“黒富野”vs“白富野”という話(・・・なのかな?)
→ サンライズ『∀ガンダム』 - 主にマンガやアニメに関するメモ
こちらを読ませてもらって感じたことから、(いつものことですが)雑談的に書いてみます。
「カプルの体育座りはすばらしかった」と書いておられるんですけど、あれには困ったという話を、富野監督は言ってたらしいですね。
上手く使われている・・・と思うんですけどねー。(笑)
言われてみれば、なるほど“芝居”させにくいメカかも。「ロボットにまで芝居させる人」(いやいや、動物にまで“芝居”させてますという指摘もありましたが、)ならではの表現で、決して偶然ではないと思わずにはいられません。
「ところでローラだからOPは西城秀樹だったのだろうか」とのことですが。(笑)
なるほど!いや、逆に主題歌がヒデキだったから、「ロ〜ラ♪」だったという線は捨て切れないですねー。「傷だらけのローラ」!これは私ほどのオッサン世代が、指摘されるまでそれを思いもしないとは、実に不覚でした。これだからいろんな方のお話は伺ってみるものです。
・・・って、余談が長くなりましたが、『∀ガンダム』は、たしかに語りにくい作品だと思います、うん。富野好きには定評のある作品だと思いますが、世間一般で人気があるとは言えないところが残念なのですよねー。
メカ好きとしてはこだわりどころである「リアル/スーパー」というところを、富野さんの場合、ある程度意図的に(あるいは感覚的に?)自在に越境しているところが、(繰り返しになりますが)私は面白いと思うんです。
「ひげのガンダム」のデザインの話は以前もこのへん(「ロボットという夢。―富野アニメでは最後に覚めて終わるもの」)でしましたが、「メカ/キャラクター」という越境のしかたの話にもできそうですね。(“芝居”という言い方に馴染ませると、キャラクターというのは“役者”とも置き換えられそうですが。)
anterosさんの記事では、地球の住民と、月の住民というそもそもの所属があり、それぞれに言い分もあって、その間に対立があり、・・・という初期配置ではじまった物語が、終わってみれば「地球人、ムーンレイスの区別なく、和平を望むもの、破壊を望むもので別れた」のは、そもそもの所属を簡単に離れてしまい過ぎではないのか、というところに引っかかっておられるんだと読解しました。
所属とは、「人間の生存を条件づけるもの」であり、「こういった桎梏から自由になることは容易ではない。所属の桎梏を逃れて自由にそこから逃れることのできるものは限られたものにすぎない。」という指摘を、『伝説巨神イデオン』の場合を例に出して言っておられます。つまりイデオンで言うと、まさに人間の“業”のことですね。・・・これは俗に言う、“黒富野”vs“白富野”ということになります!(笑)
『ブレンパワード』以後の“白富野”では、「生存を条件づけるもの」の強大さ、あるいは不可避性という問題(=“人間の業”)が看過されてしまっているのではないか、という問いは、あってもおかしくないものだと思います。
実はanterosさんとは、『キングゲイナー』について書かれた記事(サンライズ『Overmanキングゲイナー』 - 主にマンガやアニメに関するメモ)でも、“戦闘シーンの中での対話”ということについてお話をしていたのですが、なかなか噛み合わなかった話の要点が、ようやく分かった気がします。ちょっと飛躍しますが、人の性は善(性善説)と思っているかどうかということだったのかも。言葉が人の真実を映すものではない(「誤り」を不可避的にもたらす)のは自明のこととして、言葉にならない部分(本当はこう思っていた、というようなこと)で、人は善であるのかどうかということですね。
富野さんはそうしたものを信じてないのではないか、と言われると、そうでしょうねとしか・・・。つまり、善も悪もなく、人は人というものなんだろう(それ以上でもそれ以下でもない)、と考えていそうな気がします。
人は誰も、常に何ものかに所属していて、善も悪もなく、そこに対立は生まれる。対話の中で「誤った」コミュニケーションは不可避に生じるけど、それを前提として、その上で何をするかが問題なのと、それは同じことですよね。
ただ、だからこそ、そこで“越境”が必要となるのであり、その手段としての“芝居”なのではないかと思うのですね。“エンターテイメント”というよりも、ここでは“芝居”であることが、より重要かもしれないですね。あるいは、その業を超えることが出来ないというのだけでは、当たり前すぎて芝居にはならないのかもしれません。(芝居にする意味がない、のかも。)
『∀ガンダム』では、ギム・ギンガナム一人だけが、最後までその「人の業」を背負ってしまったのではないかという指摘も正当なもので、『ターンエーは失敗。特に敵の設定を根本で間違えたのではないか。』と富野監督がおっしゃるのも、そういうことなのかもしれないなと思いました。
けれども『∀ガンダム』は、“人の業”を看過してしまったのかといえば、私はそうではないと思います。最終回、どうしてソシエさんは「わーーーーーーーっ!!」と叫ばなくてはならなかったのか。咬めば咬むほど味わいのある芝居がそこにはあると思うんですよね。
所属を超えることは困難であることは言うまでもないけれど、それを超えてみせる(戦場での対話の可能性を拡大してみせるように)のは、それが“仮面劇”としてのアニメ(とりわけロボットアニメはそう)の存在意義だからではないかというのが、私の考えです。
つまり“人の業”を前提として、その上で何をするか、なのだと思うのです。そこいらが、あまりに隙がなくタイトに組み立てられているんで、いい作品だとは思いながら、感想を述べるのが難しい作品のような気もするんですけどね。
ちなみに『∀ガンダム』については、「今日の危機は何か―『∀ガンダム』の場合。」あたりで書いたことを、もう少ししっかりと考えてみたいと思っているんですが、なかなかまとまりません。続きはいつかまた。












