スポンサーサイト 

[--/--/--] | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | TOP ▲

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ロボットという夢。―富野アニメでは最後に覚めて終わるもの 

[2007/11/14] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 うちのブログは管理人が「風邪引いた。頭いてぇ。」とか怠け者を決め込んでいても、コメント欄で、普通の記事ひとつに匹敵するような、濃いやり取りが交わされていて、着々と内容が充実していくところが素晴らしいところです。・・・って、これを書いている端から、掲示板かチャット状態でスレが延びていくし。(汗)
 話の間口が大きすぎて、さて、私のスキルでは、どっからくちばしを突っ込んでいいのやら。

何でわざわざ「ロボットを通じて思考」しなきゃいけないのか(コメント欄)
ロボットの話やらただの日記やら(コメント欄)

 とりあえずそもそもの“巨大ロボット”というのが、超越性のイコン(平たく言えば「巨大な自分になる」願望の現われ)だというところからですかね。

一度「乗り物」として意識されたロボットは、ほかの「超人」と一線を画した意識を開拓してきました。「なかのひと」を描く事で、人間も意識する事になったのですね。(バルタザールさん

500ピース ラストシューティング 45-047

 その行き着いたところにある『ガンダム』の“ラストシューティング”で、頭を吹き飛ばされたガンダムが歩いてしまったことで、「夢の身体」として、わざわざ「モビル・スーツ」とさえ名づけられたものが、最後には人型を留めぬメカの塊に還元されて終わるという。これ、富野監督の面白いところですよね。
 crow_henmiさんや、anterosさんが、高橋良輔監督や押井守監督と比べた場合の富野監督的なロボットの扱い方を書いていらっしゃるのを興味深く読ませてもらっているんですが、メカ好きとしてはこだわりどころである「リアル/スーパー」というところを、富野さんの場合、ある程度意図的に(あるいは感覚的に?)自在に越境しているところが、(繰り返しになりますが)私は面白いと思うんです。
 メカ的な実在感を感じさせるようなところから始めるだけ始めておいて、でも、しばしば“ハイパー化”(あるいはそれに匹敵するスゲー活躍)をさせずにはいられなくて、なのに最後には大概、無残にぶっ壊れた機械の塊になって終わるという。

僕はこの二律背反と、「思春期からの卒業」との時期的な重なりに、いささかの興味を感じています。

・・・とバルタザールさんがおっしゃっているのは、そのことですよね?遠隔操作のロボットが無残に壊れるのとは、そこが違う。
 そういう意味で、メカでありながら同時に「夢の身体」でもなければならない富野アニメのロボットは、常に難しい問題を持つわけで。

ですから、ターンエーはシンプルなのですが、リアルに見えるのです。そのためにキャラクターになりきっていなかったのでしょう。

・・・なんていう、矛盾した物言いは、そういうことだと私は理解します。ターンAのデザインを「カス」と永野護さんは言ったそうですが、これほどの人でもそこが分からないのか、永野さんにとってはあくまでロボットはキャラクターだという結論が出ているのか、とにかくあえて“二律背反”を抱え込んでいるんだから、そうたやすく答は出ない話ですね。
 ただ、「オーガニック的なものが好きなんじゃなくて、やっぱりメカ好きなのよね、所詮。それが嫌だなと思いますけど(笑)」(『Cut』11月号インタビュー)と監督自身も言っていたりしますし、『ダンバイン』と『リーンの翼』のオーラバトラーのデザインの違いなんかを考えると、現在は富野監督も、もう少し“キャラクター”寄りに考えているのかもしれないとも思います。
 もっとも頭部を360度ぐるっと回転して見せたり(あれはギョッとしました)、平気で頭がもげてたりした“メカニック”な∀ガンダムが、同時に“月光蝶”というハイパーな表現も見せたことを思えば、デザインはたかがデザインで、見せ方次第でどうにでもなると言うことを、富野監督自身が既にやりきって見せているとも思うんですけどね。

 そういう意味で言うと、「夢の身体」への“変身”アイテムとして、“スーツ”以前に“マスク”があったよねという話題が出たときに、

あと、マスク、というと能が仮面劇ですよね。アニメもある意味では仮面劇だと思います。

・・・ということを、何気なしにnishinomaruさんが言われましたけど、これ、すごい至言じゃないかと!

 人型のロボットに感情移入ができるというのと、二次元のマンガやアニメに感情移入できるというのと、通底する日本人的な感覚というのは、何かあるのかもしれません。

 マスクに関して余談をもうひとつ付け加えると、例の『Cut』のインタビューの中でシャアがマスクをしているのは「安彦君がバカだったから」というビックリ発言の件。

『実際にアニメとしては、シャアはあれでよかったじゃない?』って話に関しては、確かによかったという結果が、わかんなかったのよね。映画っていう娯楽作品、媒体っていうのは、あのくらいキャラクターが記号化されていないとダメなのよねっていうのを、僕は映画が終わってもわからなかった。

・・・という、これもやっぱり少し考え方の幅が広がったから言えるようになった話なんではないかと思います。

 それはさておき。ロボットの話に戻すと、どんなに巧妙に騙しても「夢の身体」は、“所詮は夢”だという冷め方が富野監督の場合はどこかにあるような気がして。ただ、“どうせ夢なら”というところも描ききった上で、“やっぱり機械は機械”というところに落すという。「メカではドラマは書けない!SFバカはそれで終わらせるっていうのがまちがいなの」と言いながら、富野監督のメカ論に関しての物語性というものを仮定すると、基本的な構造はこういう形になるんではないかと私は思ったのでした。
 “「思春期からの卒業」との時期的な重なり”というのを、私はそういうふうに「夢はいつかは覚める」と読解しましたが、いかがなものでしょうか。

このブログの関連記事:

tag: 富野由悠季

tag: ロボットアニメ

関連記事

この記事のはてブ はてブの数 livedoorクリップ クリップ数 Webスカウター情報

permalink | トラックバック(0) | コメント(4)

[tag] 富野由悠季 fc2ファビコン ロボットアニメ fc2ファビコン 機動戦士ガンダム fc2ファビコン アニメ fc2ファビコン ターンエーガンダム fc2ファビコン

TOP ▲

コメント

>

ものの見事に言い忘れてましたが、
お大事に(笑

> いけね

お風邪、もう大丈夫でしょうか(滝汗)。

僕が以前のコメントで考えていたのは、
「ウルトラマンやゴジラの中身を意識しなかった子供が、巨大ロボットを通じて徐々に現実と認識の擦り合わせをし、最終的にはこのジャンル全体から”卒業”する=”夢から覚める”」
という風な事でした。
有り体に言ってしまうと、「巨大ロボットは科学的にあり得ない」から、ひとくくりに子供向きのラベルを貼って思い出の納戸にしまい込む、というイメージです。

ですが、そこまでマクロに考えなくても、兄イのおっしゃるとおり、一つの作品と向き合う中でそういう認識を心中に発する事は充分あり得る事なんだよな、と改めて思います。

覚めたあとでも夢を保持しているか、夢は夢だと区切りをつけるか、それぞれのスタンスはあるかも知れません。だけど、覚めるからこそ夢は現実と異化できる、ものなんですよね。

>>ハイパー化
思い出してみると、マグネットコーティングでさえ、リアルを超えなければならない「ハイパー化」の換言だったんだよなあ。あの当時から、監督はリアルからはみ出すドラマ作りをしていたのかなあ。

>>メカではドラマは書けない
だから、夢の肉体をもう一段、夢の方に膨らませる。SFバカ(な僕とか)は、どっぷり夢に浸ってるからそれに気がつかないで戸惑う。
新約ゼータのクライマックスで感じた戸惑いは、そういう事だったのかも知れません…。



>zsphereさま

なんかもう、こっちにお返事してしまってよろしいでしょうか。すいません。
九十九神のお話でもう一つ思い出したのは、
「キリスト教では人間以外に魂がない」ことです。そういう考え方が主流であるかどうかきちんと確認してないのが冷や汗ものですが、すくなくともそういう認識を持つ宗教家の方と、ちょっとだけお話をした事があります。

顔を持つ、というのは、魂を持つ事の例え、ではないかと思うのです。日本人が「道具」に顔を与える時、そこに魂を付与しているのかも、と。

そういう意味でも巨大ロボットにはある種の人格があり(実際そういう作品もしばしばあります)、そういう約束事が生まれ始めていた所にラストシューティングがあった、とすると。

やっぱりそれは太平の夢から叩き起こされるような出来事で会ったのかも知れません。

> 着ぐるミクロマンを想起

バルタザールさんのお話を伺って、わたしはタカラトミーの「着ぐるミクロマン」を思い起こしました。

http://www.takaratomy.co.jp/products/microman/kigu_top01.html

ゴジラのチャックを開けたら中にサイボーグ!これって夢を壊しているのか育んでいるのか、どっちでしょう。

『銀河鉄道999』のモチーフ、機械の身体、というのはサイボーグの言い換えです。石ノ森章太郎だと、決してポジティブには描かれていません。機械の身体になることは悲劇なんですよね。このギャップは、すごく謎です。

> 男の子集まれ

Nishinomaruさま

>着ぐるミクロマン
すごい!ラインナップが全部怪獣なんですか。
ほんま「なかのひと」ですやんか。

僕らが子供の頃、変身サイボーグというおもちゃが一世を風靡した事があります。リカちゃんより一回り大きいクリアボディの関節可動フィギュア(今でいうと1/100ガンダムくらいのサイズか)に、当時放映されていた特撮ヒーローやロボットものの「着ぐるみ」を別売りで購入して、「変身」させるのでした。ものすごく豊富なバリエーションがあった筈です。

サイボーグというだけでもすごい上に、どんなヒーロー、ロボットにも変身できる、夢のアイテムでした。


今でも思うんですが、リアルタイムの子供達にとって、やっぱり扮装は中のヒトとは一体なんでしょうね。それを区別するようになるのは、思春期をすぎてからなのかも知れません。




>サイボーグ009
仮面ライダーもそうですが、「意図に反して生身の身体を捨てさせられた」悲哀というものが、サイボーグにはつきまとう、という視点はけっこう伝統があるようです。
SF小説でも洋物では「マン・プラス」、和物でも「サイボーグ・ブルース」。アニメでは「キャシャーン」とか、タツノコ系は多いかも。
攻殻機動隊シリーズでも押井監督の「イノセンス」あたりは、その辺をクローズアップしてます。

いずれも、「組織(もしくは巨悪)と対抗するために心ならずも変質させられた個人」というイメージが、その背景にはあるようです。

ロボット(人間サイズ)が、非差別階級の暗喩であるように、サイボーグというのはそういったイメージを付与させやすい暗喩として用いられる機会が多いみたいです。


コミックになりますが、士郎正宗(「攻殻~」原作者)は、著作「アップルシード」の中で「高機能障害者」という「法的呼称」を発明してます。まあ、「その世界での死語」として、なんですが。

彼は上のような取り上げ方よりももうちょっと現実寄りで、例えば性機能なんかもきちんと再現し、「人間」として生活できるようなモデル(”彼/彼女”を取り巻く社会、個々人の認識の仕方も含め)を構築してるのですが。ロボっぽい身体で服も着るしデートもするしデスクワークもするし。中身人間ですから。

それでも、そういう社会描写はやはり少数派です。ロボっぽい外見は、裸ではなくなってしまう事も多いようです。見た目人間でも、ジョー達は自分たちの心の中に「ロボっぽい自分」を常に抱えているのでしょう。



あといまふと思いついた事ですが、「鎧われて外界に徒手空拳で立ち向かう」というのが独り立ちのイメージなんだとすると、生身の身体を愛しく思うのは、「守られていた子供時代」を懐かしく思う事に通じたりもするのかと。

もちろん、「身体を傷つける事」をタブーと感じる事、キリスト教でもそうですが、「親からもらった~」などという言い回しで、我が国でもありますけども。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://zmock022.blog19.fc2.com/tb.php/1038-4ed870b5

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。