『逆襲のシャア』はカオス!だけれども!
Nishinomaruさんに「逆シャアはカオス、は至言」とおだてられたので、いい気になって今回のタイトルにしてみました。(笑)
『逆シャア』関連の話題ってこのブログで書く機会が(結果的に)多いんですけど、この話題はどうしてこう、濃厚で面白いコメントがたくさんつきやすいんでしょう?それだけもとの作品としても濃いぃからですかネ?(笑)
・・・と自分で書いたとおりでありまして、興味深いお話がいろいろあったので、記事のかたちでまとめてみようと思いました。
前の記事(「『逆襲のシャア』は難しいけど、いい作品ですね」)は雑駁な感想を順不同で書き留めちゃったんですけど、皆さんの反応から振り返ると、ポイントの一つは、“アムロやシャアの物語”と、クェスやハサウェイ、それにギュネイらの“ウザい子どもたち”のエピソードが渾然一体としているのを、いちおう仮に多層構造のように捉えなおして、個別のレイヤーを見てみようとしたところだったんですかね。これまでにも、たびたび『逆襲のシャア』について、このブログの中で皆さんとお話させていただいてきた成果が、少しはあったんじゃないかと思います。今まで直視を避けてきた“ウザい子どもたち”にも、私もそれなりには目が向けられるようになってきたのかなぁ・・・。
「正直言って、GyaOの画質では見られたもんじゃない」とか言ってないで、「ちゃんと」DVD買いなさいヨとpsb1981さんにツッコミをいただきましたが、・・・そうですねー。ホントすみません、お布施を収めないダメ信者で。(笑)
生まれて初めてマトモに観たガンダムであり、富野アニメですね。 小学校4〜5年でした。 子供のころの初見の印象や理解は、大人になった今でもほとんど変わっていません。
それはスゴイと思います!!
私が小学4年〜5年生の頃に見たのって、『宇宙戦艦ヤマト』だものなぁ。今でも大事にしている思いもあるにはあるけど、全般としてはあの頃と同じ目線ではとても見ることができません。・・・そうですね。作品それ自体は変わりなくあるわけで、変わってしまったのは私のほうなんでしょう。以前に私の見方にブレがあるという指摘をいただいたのも、たしかな視座を持つ人と、ずっと発展途上な私の差なのかな。
それに加え、『イデオン』なんかを引きずりながら私の見た印象には、素では作品を直視できないようなバイアスがかかっていたんだろうか、という思いもよぎります。興味深いお話でした。
私はその種のバイアスが不可避的にかかっちゃうのも、“それはそれで仕方ない、結局は一期一会です”って、すぐに開き直っちゃうような人です。で、公開当時の私にかかっていたバイアスを考えると、Nishinomaruさんと同様、『ZZ』のテレビ放送は、「アンチ続編というような心情でスルー」みたいなところがありました。うん。
私はそれきり、ごく最近までまともに『ZZ』を見直してなかったんですけど。“最後の最後で何とかして見せてしまうというのはスゴイなぁ”と変な感心をしまして。ご指摘でナルホドと。ほぼ同時並行で作っていたんだから、特に『ZZ』の終盤などは、ストーリー要素だけでなく、テーマ面でも『逆襲のシャア』と重なる部分が多々あったのは道理で。
『逆襲のシャア』で本当に富野監督がやりたかったのは、『ベルトーチカ・チルドレン』の小説版だそうですから、それが好きで、アムロがかっこいいと感じるgudaちんさんは、とても真っ当ですよね!シャアの目的意識は分裂気味だけど、感情移入できるというのも、ああ、そうなんだという感じです。
全体の印象は混沌としている『逆襲のシャア』が、でも、ただグダグダの作品ではないのは、zsphereさんが言われたように、例えばシャアならシャアなりに、個々のキャラクターの視点で通して観ていくと、一人一人のやってることには、それぞれに条理が通っているところがあるんですよね。シャアの屈折ぶり、アンビバレントさにも、本当に物語上のキャラクターとは思えないような人間臭さが、てんこ盛りに感じ取られます。
アムロにサイコフレームの情報を流したのは、余裕というよりは未練とか執着と呼ぶべきものだろうと思います。
ほんとだ!私はどうもアムロ視点にブレる傾向がありますね。その視点からは、あれはやっぱり余裕をかまして“人を見下すことしかしないやつ!”なんですよ。(視点があちこちしてブレやすいのは、私の悪癖だなぁ。)
やっとクェスやギュネイを(いったんは)度外視できる程度にはなってきたけど、アムロとシャアの間では心が揺れてしまいます。それは喩えれば“一枚の紙の表裏”なんだから、ある瞬間に同時に両方を認められるわけはないって、頭でだけは分かっているんですけどねぇ。「一筋縄ではいかない作品」!(激しく同意。)
同様にシャア視点からだと、なるほどアムロの「革命はいつもインテリが始めるが…」も、Nishinomaruさんが言われるように、煽り文句としてしか聞こえないかもしれないのか。うーん、なるほど。
皆さんの話を伺っていて、ふと思ったんですけど、物語上の時系列から言うと、新訳Zを完結させた『星の鼓動は愛』の後が『逆襲のシャア』であり、ある程度そのように意識もされて『星の鼓動は愛』のラストも作られています。(エンディング曲『Dybbuk』が象徴的。)だけど、制作順の時系列というのもやっぱりあるような気がして、『逆シャア』には繋がらないパラレルワールドとして『星の鼓動の愛』のラストを見たときに、ハマーン・カーンも『ZZ』のようなキレ方をすることもなく、こっそりとシャアと一緒に地球圏を離れて、どっか木星あたりで二人のんびりと余生を送ったのかもしれない・・・などという夢想が、今はじめて浮かんできました。(もちろんアムロは地上でベルトーチカと暮らしているわけです。)
gudaちんさんの願われたように、輝かしい太陽神にはなれないんですが、案外、あの“えぇカッコしい”のシャアとハマーンだから、Nishinomaruさんが“「飛べない豚はただの豚だ」とか格好付けながら”と言われたみたいに、二人で気障な会話を交わしながら、渋い中年のおっちゃんおばはんになりました、みたいな。(笑)
しかし、たしかに、これはあんまり売れ筋のストーリーではないような気もします・・・。だけれども!
『Dybbuk』には違和感を感じたと言う人が思いがけず多かったわけだから。案外、物語の舞台から去るにあたり、そんな平々凡々としたやり方を、あのシャアやハマーンにさえも与えてやりたいと、心の奥で願っていたファンも少なくなかったということなんでしょうかね。ふむふむ・・・。














