何でわざわざ「ロボットを通じて思考」しなきゃいけないのか
[2007/11/08] | 御大 | トラックバック(1) | コメント(5) | TOP ▲
今日は、『Cut』11月号をようやく入手したので、これを読んでいたらもうこんな時間。アニメが見られませんでした。
しかし、でかい雑誌!(笑)
この大判で、『哀・戦士』の劇場版ポスターとかが載っているのは、ちょっと嬉しいです。でもまあ、140ページ以上ある雑誌で、私が読んで意味があるのは、18ページから45ページまでだけ(46ページ以降の“ガンダム芸人”の話は、わざと割愛)だから・・・。(笑)
![]() | Cut (カット) 2007年 11月号 [雑誌] (2007/10/19) 不明 商品詳細を見る |
690円、わざわざ取り寄せてまで読む価値があったかというと・・・。しかし富野監督のインタビューの6ページ分は、ネットで断片を見ていてもよく分からなかったから、全文読めてよかったと思います。何かメモを書きとめようかと思ったけど、要約も引用も難しいなぁ、これ。
なので、今日はanterosさんの『イデオン』の話を読んで少し思ったことを。
ここでanterosさんはずっと昔に私が書いた、「超・個人的ベストアニメ10」に言及されていて、思わず冷や汗(笑)。上位5作品はたぶん変えようがないんだけど、6位以下の作品は、今ではだいぶ違うかも。そんな話もいつかまた書き直したいですけど、また今度ってことで。
『機動戦士ガンダム』においてリアルロボットが始まったとしたら、『伝説巨神イデオン』においてスーパーロボットはある種の極点にたどり着いたということができるのではないだろうか。
「僕はこの作品の結末は人間の業がどうとかそういう点から引き出されたものではないと考えている」というanterosさんの関心は、「ロボットの問題」にあるとのことです。二分法で言えば、イデオンはたしかにスーパーロボットのほうの系譜に属すでしょうね。
しかし、富野監督について言うと、「もしかしたら富野作品の多さというのは彼が思いついたロボットの種類の多さなのかもしれない」とanterosさん自身が洞察しておられるように、“リアルロボット”、“スーパーロボット”という二分法にはあまりこだわりなく、「メカもの/ロボットものと言われている週ペースのアニメという、一番低俗なジャンル」という意識でしかなかったんじゃないかと思います。高橋監督が「ロボットをボトムに位置づけた」のは、この意識に近い気がします。そこは、押井監督とはまた違うところかもしれません。“リアルロボット”だろうが何だろうが、ロボットものは所詮ロボットもの。
だから富野監督は「ロボットを通じて何かを思考しようとした」という言い方は、とても正しいと思うんですけど・・・。でも、何でわざわざ「ロボットを通じて思考」しなきゃいけないのかってところで、富野監督の作品も「ロボットに対するフェティシズム」と切っても切れない関係にあるっていうのが難しいところですよね。
「僕はあれの時にものすごくワクワクしたのは、巨大ロボットもののレベルでは、頭が吹き飛んだ機体が歩くなんてことは誰もやってないはずだからっていうんで、あのシーンはほんとに燃えたもんね。これが思い付けたことで、俺は当分食っていけると思ったもん。そのぐらい身の毛がよだつアイデアでしたね。」
『Cut』のインタビューの中で、ガンダムの“ラストシューティング”のことを語っている富野監督は、「こんなことを言う僕は、究極的にはどうもメカ好きらしいのよね」、「オーガニック的なものが好きなんじゃなくて、やっぱりメカ好きなのよね、所詮。それが嫌だなと思いますけど(笑)」と言っちゃってます。
もちろん同時に「メカではドラマは書けない!SFバカはそれで終わらせるっていうのがまちがいなの」とも言っていますけどね。
で、私はどうも富野監督ほどには徹底してないような気もするんですが、やっぱりこれだけロボットアニメが好きなのは、「究極的にはどうもメカ好き」の類なんだろうと自分のことを考えます。
「巨大ロボットものでこんなことやるのか?」っていう感覚は、やっぱり「メカ好き」だから価値を感じるのかもしれません。このインタビューで監督にすごく共感したのは、「むしろ作り方がわかってしまってからのどこか辛気臭く整ってる作品はやだな」っていう、ビビッドなところへのこだわりでした。ちっとも普遍的じゃありませんが・・・。
コメント
ロボットと人間
一度「乗り物」として意識されたロボットは、ほかの「超人」と一線を画した意識を開拓してきました。「なかのひと」を描く事で、人間も意識する事になったのですね。
「頭を吹き飛ばす」ことがどれだけエポックメーキングな発想であったか、つまりそれは「外側」と「なかのひと」の分離がそれまでは難しい事であったという認識の証左でもあります。
また皮肉な事に、「乗り物」として再認識する事は、ある意味で自らの存在を否定するという再認識を生む事にもなるのですが。
「超人」というものが「象徴としての解釈」に最後の逃げ道が残されている事に対し、なまじ「メカニック」として再定義されてしまった「機械の神」たちは、そうするには余りに質感がありすぎるのです。
僕はこの二律背反と、「思春期からの卒業」との時期的な重なりに、いささかの興味を感じています。ほかの「えすえふ」やファンタジーに対し、この分野はそのエッジが特に際立っているように思えます。
『メカゴジラの逆襲』の方が先
なんか、いかにもオタク的に些末なことを言うようですが、怪獣特撮と巨大ロボットアニメの関係はとても深いと思うので、あえて指摘しました。
付け加えると、メカゴジラは鉄人28号のように遠隔操作されるロボットです。
メカの系譜
アイアンジャイアントな人たちーゴーレムの末裔ーは明らかにマジンガー以前ですね。
リモコン次第なロボ達は、どうして乗り込むロボに世代交代していったんでしょうね。もしこれを感情移入のしやすさの観点から考えると、改めてアトムが思い出されます。
ガンダムを上げるまでもなく、ていうかマジンガーからの伝統として、「メカニック」の都合上、巨大ロボの搭乗者はティーンに設定されました。顧客層との乖離を避けるため、「五号機あたりに子供パイロットを配する」とか、「研究所のマスコットを登場させる」とか苦肉の策がとられた訳で、この傾向は明らかにティーン層が正式な顧客として(企画側に)認識されるまで続きます。いまのロボットものに子供キャラって出てこないですよね。
鉄腕アトムや正太郎君などのように、子供でありつつパワーの具現者であるというスタイルは、今となってはニーズに合わない、というのは確かに判るのです。だけど、始めからそうだった訳じゃない。過渡期はずいぶん長かった。僕らはちょうどその時期をみてきた世代です。
今日の新聞に載ってたコラムに、「バブル期のテレビ局の活気、と言うかカネ余りによる悪のり」を思い出すものがありました。「見る側に沿うよりも、作る側の都合で制作された番組達」。
いい面も悪い面もともに含まれる視点ですが、もしかしたら、この過渡期のアニメ群というのも、この時代の空気に少なからぬ影響を受けていたのじゃないか。
今となってはそういう風に思ったりもするのです。
いけね、訂正。
もちろんこれは、かつての印刷メディアの主要顧客層が青年層であった事の裏返しでしょうし、現代のアニメ事情はその当時の状況と全く同じ、ともいえるかも知れません。
三銃士もゼンダ城の虜も、みな青年が主人公であり、当時の青年層が愛読者だったのですから。
そうやって改めて考えると、「冒険餤の主人公に子供を据える」発想は、いったいどこからくるのか。
今世紀前半の少年雑誌あたりに範をとってみたい日本人の私ですが、西洋にもタンタンとか冒険少年の系譜があるので、こりゃちょっと真面目に考え直した方が言いかも知れません。
あと、そもそも「子供ヒーローを応援するのは子供だけではなかったかもしれない」のかもしれません。「頑張る子供を応援する大人」の視点で愛読していた大人の顧客がどれだけいたのか。そういう視点もあり得るかもしれない…。
バルタザール様へ
メカゴジラ自体は『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する大海獣を倒すために作られたロボットに似ているという指摘もされています。
以上、些末な事実ではありますが、オタクにはよく知られたことだと思います。
ところでロボットの搭乗者の年齢についてです。ワタル、エルドランシリーズ、ウェブダイバー、マシンロボレスキューはティーン未満(13歳未満)を搭乗者にしていますよ。
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