フィクション=「平気でうそをつく」=邪悪なもの?? 

[2008/06/20] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(2) | TOP ▲

 kaitoさんに刺激されて、久しぶりに富野御大のことに触れた記事を書いてみたのですが、いつもながら読み応えのあるコメントをいくつもいただいて。
 忙しいのは一段落したのですが、気が抜けたのか、あまり体調が冴えず、また、いろいろ惑いながら書いていますので、ひどく文意の酌みにくいものを読んでいただいて、ありがとうございます。

そして「平気でうそをつく人たち」(編注)という本を読んで、人間というのはすべてを、個だけではなく組織自体が忘却するという心理的な側面をもっているというのがわかった。これまでのガンダムを全部事実だというふうに肯定してもいい。肯定したことも含めてすでにウソかもしれない。肯定するということ自体、それをする人にとって過去は、本当にあったのか、なかったのかということも全部疑問符をつけていいもんなんだってわかった瞬間、「∀」のというより、ロランやディアナ、キエルの物語をつくり出せたんです。

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

自分の非を絶対に認めず、自己正当化のためにうそをついて周囲を傷つける“邪悪な人”の心理とは? 個人から集団まで、人間の悪の本質に迫るスリリングな書!

(amazon「出版社/著者からの内容紹介」)

 元記事の元記事(笑)から、もう一度読み直してみました。私は(↑)この本は読んでないのでそこは軽く読み飛ばしちゃってたんですが、のりのりさんが、「あの本(「平気で嘘をつく人たち」)を読んでああいう認識にいたるの!???」と反応しておられたので、どんな本なのか(by amazonですけど)見てみました。
 未読なのにいい加減な解釈をしちゃいますが、“世の中には、そういう邪悪な人も存在しますよ”って趣旨の本を読んで、富野監督は“そういう性質というのは人間全般に多かれ少なかれ偏在している”という認識に飛躍しているんですかね?

 ここは『∀ガンダム』についての話なので、「うそ」一般についての話と言うより、フィクションについての話として私は読んだのです。ターンエーには白々しいフィクションがけっこうありますよね。まあ、そもそもロボットアニメなんて・・・というのは脇に置いても。ロラン・セアック(男)がローラ・ローラ(女)とか、ディアナ・ソレルとキエル・ハイムの入れ替わりだって、もっと早く気づくだろ(笑)、というようなものです。
 平気でうそをついているんですね。

たとえばSF作品であっても、SFがわからない人が見てもおもしろかったよねって言わせるのがビジュアル媒体だと、僕は基本的に思ってる。で、僕の場合というか、僕らの世代はそれをずっと映画的なものというふうに考えていたわけです。映画一般なんです。SFであろうがポルノだろうが、文芸映画だろうがいっさい関係ない。みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」というのが映画であるハズなんです。ところが、それを一生懸命区別をつけようとしている人が、たとえばアニメというものを、とても幅の狭い媒体におとしこめているということです。

 それが(↑)このへんに繋がってる。(富野監督にとって、「映画」的=みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」だっていうのも私には“そうなんだー”って感じでしたけど。)
 端的に、“うそ=邪悪”という枠組みではない。

「初代ガンダム」って、「正義と悪は相対的なものだ」という見方を始めて明確に打ち出したTVアニメだと思うんですけど、「∀」になると、そもそも正義とか悪とかという概念自体がない

・・・と大森氏が指摘してるのも、そのへんなのかなーっと。「白富野」は人が死なないから正義だったり善だったりするんじゃなくて、「平気で嘘をつく」ような、したたかなタフネスさ(=しなやかさ)が話のキモだってことですね。
 その、“あえてフィクション”ということの意味を、少し拡大して考えてみたいと思ったのが前回の記事です。
 「例え“目の前の現実”であってさえも、一人の人から見えていることというのは、常に“一面の真実”でしかないという。・・・その危うさを自覚しながら、それでも敢えて何かを語らずにはいられないんだという、そういう覚悟」のことをいきなり書いてしまったんですが、バルタザールさんが指摘されたように、人間の認識力の限界に絶望するべきではないと私も思います。
 それと同様、“メディアを通して知る現実”も、無意味なのではなくて、その危うさを覚悟するという条件のもとで価値はあるし、そのときに手がかりとなるものは“目の前の現実”しかないでしょうね。多分私が言いたかったのは、“身体性”のないフィクションだけで、ものを考えるのは危険じゃないかということです。

  • フィクションであるというその時点で、それは現実に対する一つのメタファー(暗喩)を構成しているとすれば、さらにその中に配置されたメタファーを必要以上に分かりにくくするのは、内向きに閉じた自己満足でしかない
  • “分かる人には分かる”というメタファーの置きかたのほうがそれはカッコいいんですが、それは技術論でしかない

 それから、(↑)メタファーについてこのように書いたのは、kaitoさんの記事にあったオタキングのコメント(「コクピットは元々子宮のメタファーなのに、富野さんのはモロ子宮じゃん」)に直接的に反応したものです。
 「分かる人にしか分からない」というのは、カッコわるいというバルタザールさんの意見に共感するんですが、のりのりさんの冷静な指摘で、少し思い直しました。
 ここでの話の流れからすればむしろ、どうやったって分かる人にしか分からないという認識を、諦観ではなく覚悟としつつ、それでもなお「みんなが見てわかるような映画をつくればいいじゃないか」とオープン・エンターティンメントとしての機能にこだわり続ける富野監督にもっと学ぶべきなのかな、と。

本来、ミーハーの大衆というところに落としていって、わーい!と楽しんでもらえるものをつくりきれないというあたりでは、メジャー狙いをしようと思って一生懸命背伸びをしている人間としては、なんだかんだ言いながら映画屋になり切れない自分を自覚する

 だから富野監督、大好きです!(結局そこかよ。) (*^。^*)

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