に無駄がないというのか、全てを活かしきるというのか。

「ごめんよ、まだ僕には帰れるところがあるんだ。こんな嬉しいことはない。分かってくれるよね?ララァにはいつでも会いに行けるから」

 誤解と苦しみに満ちた現実の世界から、いったん観念の世界へ行ってしまったら、それはそのほうが幸せかも、と思ってしまう想像力というのもあると思うんですが。・・・例えば(この間、一貫してそうだったのか、再びそこへ戻ってきたのか、)『星の鼓動は愛』のラストなどでも、この『機動戦士ガンダム』の終劇の迎え方をきちんとなぞっていると思います。それでも観念ではない現実に、帰るべき場所を持っているということが、人には嬉しいものなのですね。
 アニメ、とりわけロボットアニメという、とんでもない絵空事のギミックを用いながら、(いわゆるSF的なリアリズムとは別の意味での)“現実”の手ざわりを示すことに長けているのが富野監督のすごいところだと思います。ただ、とりわけこの『機動戦士ガンダム』が優れていたのは、(理屈じゃないんだけど、)“現実”に帰ることを「こんな嬉しいことはない」と言い切って終われるドラマを生み出すことに成功したところもあったんではないでしょうか。すばらしい。何度見直しても感動があります。鳥肌の立つような名作でした。

「機動戦士ガンダム」感想メモ

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[tag] 機動戦士ガンダム fc2ファビコン

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コメント

>

視聴終了お疲れ様です。
一連の、囚人022さんの初代ガンダム感想は
興味深くずっと読んでました。
キャラの芝居を終始丁寧に読んでいった、
なかなか充実した記事だったと思います。堪能しました。

それにしても、こんな繊細な芝居で組まれた話だったんですねぇ。
私も改めて見返したくなりました。

> ありがとうございます

何か障害が出ているのか、zsphereさんからいただいたコメントが表示されてないですね。もうひとつ投稿してみたらひょっこり出たりしないかと思い、やってみます。ご迷惑かけてすみません。

追伸:
あ、うまく出たみたいですね。

はじめはもう少しさっくりと見るつもりだったんですけど、大筋の話だと、劇場版でも用が足りる話なので、小芝居に特に着目しだしたら、これが面白すぎてどんどんハマっていってしまって・・・。
これが本当に30年前の作品なのかと。何度も何度も見てきたはずの作品なのかと。いまさらのはずなのに、とても驚かされました。

いいものを見せていただいて、ありがとうございますと誰かにお礼を言いたい気持ちです。(笑

> ファーストガンダムとVガンダム

 なるほどなんか感想を読めば読むほど富野監督がガンダムを超えられなかったって言った意味がわかった気がします。いまから自分もファーストTV(劇場版は見たので)見直してみようと思います、読んで思ったのが、ファーストは男による男の生き方を演出したガンダムでVは男による女の生き方を演出したガンダムなんだなあということ。どっちにしても子供にメッセージを送ってるのは間違いないんですけどメインになる男と女の幅に差があるせいなのかなんとなくなんですけど、だいたい30歳以上と以下の世代にとってのリアリズムに差があるんじゃないのかなと思いました。ファーストがその時代に生きた人その後の世代の続きのあるガンダムとしてのリアリズムなら、やっぱり自分としてはVガンダムの完成版としての劇場版三部作が見たいですね。多分Vガンダムは僕らの世代にとっての続きのないガンダムとしてのリアリズムがあるような気がします。別の意味でファーストを超える作品になる可能性を秘めたものだと思うんですよね。やっぱり他の評論を読んでも時代が速かった、ファーストも速かったんですけどファーストで演出したことは僕らの世代には体験しない可能性があるような気がするんです。富野監督にこれ以上依存して仕方ないような気がするんですけど、Vの多分変わらない部分と変わるべき部分の結末がもう一回完成した形で見てみたいんです。どうあがいても劇Zのようなハッピーエンドにはならないと思うんですけど、一ファンとして悲壮感はあるけど現実に対して少し元気になる作品になるような気がするから。

> Vガン世代さんへ

>Vガンダムは(中略)続きのないガンダム

に激しく同意します。Vガンダムは「宇宙世紀」ではあるのですけれど、『逆襲のシャア』の続編でも『F91』の続編でもないのですよね。そして、『逆シャア』にせよ『F91』にせよその続編を想像することは可能なのに、Vガンダムは最終話でみごとに完結してしまっています。

この差異は何によるのでしょう。よく考えてみたいと思います。

> うん

旅先で満足なレスができませんが。1STは「逆襲のシャア」で完結していて、それは「男というものはこういうもので…」というエクスキューズだったということは、以前に書きました。Vガンはそのストレートな延長上にはない、という指摘は正当なものでしょう。難しいですけどね。

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