いわゆる“善”ではない「白富野」の話と、それから・・・
どうも、アニメの感想がうまく書けないで、(もっとも・・・もともと、うまい感想なんか書いたこともないんですが、)ブログの更新が滞っております。今日は、kaitoさんの記事が興味深かったので、コメントしようと思ったら例によって長ーくなっちゃったので、ここに書いてトラバするというパターンであります。
つまり、人はそういう強固さを持つ同時に、そんなに利口でもないから、 そう簡単にひとつの行動原理で支配されるわけがない。 どういうことが言いたいというと、とにかく人は平気でうそをつく。 人はそんな便利な生き方をするから、そう簡単に死ぬわけがない、ということです。
・・・いい話だと思いました。それを“しなやかさ”というんでしょうかね。
なかなか難しい話でもあります。人々は理路整然とした「主義主張」を求めたがりますが、往々にして人間の現実は、そのように理にかなったものではあり得ない。これを、どのぐらいの人が受け入れられるのか。
「黒富野」と言われる作品群はおおむね、さして利口でもない人間が理詰めで考えていっても、結局は行き詰ってしまうという、そういう人間の本質的な愚かさを見据えたものであったと思います。
人間の「生」のありようとして、それは一面の真実を捉えています。その一方で、主義主張のとおりに生きねばならないと思いつめる(いわゆる“原理主義”的な)人々だけが、人間の典型的なありようではないのですよね。
近ごろ世の中で実際に起きている不穏、悲惨な事件についての報道や、あちこちのブログの記事などを読んでいて、漠然と“フィクションの機能”ということを思ったりしています。それらはたしかに現実に起きている出来事には違いないと思うのですが、ほとんどの人にとっては“目の前の現実”ではなくて、メディアを通して知った情報に過ぎない。
そのように、たまたま聞き知った情報の断片だけで語ってしまうことの怖さを、あまり強調し過ぎてしまうと、誰も何も語れる言葉がなくなってしまうことも知っていますので、そういうことが言いたいわけではありません。ただ、例え“目の前の現実”であってさえも、一人の人から見えていることというのは、常に“一面の真実”でしかないという。・・・その危うさを自覚しながら、それでも敢えて何かを語らずにはいられないんだという、そういう覚悟が行間から見えてくる文章と、そうでない文章というのは、これはあるような気がいたします。











