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世の中変わっていくから、変わらない本質についてポジショントークしよう! 

[2009/05/29] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 グダちんさんが世代語りをしているのを読んで、ふっと気が付いたら自分もいつの間にか、アムロ・レイって言うよりもテム・レイのほうに近い年齢になっちゃってるんだよなぁ(笑)とか、つくづく思っちゃったので、書きかけで持て余してる記事がいっぱいあるんだけど、すっ飛ばして中年オッサンのポジショントークをしてみる。w

 「ポジショントーク」って自分の立場をはっきりさせて言うって意味と、自分に有利なように言うってニュアンスと両方あるらしい。(ポジショントークとは - はてなキーワード

昔は良かったというのは結局は年長者の自我を慰撫するポジショントークにすぎないのだろう。

 これは、ほぼ正しいと思います。だけど、この手の「最近の若いもんは」話への反発というのも、若者の立場からのポジショントークだよね。っていうか、私が胸を張って若者ですと言えた頃にも、当然のようにこんな感じの世代間の断絶みたいな話はありふれてて、そういう意味では延々とループしてる話だよね・・・って言い出しちゃったら、そこで終わっちゃうから、もう少し続けてみます。

しかし、世代論になると互いに想像で話すから齟齬が在りますね。

 まあ結局そこだよねー。「想像で話す」しかないってこと。

 そこで何で「想像で話す」しかなくなっちゃったかって言うと、世の中の変わってく勢いが凄いから、オッサンの若いときの経験からは、今の若者の置かれてる環境がかけ離れちゃってる部分があまりに多いんで、想像力が及ばないことになっちゃっているんだろうと。
 逆に、今の若者だっていつかは歳をとるわけなんだけど、今のオッサンたちの置かれている立場そのままの姿に自分たちの将来像を思い描くことが、ナンセンスにしか見えないんだろうというのもあります。こう世の中が変わっていくんじゃねぇ、そうなるのも仕方ないでしょうね。

 今の老人世代が年金もらってるみたいに、自分たちが歳をとったときに年金もらえるかって言ったらたぶん無理だよね、とか。まったくそのとおり。
 だけどさぁ。中学生とか高校生ぐらいからケータイ与えてもらってたり、まだ学生さんのはずなのに凄い高価なアニメのDVDボックス買っちゃっていたり、そんなような豊かな子ども時代は、私がティーンエージャーだったときには絶対に考えられなかったですよ・・・みたいな裏返しのこともあるので、そのへんは一概には言えない気もするんですよ。

 何世代ぐらい前のことになるのか、よく分かんないけど、人々の多くが生まれた家でそのまま育っていって、ほとんどの場合、親の仕事をそのまま受け継いで、そこで再び人の親になって子育てをして、そして生まれたその土地で死んでいくのが当たり前っていう、そういうループを繰り返していた時代であれば、若者の気持ちを年長者は(自分の経験から)理解できたし、若者は年長者の姿に自分の将来像を重ねて見ることができたんだろうと思います。

 「昔は良かった」っていうんなら、そういう時代にまでさかのぼって語りたいところだけど、残念ながらそんな記憶を持っている世代はもうほとんど残ってないんじゃないでしょうか。だいたい、それこそ「時代が違うんだよ!」で一蹴されてしまうのがオチ。

 だから時代は変わっちゃったんだよ(そしてこれからも変わり続けていくだろう)っていうのをお互いに直視するっていうのは、これは世代間で語り合う場合の最低限のお約束なんでしょう。その上でポジショントークしたいもんです。・・・あれ、でもそれだと何も共通の基盤がないから、よっぽど工夫しないと不毛な話にしかならないですね?うーん・・・。

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『機動戦士Zガンダム』 第40話「グリプス始動」 

[2009/05/22] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 テレビ版の『Zガンダム』は、思ってたほど出来の悪い作品ではない気がします。ただ富野由悠季監督の作品の系譜の中では、あまり高く評価できる作品ではないんじゃないかという印象は、あまり変わりません。(個人的な出会いのタイミングの悪さ、好き嫌いもあるかもしれませんが。)
 それなのに、世間の多くの人は『ガンダム』シリーズしか見ないし、ゼータを富野由悠季の代表作のひとつとして考える傾向が強い。まあ、ある程度はしかたないんでしょうけどねー。

 特にロザミィ篇のこのあたりは、「これはいい」と感じる部分と「こりゃ駄目じゃ」と想う部分と、ただの感想だけども、まるきり悲喜こもごも。妙に感想が書きにくいのは、劇場版『新訳Z』ですっぱりカットされている部分ということもあって、この部分はデトックスされてないからなのかも・・・。

 部外者の民間人であるロザミアをいきなりアーガマに乗せちゃうのは、「違和感」以前。まあシンタとクムもいるし、カミーユも最初はそうだし、エゥーゴの体質的には、・・・・・・でもやっぱり変?

 「精密検査を」というクワトロの提案。
 「クワトロ大尉のおっしゃるように、ロザミィは強化人間とでも言うんですか?」
 「いや、私はそうは言ってないぞ、カミーユ。」
 このちょっとちぐはぐな呼吸の会話はいいと思います。前回(「ハサン先生も休めっておっしゃったでしょう?」)に引き続き、カミーユのメンタル面が不安になりますが、もうひとつは「ロザミアは強化人間なのではないか?」とカミーユ自身も直感しているのだろうという、そんな描写でありました。

 同じく前回、「依存心が強いだけの女なのだ。強がっているから、自分を裏切るような結果になる」とレコアを評していたシロッコは、“傷付いている君を癒してあげられるのは、自分だけだよ”ってな感じの、白々しいまでの心理操作で、彼女を呪縛にかけてます。そんなものは偽りだと分かっていても、みずから支配を望んでしまうメンタル・コントロールの怖さですね。

 誰よりも鋭いカミーユが、敵のモビルスーツがメッサーラだったからといって、相手をサラだと思い込むのは何でなんでしょうかねー。レコアさんの裏切りに「任務なんでしょ?」とか。このへんでは今回は鈍いよ、カミーユ。見たくないものから、本能的に目を背けてるのかな?

 「僕じゃ不足でしょうけど」はカミーユの混乱がよく出てる感じでいいですね。それに対してレコアが「残酷なぐらい優しい子」っていうのは、ろくに本心を話してもいないのに、彼女の出奔の本質を衝いたことを言うカミーユに対する言葉。
 こういう「心変わり」が分からないと言っていると、「自分を殺してしまうような生真面目さに、とり付かれる」と彼女が言うのは、ちょっと怖ろしい予言になっちゃってました。

「子どもの僕に分からないことを言われれば、取り乱しもしますよ!」

 分からないんじゃなく、分かりたくないんだろうなぁ。エマとの会話で「主義で行動することが、そんなに正しいんですか?」とか、カミーユは本当は、レコアのことをよく分かってる気が。
 そういえば、いつの間にかエマさんアーガマに復帰してますが、彼女が出てくると、カミーユは子どもっぽくなるところはあるかも。「ファだけは子どもの顔をしているな。」大人は汚いという、そういうのが彼の(悪しき?)生真面目さですよね。

 バスクの発射したコロニーレーザーで無残に殺される人々の意思を感知して、カミーユは「一人の人間の力であれを止めることなんて、できや…しない…」と独白します。

 このところ、ちょっと違うブログのほうで、富野アニメの結末の付け方について話をしていたんですけど、一人で何とかできないことなんて、あって当たり前。それを性急に何とかしちゃおうとか、そういうのは「人間としてやれることを最後までやり抜く」というのとは少し違うんですよね。

印象的な場面がいくつかあるほどには、全体としてカミーユは意外に「キレまくって」はいないですよ。むしろ、ニュータイプとかおだてられて、「一握りの人間にはどうにもならない大状況」に生真面目に向き合いすぎてしまった結果、精神崩壊に向かうしかなかったというのをきわめてシビアに描いていて、そこが見ていて本当につらいです。
この「悪しき厳粛主義」の呪縛をどのように回避することができるか、というのが『新訳Z』の課題だったと思います。

 そんな感じです。

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富野アニメの「スピード感」について―「時間軸」の一貫と「神の視座」の排除 

[2009/05/17] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 富野由悠季は何故、主人公の努力による「現実の残酷さ」の克服を遠ざけるのか、というテーマは富野監督の作品の独自性について検討する上で、非常に面白いテーマだと思います。

 先日書いた、この記事は、富野由悠季論ということで、シャア専用ニュースさんでもご紹介いただいたんですが、ちょっと消化不良で難解だったかもしれません。少し不遜なことを言うと、私も富野監督と一緒で「結論ありき」で何かを書くというより、書くことを通じて何かを考えるというほうなので、「分かりやすく書く」ということは、残念ながらどうも苦手です。
 実を言えば、この数日、もう少し自分で消化したものを書き直してみようといじりまわしてみたものもあるんですが、どうも同じように結論が不明快なものにしかならないので、ちょっと放り出して、違うことを書いてみることにしました。

1.『イデオン 接触編』について、どう思うのでしょうか?

2.『新訳Z』三部作についての評価は? この作品の意味はどこにあると思うのですか?

3.『クロスボーンガンダム』は富野作品らしいと思ってるでしょうか? なぜでしょうか?

4.近年の富野作品の一話のスピード感についてどう思うのでしょうか?

 この間に、kaitoさんがこういう記事を書いておられて、たくさんのコメントも付いているのを拝見し、ちょっと嫉妬。w
 それは冗談ですが、欲張りすぎですよkaitoさん!その中のひとつのテーマでも、しっかり記事ひとつを書けるようなテーマを4つもまとめて出してくるなんて、あんまりです。www

 こんな鬼のようなお題の繰り出し方をやっておいて、「富野作品のスピード感」ということを俎上に上げておられますから、ちょっと抵抗ではないですが(笑)、このことについてだけ思ったことを少しメモしてみます。

 「富野作品のスピード感」というテーマで、まず真っ先に私の頭に思い浮かぶのは、(これはかなり初期からの傾向ですが)、「一連の事件」という緊迫感(物語の気分)への徹底したこだわりです。

 端的な例で言うと、『聖戦士ダンバイン』でバイストン・ウェルに飛ばされた主人公ショウ・ザマが、一晩のんびり寝てしまったのが失敗だった、というような発言。あれってどういう意味だと皆さんは思っていますか?

 久しぶりにテレビ版の『機動戦士ガンダム』を全話見直したときに感じたのも、サイド7でアムロがガンダムにはじめて乗り込んでから、ア・バオア・クーのラスト・シューティングまで、この間の時間経過は何日間なのかを数える気になれば数えられそうな(実際やってる人は少なくないわけですが)、各エピソードで起きている事件の連続性がかっきりと描かれているという特性です。
 従来のアニメはもっと漠然とした時間の流れだったと思うんですよ。SFアニメで言えば、宇宙から侵略者がやってくる第一話があって、その間に何度かパワーアップするイベントなんかはあるにしても、最終回で侵略者を撃退して終わるという流れで、この間には大きな物語の時間軸の中でどこに置かれてもあまり大勢には影響ないような、単発エピソードの繰り返しが基本。事件の始まりから最後までがどれだけの時間経過があったのか、よく分からんわけです。
 この点で巧みだったのは『宇宙戦艦ヤマト』で、各エピソードの最後に「人類滅亡の日まであと○○日、あと○○日しかないのだ!」というナレーションとテロップが入ることで、個々のエピソードが物語の大きな時間軸の中で位置するポジションを明快にしていたことが、効果的でした。
 そういう意味では『ザンボット3』などは、エスカレーションしていく事態の展開、神ファミリーに対する人々の態度の変化など、個々のエピソードを貫く物語の連続した気分というものが、すでに重要視されていた作品じゃなかったかと思います。

 そういう、時間軸の一貫というところを徹底してやっているのが富野作品で、『ガンダム』のシリーズでは、例えば1stから『逆襲のシャア』まで、そこの筋が一本通っているのはkaitoさんも指摘しているとおりです(→ TOMINOSUKI / 富野愛好病 『逆襲のシャア』と作品全体を支配する時間問題考(1))。

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『機動戦士Zガンダム』 第39話「湖畔」 

[2009/05/12] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 『機動戦士Zガンダム』テレビ版再見も第11巻までたどり着きました。ついにロザミィ篇なのですが。・・・テレビ版の中でも、このパートはひときわ見ていてしんどいです。

機動戦士Zガンダム 11 [DVD]

 地球から帰還してくるカミーユとシャアの収容のため頑張って、ヤザン隊にずいぶんやられてたからなのか、補給のためにサイド2の中立コロニー13バンチに入港するアーガマ。(何回見ても、地球とのスタッフ往還は割に合わないことをやってるようにしか見えないですね・・・。)
 何でもケチを付ければ、あえて「中立コロニー」というのが解せない感じ。劇中での保養地的な描写を見れば、そういう性質なので非武装という協約の出来てるコロニーとでも理解しておけばいいのかな。劇中で「国際法」と言っているんだけど、どこでもいちおう地球連邦なんだろうし、やっぱり少し変な感じ。
 シャアのダカール演説の影響を大きめに見積もることで、コロニーレーザーでグラナダ殲滅を目指すという強攻策を、武闘派のバスクがジャミトフに呑ませているとか、そういう描写は細かいんですがね。
 「一年戦争」とは違い、エゥーゴとティターンズの抗争って、地球圏を真っ二つに割っての大戦争って感じではなく、あくまで紛争規模のものとして捉えられてきたと思うのですが、続編『ZZ』へ繋ぐために後半エピソードを水増ししてる中で、少し話がでっかくなってるとか、どうもそんな印象。
 で、そういう大状況の中で、ロザミアを13バンチに潜入させるのは「マメなことだな」と言われるレベルの作戦らしいです。「各種の可能性に挑戦」とか意味不明な・・・。バスクが強化人間の部隊編成を急いでいるとかいう話もあって、彼は強化人間とかニュータイプとか、よく分からん指揮官だったという理解でよいのでしょうか。

 見えざる危機の迫る中、皆さん、いつになくファッショナブルないでたち(ファンサービス?)で、つかの間の保養地気分を満喫するカミーユたち。ただハッとしたのは「ハサン先生も休めっておっしゃったでしょう?」というエマさんのセリフ。最終回の結末に至る伏線といっては何ですが、カミーユのメンタルには少なくとも、この時点で危険信号が灯っていたんですね。
 そのヤバい状態のカミーユのところへ、さらにメンタルが超ヤバいロザミアが接触してしまうという。うわー、本気できついなー、これ。

 カミーユが遊んでる(静養してる?)間もせわしなく働いてるクワトロのほうは、この中立空域でゲリラ戦をやってるハイザックの一隊と交戦。はじめはコロニーを傷つけないようにと双方配慮しているのが、どんどん事態が悪いほうへ悪いほうへとエスカレートしていく描写は、いかにも富野アニメらしい表現かな?
 ここでカミーユが、ハマーンたちとまで出会ってしまう欲張りなシナリオは、「中立コロニー」というマジックワードを最大活用している感じ。傀儡として利用しているだけでないハマーンとミネバの交情(「ミネバ様が、笑っていらっしゃる…」)を何気なく挿入しているのは見事ですが。
 そしてクワトロとハイザックの交戦がこの湖畔での出会いの場にまで及んできて、「エゥーゴめ、ミネバ様を拉致するつもりだったのか」とハマーンが誤解するまでに至る三つ巴のコミュニケーション不全な状況は、富野アニメ濃度があまりにも高くて、思わずむせそうです。w

 コロニーからハマーンとミネバの気配を感じて、「それで迷ってな。敵に引き込まれてしまった」というのがクワトロ大尉の言い訳でした。まんざらウソでもないんだけど、正確には「気のせいか。あのコロニーに、アムロがいるような感じがある」っておっしゃってましたよ、たしか。
 心なしか、まつげが長すぎて顔まで変です、クワトロ大尉。サービス精神の旺盛な回でしたが、私にはもうひとつ微妙に座りが良くない印象だった第39話でした。

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「夢みたくとも夢みるものを持ち得ないということは空でありすぎる」 

[2009/05/11] | 御大 | トラックバック(1) | コメント(1) | TOP ▲

 物語の作者に近い存在の「自分語り」を初期の富野監督が書いたことがあります。『伝説巨神イデオン』の無限力“イデ”のことですけどね。
 小説版第3巻「発動篇」の最後のパートは、物語の謎解きでもありますが、同時に、神の視座にもなり得る物語作者の立場を自己表明したものというように読むことも出来るでしょう。

伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇

 それは「雑多」であり「混沌そのもの」である己への戸惑いから書き始められます。

この己のありようが雑多で、時も所もわきまえずにぐるぐると時空をかき乱して果てる存在のように思えた。それは不愉快なものであると感じる思惟が己の中心にあった。

 このように感じる己はあまりに不定形で、己のありようを示すべきものを有していない。
 けれど、不愉快と感じ得るのは「己があるからであろう」という推測もできる。それは不自然。

 このような「自己嫌悪と己の不在」が始原にあって、イデは「己のありよう」を最小のものとすることを思い立ちました。「その己の賢明さに己がたくわえた思惟は答えてくれよう」というのはイデの「願望」です。

 そうしてまどろみから目覚めたイデは「キラキラと輝く思惟」を見ますが、同時に「それもまたひどく雑多で煩雑」なことに気づきます。

しかし、初めての目覚めにくらべればより明確な思惟の数々を己の中にとりこむことができた。健やかであり得る力を己の中にたぐりこむことができる。

 ただ、その思惟たちは、イデが「最も願望したもの」をかねそなえてはくれない。

 そうしたものを認めることは己を汚すことではないか、とイデが「恐れ」を抱くことについては、私もたしかに「イデのエゴイズム」ではないのかと疑念を持ちます。
 しかし、その恐れには根拠があるのだと、イデは言うのです。「イデ自身が健やかな発生ではないからだ」というのは、「自己嫌悪と己の不在」がその始原にあるからなのでしょう。

己の願望という欲を示すから我が生まれ、我が生まれるからより雑多な欲が発生するのではないだろうか?

 ところで、ここでちょっと『イデオン』の話を離れて、ネットで拝見した富野由悠季論に言及します。

現実に「残酷」という側面は確かにある。その側面を誇張できる虚構を素晴らしいと思うことも多い。
しかし、残酷な展開や描写ができれば良い作品になるかというと、必ずしもそうではないだろう。いってみれば、声優の演技が巧いだけのアニメや、絵が奇麗なだけのマンガといったものと同じようなものだ。作品全体にとっては、「残酷」な描写や展開を用いて、どのような物語を作り上げていくかが重要ではないだろうか。

 この部分について賛成です。ただ富野由悠季作品は「残酷」や「矮小」を克服しようとせず冷笑的に映し続けるだけだという判断には同意できません。
 ですが、hokke-ookamiさんは「嫌い」だけで終わらずに、高橋良輔監督や出崎統監督との対照をちゃんと明示しておられるので、富野作品の特異点を外側から規定してくれているのは、私とは違う立場からの真摯な指摘として興味深い記事だと思いました。

人物の地に足がついた行動ではなく、唐突な言動による事態好転や、人が介在しない架空設定によって救いが与えられる。それは克服ではない。

 主人公たちの「地に足がついた行動」によって「現実の残酷さ」を「克服」することが大切ではないかという問いだと思います。物語の作者として、何故富野はそうしないのか、と。

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