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うまく言えないけど、互いに異なる価値観があっていい、という話。 

[2007/10/17] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

本当はわかっているくせに - 背後からハミング

 こう見えて、私もときどきは現代アートとか見たりするのは好きなほうなので、「わからないと言う以上は、わかりようがない」っていうのが、何とも身につまされる話で。

それは、「議論しよう」と持ちかけながら、その実は論争を楽しもうとする姿なのです。

 そういう“くねくね”としたコミュニケーションっていうのも、互いに(暗黙にせよ)合意づくであれば、アリかもしれないとは思いつつ、片方は真剣な思いを伝えようとしているのに、他方は優越感ゲームをしているだけなのであれば、それは不毛であり不幸なことだよなぁと。

「絶対的な価値」というものがあるという前提で話をしているから、こうなっちゃうのかな?互いに異なる価値観があっていいという条件下のほうが、むしろ議論は有意義になるような気がする。

 それで、はてブのコメントでこう書いたら、どなたかが、そのコメントに“はて☆スタ”を付けてくださったので、どちら様かと思ったら、それはブログ主ご本人様だったので、思わず嬉しくなりました。(笑)
 とかく批判も多い“はて☆スタ”ですが、こういうコミュニケーションのツールとして機能することもあると楽しくなります。(近ごろブクマコメントを少し考えて書くことが、以前よりはわずかながら多くなりました。)

「いい大人が、アニメやゲームやフィギュアになぜあんなに熱中するものか、わからない」というような、理性の皮を被ったオタク叩きの記事を見るにつけ、私は思います。

「本当はわかってるくせに。そんなことわかりたくもないと思ってるってこと」

 yellowbellさんの元記事は、こう結ばれていて、≪なるほど、たしかにそのとおり。≫と思っていたところで、ちょっと違う観点の記事が目に止まりました。

キモオタの虚像が流通する背景に関して----粗悪なリアリティに抗する事の現代的困難さ - シロクマの屑籠(汎適所属)

 たしかに“DQN”としか言いようがないような人たちに、現世でもネット上でも出くわしてしまうことは少なくないわけで。

DQNという言葉を用いる時、私達はDQNという単語に込められた様々なステロタイプ(粗野、後先を考えない、常識知らず、などなど)を念頭に置きながら、彼らの集団を眺めやるわけだ。この時の私達には先入観が拭いがたく宿っていて、対象となる個人がどうであるか、DQN文化圏の内側の個々のコンテンツがどうであるかを忖度することはあまり無い。

 シロクマさんの、この反転したものの見方には、≪こりゃ一本とられたなぁ≫と唸っちゃいました。もちろんシロクマさんは、DQN文化圏を理解せよと言っているわけではたぶんないと思います。「いちいち全部の文化圏についてつぶさに調べてコミュニケーションしてから判断する・発言することなど、どのみち不可能に近いのだ。そんなコストを支払える個人などそうそう存在するわけがない」と認めたうえで、閉じたコミュニケーションの環の中にだけいる限り、簡単にイメージ操作されてしまう私たちの愚かさへの警句として、シロクマさんの記事は記されたものなのでしょう。

 私なども、本当に「コミュニケーションの適応レンジ」は限りなく狭いと言うか。世間様から見れば“アニメオタク”。さらにそのカテゴリーの中でさえも“富野信者”とレッテル付けされても有効に反論し得ない自らの姿というのをときどき痛感いたします。
 自分が「好きなものはどうしたって好きなんだもの」というのを曲げられない部分があるように、他人にもそういうものがあってもおかしくない(むしろ、何かしらはあるんだろう)という僅かな想像力があれば、(私は議論好きではないつもりですが、)価値観の異なるもの同士のコミュニケーションでも、けっこう楽しめる場合もあると思うんですけどね。
 相手に自分の思いが通じないのは悲しいことなのですが、自分には未知の面白さを教えてくれようという誠実さが分かる人と出会うことができれば、それだけで私は嬉しくなるほうです。まあ、その誠実さがどうしても感じられない人に出会ってしまうことも避けがたくあるわけで、そうしたとき私たちは、ついつい相手が“DQN”だったとあきらめるしかなくなってしまうわけですけどね・・・。
 私も富野アニメがどうして好きなのか、自分でもうまく説明できないところはありますから、「支離滅裂なことを言ったり説明能力のない人間」という意味ではDQNの一員なのかもしれませぬ。(笑)

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コメント

> 見る馬鹿と踊る馬鹿なら。

サローヤンは「浜辺のホットドッグ」を例にしましたが、僕らの風俗に当てはめれば、ぶっちゃけ夜店の焼きそばは夜店で食べなきゃ旨くないと。

絵画や映画についても、その場まで足を運ぶという事、そのサイズのものを実際に目にするという事が自分に与える影響を考えると、再現性とかそういう部分以外の要素を排除できないと思うんすけどね。
モネの蓮とか、モニタで見てもしょうがない部分はあると思う。CDとライブ演奏は違いますが、どう違うかはやっぱり一度行ってみないと判らない。舞台のビデオは資料でしかない。そういう事は、どんなジャンルでもあると思います。

アニメのように、はじめからモニタで鑑賞する事が前提になっているメディアでも、ほんとは初放映とか、映画封切りとか、いろんな局面でライブ性を持っているものだと思います。そうやって考えると、以前兄イが書いてらした普遍性とかそういう部分についても関わってくる話題かも知れないですね。




括ってお終いにしがちな危険というもの、本当に気をつけていきたい部分です。僕は何となく、そういう対処法に(時には過剰に走る)防衛機能を連想するんですが、それくらい追いつめられてしまっているという事なのかも知れない。

レッテルを貼られる事への対処法は、貼り返す事だけではなく、「個」としてレッテルからはみ出してみるのも一つの方策だと思うんですが、なかなか実現は難しいのかな。そうすることで内外ともに説明できる「言葉」を模索する事も不可能ではないと思うんですが…。


…、「好きなものは人それぞれ」という視点が、それまた判断の堤防(思考停止)になってしまいかねない風潮というのも最近ちょっと目にしたりします。架け橋、取っ掛かりじゃなくて。
それはそれで、ちょっと、寂しい。
難しいですね。

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