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“黒富野”vs“白富野”という話(・・・なのかな?) 

[2008/01/20] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(11) | TOP ▲

サンライズ『∀ガンダム』 - 主にマンガやアニメに関するメモ

 こちらを読ませてもらって感じたことから、(いつものことですが)雑談的に書いてみます。

 「カプルの体育座りはすばらしかった」と書いておられるんですけど、あれには困ったという話を、富野監督は言ってたらしいですね。

『カプルを本編に出すのは正直困った。世代間のギャップによるものだろうが、ここまで僕のわからないものを出してくるのかと思った。 コンテを切るにしても芝居させにくいメカだった。本編で上手く使われていると思う人が居るとすればそれは偶然に近い結果によるもの。』

∀ガンダム・アートワークス

 上手く使われている・・・と思うんですけどねー。(笑)
 言われてみれば、なるほど“芝居”させにくいメカかも。「ロボットにまで芝居させる人」(いやいや、動物にまで“芝居”させてますという指摘もありましたが、)ならではの表現で、決して偶然ではないと思わずにはいられません。

 「ところでローラだからOPは西城秀樹だったのだろうか」とのことですが。(笑)
 なるほど!いや、逆に主題歌がヒデキだったから、「ロ~ラ♪」だったという線は捨て切れないですねー。「傷だらけのローラ」!これは私ほどのオッサン世代が、指摘されるまでそれを思いもしないとは、実に不覚でした。これだからいろんな方のお話は伺ってみるものです。

 ・・・って、余談が長くなりましたが、『∀ガンダム』は、たしかに語りにくい作品だと思います、うん。富野好きには定評のある作品だと思いますが、世間一般で人気があるとは言えないところが残念なのですよねー。

メカ好きとしてはこだわりどころである「リアル/スーパー」というところを、富野さんの場合、ある程度意図的に(あるいは感覚的に?)自在に越境しているところが、(繰り返しになりますが)私は面白いと思うんです。

 「ひげのガンダム」のデザインの話は以前もこのへん(「ロボットという夢。―富野アニメでは最後に覚めて終わるもの」)でしましたが、「メカ/キャラクター」という越境のしかたの話にもできそうですね。(“芝居”という言い方に馴染ませると、キャラクターというのは“役者”とも置き換えられそうですが。)

 anterosさんの記事では、地球の住民と、月の住民というそもそもの所属があり、それぞれに言い分もあって、その間に対立があり、・・・という初期配置ではじまった物語が、終わってみれば「地球人、ムーンレイスの区別なく、和平を望むもの、破壊を望むもので別れた」のは、そもそもの所属を簡単に離れてしまい過ぎではないのか、というところに引っかかっておられるんだと読解しました。
 所属とは、「人間の生存を条件づけるもの」であり、「こういった桎梏から自由になることは容易ではない。所属の桎梏を逃れて自由にそこから逃れることのできるものは限られたものにすぎない。」という指摘を、『伝説巨神イデオン』の場合を例に出して言っておられます。つまりイデオンで言うと、まさに人間の“業”のことですね。・・・これは俗に言う、“黒富野”vs“白富野”ということになります!(笑)

 『ブレンパワード』以後の“白富野”では、「生存を条件づけるもの」の強大さ、あるいは不可避性という問題(=“人間の業”)が看過されてしまっているのではないか、という問いは、あってもおかしくないものだと思います。
 実はanterosさんとは、『キングゲイナー』について書かれた記事(サンライズ『Overmanキングゲイナー』 - 主にマンガやアニメに関するメモ)でも、“戦闘シーンの中での対話”ということについてお話をしていたのですが、なかなか噛み合わなかった話の要点が、ようやく分かった気がします。ちょっと飛躍しますが、人の性は善(性善説)と思っているかどうかということだったのかも。言葉が人の真実を映すものではない(「誤り」を不可避的にもたらす)のは自明のこととして、言葉にならない部分(本当はこう思っていた、というようなこと)で、人は善であるのかどうかということですね。
 富野さんはそうしたものを信じてないのではないか、と言われると、そうでしょうねとしか・・・。つまり、善も悪もなく、人は人というものなんだろう(それ以上でもそれ以下でもない)、と考えていそうな気がします。
 人は誰も、常に何ものかに所属していて、善も悪もなく、そこに対立は生まれる。対話の中で「誤った」コミュニケーションは不可避に生じるけど、それを前提として、その上で何をするかが問題なのと、それは同じことですよね。

 ただ、だからこそ、そこで“越境”が必要となるのであり、その手段としての“芝居”なのではないかと思うのですね。“エンターテイメント”というよりも、ここでは“芝居”であることが、より重要かもしれないですね。あるいは、その業を超えることが出来ないというのだけでは、当たり前すぎて芝居にはならないのかもしれません。(芝居にする意味がない、のかも。)

 『∀ガンダム』では、ギム・ギンガナム一人だけが、最後までその「人の業」を背負ってしまったのではないかという指摘も正当なもので、『ターンエーは失敗。特に敵の設定を根本で間違えたのではないか。』と富野監督がおっしゃるのも、そういうことなのかもしれないなと思いました。
 けれども『∀ガンダム』は、“人の業”を看過してしまったのかといえば、私はそうではないと思います。最終回、どうしてソシエさんは「わーーーーーーーっ!!」と叫ばなくてはならなかったのか。咬めば咬むほど味わいのある芝居がそこにはあると思うんですよね。
 所属を超えることは困難であることは言うまでもないけれど、それを超えてみせる(戦場での対話の可能性を拡大してみせるように)のは、それが“仮面劇”としてのアニメ(とりわけロボットアニメはそう)の存在意義だからではないかというのが、私の考えです。
 つまり“人の業”を前提として、その上で何をするか、なのだと思うのです。そこいらが、あまりに隙がなくタイトに組み立てられているんで、いい作品だとは思いながら、感想を述べるのが難しい作品のような気もするんですけどね。

 ちなみに『∀ガンダム』については、「今日の危機は何か―『∀ガンダム』の場合。」あたりで書いたことを、もう少ししっかりと考えてみたいと思っているんですが、なかなかまとまりません。続きはいつかまた。

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[tag] ターンエーガンダム fc2ファビコン 富野由悠季 fc2ファビコン

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コメント

> 暴力は議論のつぎに

国語か英語の試験問題(ということはかなり昔のことです)で、次のような話しを読んだことがあります。

殴り合いの際に、西洋人は無口だが、日本人は多弁である、なぜなら、理知的な西洋人はまず議論してそれでも解決しないときに暴力にうったえるが、感情的な日本人は「口より手の方が早い」。

わたしはこの手の日本人論を都市伝説と考えます(参照:イラク戦争時の先制攻撃論など)。しかし、たしかに、そのような傾向は富野ロボットアニメにあります。

なるほど、剣戟を交えながら、多弁に議論しているわけですが(舌をかまずに!)、しかし、これは演出上の問題で、実際には議論したあとではじめて本気(まじ)に戦い始めていると脳内で修正して見るべきところだと思います。

ところで、以前、ブログで書いたように、そもそも富野ロボットアニメは戦争ではなくて合戦だと思います。戦争と合戦の最大の違いは、相互に無名な人どうしの戦闘か、名乗りを上げてからの戦闘かです。

以上の意味でも、富野ロボットアニメは、戦争ではなくて合戦アニメなのです。

補遺:
ただし、ライディーンは別かもしれません。上では、富野ロボットアニメと取りあえず呼びましたが、指摘した合戦性は、もしかしたら、長浜監督から始まって富野監督に受け継がれたものかもしれません(推論でごめんなさい)。

余談:
長浜ロボットアニメというと『ダルタニアス』をわたしは見ていません。いつか、見られたら良いなぁ。

> 講談調

相当遠い記憶ですが、ロボットアニメでは、すでに『マジンガーZ』で、兜甲児とアシュラ男爵とかが、口論をしながら戦っていたような気はします。
長浜監督といえば、宮崎駿が『巨人の星』での、星飛雄馬が一球を投げるまでの超主観的な時間表現を「講談調」と述べていましたね。
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-1063.html

> 史観の倒錯

アニメを見直すまでもなく、永井豪の漫画を見ればすぐに確かめられますよね。

そうなんですよね、昔のロボットアニメで口論は普通に交わされていたわけで、その伝統をガンダムも引きずっているだけです。

そもそも、なぜかアシュラ男爵たちは日本語をつかっているわけで…。ガンダムは、登場人物が言葉で苦労している描写はないので、あれはすでに言語は英語かなにかに統一されているのでしょうか。

はなしがズレますが、一次の流行語「コミュニケーション能力」も非常に具体的に言えば英語力なんですよね。つまり、英語を母国語とするアメリカ人が、スペイン語とか日本語とか要は非英語を母国語にしている人たちに対して英語を勉強しろ、と言っているだけの話しで、まぁ、なんというか、WASPのモンロー主義化ですよ。

マクロスは、テレビ版では日本語を喋っていた宇宙人に、劇場版ではゼントラーディ語?を喋らせていたし、要は、マクロス世代から見たら、ガンダムもスーパーロボットなのでしょう。

結論としては、スーパーロボットとリアルロボットという分類はナンセンスだ、ということ。スーパーロボット大戦というゲームソフトが便宜的に、東映動画系をスーパーロボット、サンライズ系をリアルロボット、と分類したのが始まりなのに、スーパー/リアルという概念に振り回されても不毛だと思います。

> トラックバック感謝

囚人022さん、
トラックバックいただきありがとうございます。

ちょっと考えたことがあるのですが、こちらに書くと長くなりそうでかえって失礼だと思い、自分のブログに書くことにします。

∀ガンダムを見て思ったのは、結局悪者をやっつけて終わったしまったのではないか、ということなんです。僕の読解力はかなりヤバいのでもう一度見直さなければいけないのでしょうが、そこが一番引っかかりました。僕は悲劇が好きなので(そのことは僕がブログで書いたことと関連していると思いますが)、よりそう思ってしまうかもしれません。最後のソシエについては囚人022さんの仰るとおりかもしれませんね。

Nishinomaruさん、
はじめまして。

スーパーロボットとリアルロボットの対比については、僕は結構有効だと思っています。それは歴史的な分類というよりも、概念上の分類として、という意味でですが。

僕はアニメ(に限らず小説や映画もそうだと思うのですが)ある問いの表現だと思うのですが、その問いのあり方をスーパーロボット/リアルロボットと区別することができるのではないかと考えています。必然的に僕がする区別は従来の区別とは異なってしまうかもしれませんが、でもこの区別は利用しがいがあるかなと思っています。もしよろしければ、僕のブログをご覧になって、いろいろご指摘いただければと思います。僕はまともにアニメを見だして一年経ってないので、結構噴飯ものなことを書いていると思いますので。

今後ともよろしくお願いいたします。

> 区別のまえに限定を

anterosさん、はじめまして。もし、よろしければ、わたしのブログにも遊びにきてくださいませ。

調子に乗って「指摘」をするならば、区別をするまえに限定をしてくだされば、分かりやすいと思います。

一口にアニメといっても膨大な量になります。そしてジャンルも多岐にわたります。ですから、もし、スーパーロボット/リアルロボットというような二項対立的な区別を導入されるのであれば、まず、どこからどこまでについての区別分類なのかをある程度明確にしないと難しいはずです。

> 限定してみます。

お返事ありがとうございます。

ご指摘に質問で返して恐縮ですが、そのご指摘は僕のブログをご覧になって、理論的な前提として欠陥があるということなのでしょうか、あるいはここで議論をタブラー・ラサーで始めるにあたってそういう作業が必要だということなのでしょうか。

いずれにしても、僕が考えるのは(もちろん厳密に規定はできませんが)、人間では規模的、能力的にできないミッションがあるとき、何らかの手段が必要になります。その手段になりうるものの一つがロボットなんだと思います。場合によってはそれが「魔法」であることもあるでしょう。ジョジョだったらスタンドでしょう。僕は一応、そういった手段になりうる物質的な人型のもので、自我をもたないものをロボットといっていいのではないかと思っています。僕はこの手段という…に注目しているので、『のび太と鉄人兵団』のロボットとかは僕自身が考えるロボットには含めていません。彼らは自我をもっているので。ドラえもんも同様です。
今僕がいえるのはこのぐらいでしょうか。後は帰納的にいくつかいえることがあるかもしれませんが、それはまた別の機会ということで。

ガンスリはマンガは読んでいますが、アニメはまだ見てません。マンガは面白かったのでいずれ見たいと思います。ちなみに第02期はだめということですか?

> anterosさんへ

>そのご指摘

は、一読者の要望に過ぎません。

読者の頭は《タブラー・ラサー》ではないと思うので、たとえば「アニメ」という言葉ひとつとっても、読者によって指し示すものは違います。その人なりのアニメ観は、この言葉を知る限り、あるはずです(たとえば、「食わず嫌い」な人は「アニメはつまらない」と言うかも知れません)。

とくに独自の概念を提唱されるということですから、対象となる「アニメ」を限定された方が、読者には理解しやすいと考えるのです。

《自我をもたないものをロボット》とすれば、エヴァ○ゲリオンはロボットに含めないということです。anterosさんの見識だと拝察します。

謝意:
囚人022さん、ごめんなさい。anterosさんへのコメントを、こちらに載せてしまいました。以後、弁えます。ずうずうしいついでにanterosさんへ追伸。ガンスリの第2期はまだ始まったばかりなのでなんとも言えません。それ以上の含意はございません。

> 感想・随想

「タブラ・ラサ」ってのは、「白紙」というようなことですね。
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/tabula_rasa.html
検索すれば勉強になりますけど、管理人の頭はあまりよろしくないので、いささかご配慮をいただけるとありがたいです。(笑)

私は感想・随想的なことしか考えられないほうでして、万事おおむね「~な感じ」とかなのですが、「論」のようになると、話題の拠って立つ共通基盤のようなものなしで、建設的な話をするのは難しいんだなぁと思います。
「想定する読者」みたいなものもあって、ここでのコメント欄だと、やっぱり私の貧しい知識でも、一回検索すれば、話の大筋は分かるぐらいの線っていうのは無言のうちに了解ができているような気がします。(笑)
まあ、そういうのも含めて対話でありコミュニケーションなのでしょうね。皆さん、いつもいろいろすみません。

>

≫Nishinomaruさん

ああ!
かえって気を遣わせてしまいましてすみません。これこそ「一読者の要望」みたいなことを、なぜか管理人が率先して言ってしまいました!
あまりお気になさいませんよう。(笑)

> すみません

申し訳ありません。

あんまりどういう方に書いているのかということを考えずに書いてしまいました。

以後気をつけます。

>

≫anterosさん

いやそんな!(笑)
「一読者の要望」ですってば!!

これは私の感じていることですけど、「不特定多数の人に普遍的に何か言う」ってのは、実に難しいことで、具体的に読んで下さる方の想定があったほうが、書いてることはまとまりやすかったりするような。

話し相手がいると助かります。それに加えて私の場合は、そうした対話を衆人環視の中でやっていることで、かえって気楽に話せている面があるような気がしているのです。(身の丈にあわない背伸びをしても、すぐに馬脚を現すのが自分でありありと分かるのです。)

私の“オレ基準”を強制しちゃったみたいで、ほんと申し訳ないです。要は、気楽にまったり行きましょうってことで。あまり気にしないでください!(笑)

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