ロボットという夢。―富野アニメでは最後に覚めて終わるもの
うちのブログは管理人が「風邪引いた。頭いてぇ。」とか怠け者を決め込んでいても、コメント欄で、普通の記事ひとつに匹敵するような、濃いやり取りが交わされていて、着々と内容が充実していくところが素晴らしいところです。・・・って、これを書いている端から、掲示板かチャット状態でスレが延びていくし。(汗)
話の間口が大きすぎて、さて、私のスキルでは、どっからくちばしを突っ込んでいいのやら。
→ 何でわざわざ「ロボットを通じて思考」しなきゃいけないのか(コメント欄)
→ ロボットの話やらただの日記やら(コメント欄)
とりあえずそもそもの“巨大ロボット”というのが、超越性のイコン(平たく言えば「巨大な自分になる」願望の現われ)だというところからですかね。
一度「乗り物」として意識されたロボットは、ほかの「超人」と一線を画した意識を開拓してきました。「なかのひと」を描く事で、人間も意識する事になったのですね。(バルタザールさん)
その行き着いたところにある『ガンダム』の“ラストシューティング”で、頭を吹き飛ばされたガンダムが歩いてしまったことで、「夢の身体」として、わざわざ「モビル・スーツ」とさえ名づけられたものが、最後には人型を留めぬメカの塊に還元されて終わるという。これ、富野監督の面白いところですよね。
crow_henmiさんや、anterosさんが、高橋良輔監督や押井守監督と比べた場合の富野監督的なロボットの扱い方を書いていらっしゃるのを興味深く読ませてもらっているんですが、メカ好きとしてはこだわりどころである「リアル/スーパー」というところを、富野さんの場合、ある程度意図的に(あるいは感覚的に?)自在に越境しているところが、(繰り返しになりますが)私は面白いと思うんです。
メカ的な実在感を感じさせるようなところから始めるだけ始めておいて、でも、しばしば“ハイパー化”(あるいはそれに匹敵するスゲー活躍)をさせずにはいられなくて、なのに最後には大概、無残にぶっ壊れた機械の塊になって終わるという。
・・・とバルタザールさんがおっしゃっているのは、そのことですよね?遠隔操作のロボットが無残に壊れるのとは、そこが違う。
そういう意味で、メカでありながら同時に「夢の身体」でもなければならない富野アニメのロボットは、常に難しい問題を持つわけで。
ですから、ターンエーはシンプルなのですが、リアルに見えるのです。そのためにキャラクターになりきっていなかったのでしょう。
・・・なんていう、矛盾した物言いは、そういうことだと私は理解します。ターンAのデザインを「カス」と永野護さんは言ったそうですが、これほどの人でもそこが分からないのか、永野さんにとってはあくまでロボットはキャラクターだという結論が出ているのか、とにかくあえて“二律背反”を抱え込んでいるんだから、そうたやすく答は出ない話ですね。
ただ、「オーガニック的なものが好きなんじゃなくて、やっぱりメカ好きなのよね、所詮。それが嫌だなと思いますけど(笑)」(『Cut』11月号インタビュー)と監督自身も言っていたりしますし、『ダンバイン』と『リーンの翼』のオーラバトラーのデザインの違いなんかを考えると、現在は富野監督も、もう少し“キャラクター”寄りに考えているのかもしれないとも思います。
もっとも頭部を360度ぐるっと回転して見せたり(あれはギョッとしました)、平気で頭がもげてたりした“メカニック”な∀ガンダムが、同時に“月光蝶”というハイパーな表現も見せたことを思えば、デザインはたかがデザインで、見せ方次第でどうにでもなると言うことを、富野監督自身が既にやりきって見せているとも思うんですけどね。
そういう意味で言うと、「夢の身体」への“変身”アイテムとして、“スーツ”以前に“マスク”があったよねという話題が出たときに、
・・・ということを、何気なしにnishinomaruさんが言われましたけど、これ、すごい至言じゃないかと!
人型のロボットに感情移入ができるというのと、二次元のマンガやアニメに感情移入できるというのと、通底する日本人的な感覚というのは、何かあるのかもしれません。
マスクに関して余談をもうひとつ付け加えると、例の『Cut』のインタビューの中でシャアがマスクをしているのは「安彦君がバカだったから」というビックリ発言の件。
『実際にアニメとしては、シャアはあれでよかったじゃない?』って話に関しては、確かによかったという結果が、わかんなかったのよね。映画っていう娯楽作品、媒体っていうのは、あのくらいキャラクターが記号化されていないとダメなのよねっていうのを、僕は映画が終わってもわからなかった。
・・・という、これもやっぱり少し考え方の幅が広がったから言えるようになった話なんではないかと思います。
それはさておき。ロボットの話に戻すと、どんなに巧妙に騙しても「夢の身体」は、“所詮は夢”だという冷め方が富野監督の場合はどこかにあるような気がして。ただ、“どうせ夢なら”というところも描ききった上で、“やっぱり機械は機械”というところに落すという。「メカではドラマは書けない!SFバカはそれで終わらせるっていうのがまちがいなの」と言いながら、富野監督のメカ論に関しての物語性というものを仮定すると、基本的な構造はこういう形になるんではないかと私は思ったのでした。
“「思春期からの卒業」との時期的な重なり”というのを、私はそういうふうに「夢はいつかは覚める」と読解しましたが、いかがなものでしょうか。












