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ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など その2 

[2008/01/25] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

→ ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など その1

 この話の続きです。今日では「SF」にもいろいろあるのかもしれないですけど、その歴史的には、ロボットは、その“自律性”が特に重要視されてきたらしいということでした。科学の可能性の象徴のような、こうしたロボット観は、現在のSFの中では、人工生命という観点は“クローン”など、あるいは機械の支配という観点は“コンピュータ”に代替されているような気もします。

 ロボットアニメの話をしたくてウズウズしているんですが、そこをもう少しこらえて、「軍事用ロボット - Wikipedia」というあたりなどを先に読んでおきます。

ロボットを軍事活動に利用しようという概念は、「人工の兵士」という発想を考慮すれば、恐らくロボットという語以前より存在したと考えられる。危険な環境での活動を、機械に置き換えようという発想の延長である。

 産業用のロボットでもほぼ同様ではないかと思いますが、ここでいうロボットは「人の代わりに何等かの作業を行う装置」であって、「人のような装置」ではまったくないようですね。(ここ重要かも。)その中には、“自律型”も“遠隔操縦型”もあるようですが、「危険な環境での活動を、機械に置き換えようという発想」の意味からすれば、ロボットアニメによくあるような“搭乗型”のロボット兵器というものだけは、むしろ考えにくいと言えそうです。
 あえて可能性としては、「パワードスーツ」(外骨格型または鎧型、あるいは衣服型の装置)という考え方だけは、現在でも検討されてはいるようですが、その場合は人間サイズですよねぇ。
 それから、ロボット兵器の運用の実際を見ておくと、敵味方の識別や火器管制の分野で「人間のオペレータの操作が現在のロボット兵器には絶対必要」と考えられているようです。・・・ここでは「妨害・連絡障害による管制不能」がロボット兵器のウィークポイントとして考えられているようなので、《ミノフスキー粒子》みたいな電波管制を妨害する要因を物語の世界観のベースに仮定した『ガンダム』っていうのは、制作年代を考えると、そこはやはり大したものですね。

 日本のアニメの中で、特異な人気ジャンルである「ロボットアニメ」のことを話すときには、“人型の機械(またはそれに類する人造物)”を中心的な題材にした作品だという共通理解はありそうです。

西洋には今ではタブーとみなされる奴隷制があった。ために、人の形をなしていながら、意志をもたず命令通り動くだけの存在はタブーに近い。しかし、日本では奴隷制はなかった(意識されなかった)。それだけのことである。

 「人型」という点について、Nishinomaruさんのご指摘は、なるほどですね。SF的には、タブーにあえて触れるという意識がテーマになり得るんですが、日本ではむしろ「強力さ・卓越した能力・特異さなどを採り上げ非日常への憧れをかき立てる」ものとして肯定的に受け入れられているのでありましょうか。

 元祖ロボットアニメである『鉄腕アトム』は、亡くなった息子の姿に模して作られた自律型のロボットで、被造物としての自らの存在意義や人間との関係に苦悩するなど、SFの歴史的に見て(タブーにあえて触れた意識を持つ)正統派のロボットといえる気がします。
 非自律型(遠隔操縦)の巨大ロボットである『鉄人28号』は、まさに今日的なロボット兵器でした。ただ「リモコン次第で善にも悪にもなるロボット」というのは、まさに「意志をもたず命令通り動くだけの存在」ですね。巨大さと人型である理由について、何らかの説明があるのかはよく知りません。
 Wikipediaでは、この鉄人28号を始祖とする「巨大ロボットもの」を“潮流”という曖昧な捉え方で書いてあって、それは妥当な気がします。

人形を作り、それが動く(動かす)というテーマはユダヤ教のゴーレムやギリシャ神話のタロスでも明らかなように、人間にとっては根源的なテーマであり、創造主としての神への挑戦といった面も垣間見える。(オートマタ - Wikipedia

 「からくり人形などを見慣れていたため、日本人はロボットに対し親近感があり、ロボットに抵抗感のある欧米人とは対照的であるとする論もある」ってありますが、「からくり人形」を見慣れていたという理由はどうも・・・。機械文明に抵抗感、警戒感のない日本人って、いったい・・・?
 個々の物語ではロボットの強大さや人型であることについて、適当な蓋然性をでっち上げていますけど、それは後付けの言い訳であって、そもそもなぜ私たちがこうもロボットが好きなのかの積極的、本質的な動機はよく分からないままのような気がします。

スーパーロボットものが主にヒーローロボットの活躍という非現実性・娯楽性を楽しむものであるのに比べ、リアルロボットものは他のジャンルのドラマと同様にストーリーやキャラクターへの感情移入を重視するものと言える。
ただしスーパーロボットものに全くドラマが無いわけではなく、いくつかの作品では全体主義の恐怖や驕れる文明への批判など社会派のテーマを追求したシリーズ・エピソードが存在している。またリアルロボットものにおいても兵器としての巨大ロボットが扱われることで、ロボットによる戦闘の迫力やカタルシスに憧れ心奪われる側面もある。(ロボットアニメ - Wikipedia

 要するに「ロボットアニメ」と呼ばれる物語である以上、(少なくとも等身大の人間よりも)強大な力を持つ(“スーパーロボット”的である)ことも、そのロボットが物語の世界観の中に違和感なく存在している(“リアルロボット”的である)ことも、両者ともはじめから(その動機は曖昧なままで)前提にされている課題なのでしょう。「スーパーロボット」、「リアルロボット」という表現は、本来は定量的に現せないその比重の大小を、仮に便宜的に言うことで、その作品の傾向を示しているだけのものなんじゃないでしょうか。

 「そもそも、それほど数も多くないロボットアニメをふたつに分類することにどんな便宜性があるのか分からない」とNishinomaruさんはおっしゃっていますが、ロボットアニメという一つのジャンルを二つに区分するための定義としては、「スーパー/リアル」というのは使い物にならない(あらゆる作品に双方の要素が大なり小なり含まれる)と私も思います。
 ただ、定義としてではなく、何かを考えるためのテーマ、切り口としては有効な場合もある着眼点ではないか(anterosさんの提言を、私はそう理解しました)という印象があって、ではそのテーマをあてはめて何を考えようというのかというところで、“私たちはどうしてこうもロボットアニメが好きなのか”というあたりが根源的な問い(考察課題?)になるんじゃないかと思った次第です。

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コメント

> スーパーかリアルかは問題外として

 大変ご無沙汰しております。
 こうしたお話は「ロボットアニメ」における「ロボット」の認識が多岐にわたるために混乱を招きかねないものかと存じます。勿論囚人さんは毎度ながらの慎重さで定義から論点を洗い出そうとされているので、今後の展開を楽しみにしております。
 カラクリ人形説に関しては、日本にはそもそも付喪神信仰があるからこうしたものに親和性があるとかいう話がよく出てくるかと思います。ただこれはアトムやドラえもんといった「トモダチ・自律型」ロボットの系譜に基本的に相当するものかと。え、ブレンも?(^^;

 似たようなお題で以前書いた記事がありますので、手前味噌ながらご紹介まで。

■ロボドリーム2004@ANIMAX 1~5位
http://blueeyes.air-nifty.com/muimui/2004/08/robodream_1.html
■ドラえもんはロボットアニメか?
http://blueeyes.air-nifty.com/muimui/2004/08/doraemon.html

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