“日本のビジュアル大衆文化の頂点は、アニメじゃなくマンガ?”という話
[2007/12/05] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲
パソコンの調子もネットワークの調子も絶不調!12月は、それでなくても気ぜわしくて嫌いです。(←時候のあいさつ。w)
今日はまた、ネットで見かけた話題から。
東浩紀は小黒氏との会話で、「七〇年代のアニメ作家たちは、大きく表現主義と物語主義の二つに分けられると言われている」との示唆を受けたと述べている。表現主義派は大塚康生、宮崎駿、高畑勲といった東映動画出身の人間たちであり、物語主義派はりんたろう、安彦良和、富野由悠季といった虫プロ出身の人々である。
こちらのブログは面白い記事がてんこ盛りで、あちこちと興味深く読ませてもらったんですが、上で引用した記事には、“アニメ様”こと小黒祐一郎さんご本人から「訂正」が入ってました。
それから「七〇年代のアニメ作家たちは……」の話だけど、これはどこかのパーティで言った話。多分、どこかで勘違いされている(増田さんの勘違いではなく)のだろうと思うけど、りんたろうさんを始めとする虫プロの人達が「表現主義」だと言ったはず。
以下はパーティで話してない内容かもしれないけれど、この考え方で言うと、富野さんの立ち位置が曖昧だ。富野さんのスタイルは虫プロ出身なのに「表現主義」的ではない。だから、富野さんはアニメ界の主流になる作品は作ったけれど、虫プロの流れの中では主流ではない。という話。
念のため、訂正。
東映動画系、虫プロ系というのはよく言われる話なんですが、「表現主義」「物語主義」という言い方を聞いたのははじめてで、もし最初からそういう対比なのだったら、語感から言って「勘違い」の発生も無理はないという印象。でも「どこかで」勘違いが、ということなので、伝言ゲームの途中で、違うプリズムの通過時に屈折が生じたものなのでしょう。「表現〜」のほうにしか訂正記事の中で言及をしておられないから、もしかしたら「物語〜」というほうは途中で誰かの解釈した尾ひれがついたということなのかも。
まさに伝言ゲーム恐るべしなんですが(笑)、そもそも“アニメ様”が「りんたろうさんを始めとする虫プロの人達」を表現主義的と名づけた、その意味は、ぜひ聞いてみたいと思ったのでありました。
ところで、
保守本流という言葉がよりふさわしいのは東映動画でした。
・・・というのは、先日Nishinomaruさんからいただいたコメントの一節なのですが、アニメーションらしいアニメーション(いわゆる日本的な“アニメ”ではなく)としての本流は、東映動画系にあるんだろうなぁと私も思います。というところで、じゃあ虫プロ系とかっていったいなんなのかという話です。
言い得て妙であるが、日本のビジュアル大衆文化はマンガに集約され、一方アメリカは映画がその位置を占めている。氏が言うように日本の大衆的エンタティンメント・コンテンツの頂点にはマンガがあり、そこからアニメやテレビドラマ、映画が派生して行く。一方、アメリカでは映画が頂点にあり、ついでテレビアニメやコミックといった二次著作物が発生するが、そこが日米の映像エンタティンメントの大きな違いと言えるであろう。
上記は、宮崎駿さんの著書『出発点1979年〜1996年』を増田さんが紹介した文のまとめなんですが、宮崎監督がテレビアニメ的な過剰表現(つまり虫プロ的表現、でしょうか)を“講談”に喩えたのを受けて、「日本のアニメには伝統的な大衆文化の影響が垣間見られる」と述べておられるのが面白く。
そうして、アメリカの“映画”に対して、日本の“マンガ”について宮崎さんが、「アメリカ社会で、いちばん社会全体を繋いでいるのは、マンガじゃなくて彼らにとっては映画なんです。日本は多分、テレビとマンガがそれを担っていて、映画の方は隅っこの方にいっちゃったということだと思うんですね」と書かれていたのを上記のようにまとめてあります。
“日本のビジュアル大衆文化の頂点は、アニメじゃなくマンガ”という見方についても、たぶんそうなんだろうなと思います。伝統かどうかはわからないですけど、マンガには浮世絵だとか、何か歴史を辿ってもよさそうなルーツがあるのも面白いですよね。
仮に、日本では、その大衆文化の伝統の底力的に、虫プロ的な表現も認められる素地があるということを、宮崎監督は(不本意かもしれないけど)言っているのだとすると。“アニメーション”的には東映動画系が本流だけれども、“大衆文化”的には虫プロ系が本流となる目があるということなのかもしれないですよね。
そこで虫プロ系の中では異端児扱いの富野監督の立ち位置なんですが。“アメコミ風”とよく言われるタツノコ系との親和度が高いんじゃないかと、私は前からぶつぶつ言っているわけです(笑)。
そういう意味で言うとアメコミは、“映画”を頂点とするアメリカ的な文化風土の産物なわけで、富野監督的にもピタッとはまっている気がするんですよね。
ただそうイレギュラーな位置づけにおさまってしまうと、アニメ様に「富野さんはアニメ界の主流になる作品は作った」って言ってもらった立場はどうなっちゃうのかです。まあ、ぶっちゃけ、その辺のアンビバレントなところが魅力と言えば魅力なんですけどねー。(笑)
コメント
識字率、組合、系譜学
おお、講談!
漫画ありきで、アニメが派生してる。
面白かったのは、漫画としても黒田の作品は人物表現がすごくブッキラボーで、ある意味現実の我々の感覚にすごく近いんです。まあ、漫画としても決して主流派の表現法ではないですけども、この人の作品の魅力の根幹でもある部分です。
ところが、アニメ版の方はほんとにアニメで、グワハハと笑い、イタリア人のごときオーバーアクションで、あ、イタリア人のキャラか(汗
そういう意味では、表現の重点ははっきり別の方向に行ってる。
でも、どっちも面白いのです。
表現法の他にもシナリオ自体に変更加筆が見られ、その意味でも全く違う世界観をかもしているんですが、それぞれに納得ができる。インドカレーもカレー丼もそれぞれ旨い感じ、とでもいいますか。まそれはさておき。
一目で違うくっきりとした感情表現が、見てる僕にしっくり来たという事、やっぱり、日本は講談文化なのかもしれないと、目から鱗です。
してみると、漫画文化は講談じゃないのかな。
そこからはみ出してきたさまざまなキラ星を輩出する漫画文化ですが、アニメという触媒を通すと、また違ったモードになるのかな。
まあ、宮崎さんの言われるのが講談の「そ〜のとき早く、かのとき遅く〜・・・」とか言うような、デフォルメされた大仰な演出(客観的な時間<主観的な情感)を指しているということぐらいは私もイメージできるんですけど、もっと若い人にはどこまで通じるんだろうか。(苦笑)
芝居がかった演出というのが、どうも近年世間では受け入れられにくくなっているのかという印象があるんですが、そこには“伝統”の弱体化というようなことがあるのでしょうか。私はマンガもあまり読まないし、アニメ以外のジャンルのことがからきし分からないので、またいろいろと教えてくださいませ。
テレビは講談、というお話
「テレビはラジオだ」という格言を聞いたことがあります。講談というかラジオというか、そいう「語り」は放送メディアの基礎なのかもしれません。
アニメ映画とは別でテレビアニメは、やっぱり講談的で、たとえば、『らきすた』のらっきーちゃんねる(番組内ラジオ番組)の白石みのるとかアニメ店長とか、さかのぼると押井版うる星のメガネとか。
ただ、講談というとその口調や節回し、要は形式とは別に、内容面も考えなくてはいけません。「お涙頂戴」?
マンガはバルタザールさんが示唆されているように非常に多様ですよね。映画的なものからエッセイマンガというようなものまであるわけです。宮崎さんがテレビと並べたのは、その中でもとくにテレビアニメ化されるようなマンガでしょう。なぜ黒田硫黄さんを宮崎さんが絶賛したのか、その理由は、以上の意味でテレビ的ではなくて映画的だからかもしれません。
セクシーボイスアンドロボはテレビドラマ化されたわけで、微妙ですが。
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