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新訳Ζのデジタル映像編集(素人的視点から) 

[2005/11/23] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(5) | TOP ▲

映画監督 富野由悠季「Final Cut Proは“必殺兵器”でした」

常連のスカルさんはMAC使いでCGを描く人。だからこういう御大の情報が気になってチェックしたりしておられる。

デジタル技術の進歩を素直に喜ぶ御大。自分もちょっと気になるページだな、と思っていました。

もうひとつ重要なのは「ワンフレーム編集」ができたこと。これもフィルムでは難しいことでした。TV版では3フレームずつの動きというのが結構あって、テンポよく見せるために1秒半の動きを1秒のものにするために1フレームずつ抜いていくようなこともやりました。これは結構やりましたが、本当につらい作業だった(笑)。でも、やってみると間違いなくいい、とわかります。だったらやるしかないんです。それをやるから、旧作を使う意味があるんです。



これはすごいね。もう「旧作画だ!」っていうだけで「痛い!」と決め付けて見てる人が多いけど、そんな作業があったなんて思ってもみなかったし、言われて見てみても、どこにそれがあるのか分からないようなところで厳密に動きを追及してるんだ・・・。

旧作カットと新作カットが混じってどう見えるかということは考え抜きましたので、漫然とはやっていません。リズム感が大事になってきます。「えっ、また古くなってきた、あ、あ、あ、(新作カットが)来た!」みたいなリズム感を乗り越える映像のテンポ


御大って本当に面白いですよね。会話形態が既にアニメ状態というか、常に語尾が次へと動いて行っちゃう。新旧のリズム感が大事って言ってる端から、それを「乗り越える映像のテンポ」と話が膨らんでいっちゃう。(笑)

「新作カットだな」と思わせるのは数秒で、観客の意識がまたすぐ物語展開に入っていくように仕向けないといけない。視覚におけるリズム感やスピード感、このテンポで見ていたいという観客の欲求を満たさないとダメ。


観客がね、素直にそうやって見てくれると信じているというのか、素直に見てくれる観客だけを相手にしてるというのか。はじめて見終わった直後に「全体の○割ぐらいが新作カットだった」とか機械のように分析してくれるガノタな観客の皆さんは、既にその時点で物語から身を引いちゃってるものね。トミノさんがどんなマジシャンで持てる技術の限りを尽くしても、「物語を身体感覚として味わおう」という気のはじめからない、素人批評家たちの印象には残らないのも無理はないかも。
スカルさん、演出ってのは本当に深いですよね(・・・しみじみ)。それを理解する(・・・っていうか味わう)のには、事前知識はむしろ邪魔で、ただ画面に集中すること、それだけなんだとつくづく思うのです。

ただ、スカルさんのブログを読む前に、このページをはじめて見た時に私が気になったのは、むしろ最後のところ。

──監督ご自身としては、かなりの部分を自分ひとりの手で完結できることについてどうお感じになっているのでしょう?


という、この質問! これ、スカルさんも言っているとおりMACの宣伝としてのインタビューなんだけども、私も聞いてみたかった、こういうネガティブなことも聞いちゃうインタビュアー、偉い! 

富野:すべていいことだとは思っていません。ですから、僕の場合、画として現れるもの──アニメーター、彩色、美術の分野──に関しては、(一定基準から)はみ出さない限り何にも言いません。物語構造とか画像構造については余白を作っているつもりだし、「ここで何ができるのか」という発見を、スタッフにはしてほしいと思ってます。


うん。∀以降、いわば回りの若いスタッフとのコラボレーションによって息を吹き返した御大であるならば、独りで完結してしまう、こういう作業というのは「どうなのだろう?」と、私はそこが一番気にかかったのでした。「六十歳の手習い」は今のところ大丈夫そうなので、まあ安心しましたが。

若い人からみて「これはできない!」というところまで自分でやってみせれば、認めてくれるでしょ。


なるほどねぇ。そういうコンピュータの使い方ならば、まあ心配することはないかな。

ただ、この頃ずっと「ファースト劇場版」との対比で新訳Ζを語ってばかりおりますけれど、本当にぎりぎりまでムダを削ぎ落としてるのは分かるのだけど、「ちょっとしたゆとり」がやや足りないような気がするのは、こういう機械(コンピュータ)で「ギリギリのこと」が出来てしまうことの反作用でもあったりはしないかと。
・・・私がそう感じるのは例えば、BGMの使い方とか、どうでしょうか。
昔は「音楽の力に頼る」部分みたいなのが所々にあって、それもひとつのリズムを作っていたような気がするんですが、今は「映像でギリギリまで追い詰める」という姿勢がまず先にあって、「音楽いいなぁ~」と感じさせるシーンが少ないような印象があります。(今回の音楽も悪くないなぁと思う割に、です。)
∀の最終回を思い出せば分かるように、御大は音楽をアニメの画面に活かす素晴らしい才能を持っている人だと思うのですが、そういう部分が「恋人たち」にはあまり感じられなかった。
まぁ、機械のせいばかりではないのでしょうが、映像のリズムの中で、少~しいい加減に、「出たとこ勝負を遊んでみた」ようなところもあってもよかったのじゃなかったかな、と。
二回目を見てみて、改めて振り返って、ふっとそんなことを思ったりしました。

あー、もう一度見に行きたい!(笑)


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コメント

>

また迷惑スパムコメントを削除しました。「女の子だって稼ぎたい!」だって。なんのことやら。(笑)
名前が「ラナ」とか書いてあって、思わずちょっと惹かれてしまった自分を恥じます。

> ラナなら見る。

名前がラナで稼ぐ・・。おいくつのお嬢さんでしょうか(気になる)?
自分のHPをインフォシークで検索していたら囚人さんのブログの
リンクにヒットしました。

さて、僕も「恋人たち」は気になる映像です。よくよく思い出してみると
普通なら「顔が別人」というのは普通アニメーターなら真っ先に気に
します。でも富野氏は「ずっと原作/絵コンテ/監督」ですよね。
かつて「僕は絵は描けないけれど絵心はある」とおっしゃっていまし
たが、作画の上手い・下手や絵柄の見た目のミスマッチを気にしないで
作業する監督さんは富野氏以外、見たことがないですね。でも、かつて
制作された絵の「背景事情やモチベーションの高さ」などは克明に
覚えているからこそ「新訳」という手法を用いているのだと思います。
そして、それが理解できている作家は60~40代にはあまりおらず、
むしろ30~20代に多いように思えます。そしてそのくらいの若い
作り手が何かしらのインスピーレーションを得られたら・・・という
風に考えているのかな、とも思います。
同世代の作家に全く注目されず、若い連中ばかりに支持された作家
というと、画家のエドゥアール・マネを思い出します。美術サロンに
「オランピア」という娼婦の絵画を持ち込んで総スカンを喰らった人
です。映画を観た人の1/10000でも
「過去も現在もエロスも恋心も捨てないで何か創る!」
と思ってくれたなら、それでよいような気がしています。

>

作画の痛さ・・・とは、皆さん何を基準に言っているのでしょうか。ラナちゃんは可愛かったですし(笑)、「未来少年コナン」はあの時代のアニメの水準を相当超えていましたけど、それでも何箇所かは痛い作画はあったことを記憶しています。
まあ、現行の劇場版宮崎アニメと比べれば、新訳Ζはもちろん痛いです。しかし例えば「哀 戦士」と比べて痛いとは、到底思われません。アニメーションとしてではなく、「音声付の電気紙芝居(静止画)」として見ている人が圧倒的に多いということもあるでしょう。・・・まあ痛くない(静止画としてみても美しい)に越したことはないわけですが。

DVDで「星を継ぐ者」を見たら、新作画と旧作画の問題はあまり気になりませんでした。劇場の大画面で見るから痛いというのはあります。「恋人たち」でその痛さを感じたのは2回ぐらいだったでしょうか。(フォウの大写しと、あと何でもないような風景カットだったかな。)これもDVDで見てしまえば、それほど気にならないかもしれません。そんなこともあって、PCのモニター上で監督が何度も確認するうちに「目が慣れてしまう」ことの弊害も、想像はされます。

それはそれとして、「作画が痛い」ことを、私は無理に誉めようとはもちろん思いません。それは短所として指摘すべきことです。ただ「作画」がすべてではないですよね。しかも、これだけの年月を経て、旧作の部分カットを使おうなどというのは、ほとんど「実験映画」なのですよね~、考えてみれば。
この人は、常に何かに挑戦している人なのだと思います。それは現場にいる若い人たちには、ひしひしと伝わるものなのでしょう。あるいはその「才能」以上に、その「挑戦する姿勢」は高く評価されるべきものであるかもしれません。
実験映画であることの意味を、もう少し論じなければならないのかもしれないですね。偉い批評家(?)の皆さんが書かないのなら、下手でも何でも挑戦しなければならないのかな?(笑)

> 私としては

「痛い」って言う言葉が何だかなぁ・・・。

本来は「痛々しい事」を指すんだと思いますが、新訳Ζの場合「ホントは全新作画したいけど、諸般の事情で出来ない」というわけではないので、「痛い」って言う表現自体が「的を射ていない」訳ですよね。もちろん、ファーストの頃は「本当に痛い作画だった」訳ですし、ΖもTV放映当時は「痛い作画」だったわけですが。

全く同じ物を使っていても、新訳Ζでは「痛い作画」とは呼べないと思うのですがいかが?私は「新訳Ζを痛いと言うな!」と思ったからこそ、ブログに書いた訳ですし。

> すみません

トラバしちゃいまして。「痛い」っていうのは、なるほど世の中の人は「痛々しい」という意味で使ってるのすね。私は自分の心がちくちくとするのを「痛い」と表現してしまいました。「事情」を想って「嗚呼・・・!」ということです。
「事情」に関してですが、予算的な問題に加えて、監督の心情的にも本当に、「全部直すぐらいだったらやらない」というのはあるのだと思います。「同じ出来事がほんの少し見方を変えるだけで、まったく違った意味性を持ってくる」というのが、この実験的な制作のキモだと思いますから。・・・この「実験性」ということを語ろうと思ったら、TV版をもう一度直視しなければならないのですが。(しんどいの、イヤなんですよね、正直な話。)作画の痛いのぐらい何でもないですが、作品そのものが痛いのは!(しかし「痛い=悪い」ではないですよ。)

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