悩む。(少しナチュラルハイ。ヤバい。) 

[2008/04/30] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 案外、私のおっさん化した肉体もまだ無理が利くらしく。

 昨夜は明け方まで、持ち帰ったレポートを書いていて、メールで提出したのは午前5時過ぎ。で、今日も朝からフルタイムで(いつも以上に忙しく)働いて、・・・

 あらまあ、いやだわ!明日は早起きして出張ですってよ、奥様!!(笑)

 もうね、どこの女工哀史かと。(←違

 っていうか、高度成長期のモーレツ社員みたいな感じですか。・・・未来に希望があって頑張ってるんじゃなくて、闇雲に働かないと、明日がどうなるか分からないから働いてるってところは何だか違うけど。

 出張に出ると、移動中はどうにもならないので寝れます。やー、人間寝ないとやっぱりヤバいですね。出張中しか本が読めないって話もあるんですけど。

 でも、今見ないと見れなくなるアニメもいくつかあるんですよね。むふぅー・・・。

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「共存と関係の空間」という言葉はすごくいいと思いました。 

[2008/04/28] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 いろいろ皆さんに、いい言葉を聞かせていただいて、いろいろなものがとうとうと自分の中に流れ込んできているのに、うまくまとめられません。
 きちんとまとめることが出来る自分なら、一つ一つの言葉に明快に向き合うことも出来るんでしょうけど、それが上手に出来ないので、こうしてまとまりのないままにメモ的に書きとめて、少しでも整理したいと。

いやぁ、でも、コメント欄って独特の雰囲気あるかんなー。
なんたって、人の書物に勝手に書き加えちゃうわけだし。

 どうもそうなんですよ。今、生活に疲れてる(笑)せいもあるけど、どうもひとさまのブログのコメント欄にコメントするのが何故か億劫で。

[*ブログ][はてな][なんとなく][あるある]コメント欄にコメントするのって、微妙に体力気力を消耗する。ブコメは自分向けメモだけど、コメントは相手に向き合うからなんでしょうかね。

 それで、こんなふうにブクマコメントしました。

 “関連して”というか。2ちゃんねる的な対話、あるいはブログでも、コメント欄での対話、ブクマコメントでの対話、トラックバックでの対話。同じインターネットでの対話形態でも、そうしたものそれぞれの微妙な性格の違いという指摘が、どうも興味深く。

他人様、余所様、という言い回しを、最近とんと聞かなくなりました。個性の時代と言いますが、そもそも自分がどんな存在であるかを自覚しないでいるのに、個性というものが成立するものでしょうか。

 インターネットは本来他言できない(しにくい)内面的問題を、低コスト低リスクでオープンにして互いに共感できる場だけど、メリットとデメリットがあるってことを書いたわけですけど、反論(っていうか私の感じでは「対話」)の性格っていうのも、それと深い関係がありますよね。
 そうして、ネットを眺めていると“他人様”という言葉と“他人事”という言葉さえ、混同されてしまっているんじゃないかという状況があり。たとえば、微妙な性格の違いを省みることなく、どこででも2ちゃんねるモードの対話(それは対話というよりバトルかも?)をしている人を見かけることが多く。

 他方で、“ブロガー vs 論壇の人”の話は、自分の野次馬根性に辟易として、思わず書き留めちゃったものでした。でも対話しているお二人が、互いの立ち位置の違いに苦しみながら、噛み合わない応酬をそれでもなんとかやろうとしている様子を、ついつい興味深く眺めてしまったのは、その道の達人のような人たちでも、こういうコミュニケーションの齟齬に戸惑うこともあるんだなぁと。

 zsphereさんに言及していただいた話を、上の話に無理やり結びつけると、達人の皆さんに感心したのは、齟齬に戸惑いながらも対話の努力は続けていて、(多少は優越感ゲームの側面もあったかもしれないけど)共有できるコミュニケーションのマナーを見出そうとする姿勢は揺らいでないように見えたことでした。これは見習いたいところです。

滅私奉公の公私の論理では、公というのは結局、単に、レベルがひとつうえの私でしかない。そこには質的差異などない。しかし公共としての、パブリックとしての公というのはそういうものではなく、共存と関係の空間だ。同化の空間ではない。

 zsphereさんが引用しておられた公共性についてのこの言葉、私も大変印象に残りました。
 “鍵コメさん”の言っておられたことも、そのへんと繋がると思うんですけど、インターネットの不都合なところは、(普通はそれは長所として語られるんですけど)見たくないものは見ないで済ませることが容易だってところもあるんでしょうね。そうやって、適当に自分に都合のよいものだけを切り貼りして繋ぎ合わせて、身の丈に合わない大言壮語を無頓着にしてしまう。(そういうところが“セカイ系”的な自意識の肥大化を呼び込んでしまう。)

 ただインターネットも所詮はツールに過ぎないはずのもので。暗黒面の2ちゃんねる的な同調圧力(「空気嫁」)が強く働きすぎると「同化の空間」になってしまうけれど、使いようによっては「共存と関係の空間」にだってできるはず。・・・ただ、それには、(正確に理解することなどは不可能だとしても、それでも、)“他人様”と自分の双方の立場や気持ちを思いやろうとする想像力が欠如してしまってはならない。決して楽ばかりもしていられないし、気力体力も消耗します。(気力体力が充実してないときには、むやみに人に関わることを遠慮するのも、一つのマナー?そのへんは微妙・・・。)
 そういうふうに、上手く使いこなすことが出来れば、インターネットとかブログとかいうツールも、自分を磨き、向上させるために充分役に立つものにできるんじゃあないでしょうかね。(まあ、この言いざまは、半分は自分に当てるムチみたいにもなっちゃってますけど。 笑)

せっかくやるなら達人になりたいもんですが。 

[2008/04/27] | ブログ日記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 だいたい、そんなことやってる場合じゃないときに限って、急にブログのテンプレートをいじってみたくなったりするんです。うん。

 このブログ、ネットスケープ7.1の環境で見ていると、ときどきコメントが表示されないんです、このところ。ただ、表示されなかったり、何かの拍子で表示されたり、妙に再現性がなくて。テンプレートのHTMLに瑕疵があるんじゃなくて、もしかしたらそのパソコンがスクリプトを処理する能力が貧弱だったりするのが、何かのはずみでそういう挙動を示しちゃうのかもしれないなーとか思ったり。(よく分からない。)

 で、ちょっとだけそのへんのHTMLを確認しようと。そう思っただけだったんですけど。何だか触りだしてしまうとあれこれ思いつきで暴走が始まってしまい。でも今日はマジで忙しい中でいい加減なことをやったら、いろいろ失敗してしまいました。
 しばらくもじょもじょとテンプレートを触っていたので、この間にブログをご覧いただいた皆さんには、変な状態をお目にかけちゃったかもしれません。お許しください。

 何がしたくなったのかというと、皆さんに書いていただいたコメントにも、「はてな☆スター」が付けられたらいいのになぁと。まあそんなことで、見出しのレベルを変えてみたりとか、いろいろやってみて、「☆」が付けられそうなところにまでは来たんですが、うまく固有のURIをサーバーに返すことが出来なかったらしくって、結局挫折しちゃいました。

 その失敗に至るまでの過程で、見だし関係のCSSなんかもあっちこっち触りだしちゃったら、もう何がどうなってたんだか、訳がわかんなくなっちゃいまして。(笑)
 まあ、ねー。もう何年もブログを書いてるわけだけども、しょせん素人が真似事でいじり回しているというか。いざとなると力が及ばないんだなぁ、残念ながら。(時間をかけて、調べながらやれば、もう少しは出来ると思うんだけど、そうそう時間があるものでもないし。やっぱり瞬発力って大事ですよね。)

 ・・・なーんてことを考えていたら、“アルファなブロガーと論壇の人、どっちが強い”みたいな話(←違)がひょっと目に止まって。いや、もっとまじめな議論なんですけど、難しい話だなと思った次の瞬間に、そういう野次馬的な観点で、「このバトルは面白いかも」とか思ってしまっている自分に気付いて、ちょっと辟易と。

 ネット界隈で対話していると、東さんほどの人でもなんだかアウェー戦というか。ブログのトップに貼っている写真みたいなところのガードの甘さ(?)まで俎上にあげられると、よく分かんないけど、「うわぁ、大変だなぁ!」って。(笑)
 いつの間にやら何年もブログを書いて来ているわけですけど、考えてみると私なんて、逞しくなっているのは“野次馬根性”ばっかりなのかも!あーあ!しかし、何ていうのかブログ界隈は空中戦なのですねー。(しみじみ。)

自分で自分がよく分からなくなることがありませんか。 

[2008/04/26] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 気付くと自宅のアドレス向けに、仕事の文書を添付して送っていた!!

 ・・・これだけは、やりたくないとおもっていたのにー。

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「言うに言われぬ・・・」もの 補遺 

[2008/04/25] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 前の記事で書き忘れたな、と思ったことを少し。

うーん。やっぱりこうして考えた時に、本当に「二次元だから」「フィクションだから」完全にまったく、全然問題ない、としてしまって良いのかという事は繰り返し疑問として頭の中に起こってくる。

 読み返してみて、zsphereさんの記事では「フィクションの現実への影響」というところを考えようとしてたんだよなぁと。なんだか違う方向へ勝手に反応してしまったのかなぁと。
 どんな名作であっても、変な方向へ曲解して読まれることはあるし、それは避け難いことだと思います。曲解を恐れて何かを表現することなどは、たぶんあまり有効なやり方ではないのではないでしょうか。
 ただ、追記されている中で、「この話題のそもそもの問題点は、そうした作品の作り手と受け手のスタンスの問題」と言っておられるので、それについては(回りくどいけど)自分の思ったことを書いたつもりではあります。

ある訳ないじゃないですかメルヘンやファンタジーじゃあるまいし。
ネタではなく端的に言って、ないよね。なぜあると感じるかは我々に他人の痛みをわがことのように感じる心があるからだ。
二次元のキャラクターが感じた痛みはあなたが共感によって感じた痛みであり、キャラクターの受けた痛みは存在しなくてもあなたの胸の内に痛みは存在する。キャラクターの心だと思ったものはあなたの心の一部なのだ。
だからキャラクターの痛みを共有することを他人に強要するのはやめたほうがいい。
感受性の問題にしろ、倫理観の問題にしろ、自分が感じることのできたキャラクターの痛みを当然他人も感じるはずで、感じるべきだ、共有せよというのはどだい無理な要求だ。

 ・・・そんなふうに思っていたところで、これを読ませてもらって、また“ぐわわーん”となりました。(笑)
 うーむ、なるほど。

 「キャラクターが感じた痛みはあなたが共感によって感じた痛み」、「キャラクターの心だと思ったものはあなたの心の一部」というのは、すごくそうだと思いました。それだけに、「だからキャラクターの痛みを共有することを他人に強要するのはやめたほうがいい」という方向へ行ったのは、そうか、そうだなぁーと。衝撃が走りました。あまり口幅ったいことを言うものではないかも。

 ただ、私の個人的な感じ方ですけれども、zsphereさんが「繰り返し疑問として頭の中に起こってくる」と言われたこと。何度でも何度でも、繰り返し繰り返し疑問が起こってくることそのものが、大事なことだなぁと。それだけは強く強く思うのですよ。
 同じ痛みを共有することは出来ないかもしれないけれど、誰もが何かの心の痛みを感じることは出来る。そこで「感じるべきだ」と言うべきではないのかもしれないし、自分の中ですら答なんかはそもそもないのかもしれないんですけど、他の人の感じ方に触れることは、それだけで充分に意義深いことだと私は思うのです。