相対化って難しい 

[2006/04/30] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

第二次惑星開発委員会 新世紀エヴァンゲリオン(後編)

 今日は、この長い長い対談を読んだりしてたんですが。いろんな人がいろんな立場でいろんな発言してるので、個別に気になることもいろいろあったんですけど、全体としては拡散していっちゃうのかなぁと思いつつ。

「自分の時代には特別な変化が起きている/だからこの変化を敏感に嗅ぎ取っている自分達は特別だ」って思い込みはかなりどうしようもない。自分たちの時代(の表現こそ特別)って思い込みたい人って一定数発生するんですよ。頭が悪いくせに真面目なせいで理屈っぽくなった層に(笑)。
(善良な市民)


 このへんが、「はっ!」と思いましたね。これはエヴァの話なんだけど、Ζガンダムの話をしているときに、やっぱり直撃世代の人たちとの間に感じたこととか。そこから翻って考えてみると、自分がファーストガンダム直撃世代だったり、というよりヤマト世代だったり。(「直撃世代」って言うのも本当は難しいんですよね。ヤマトを小学生で見た人と中学生で見た人では、直撃の意味が違うだろうし。)
 だから“相対化”した視点の大事さというのは共感できるのです。ただ、何が何でも相対化しなきゃ話せないというのでは、失語症になってしまいそう。一人一人が持っている視聴体験というのは絶対的なものなので、遠慮なくどんどん語ればよいのではないかと。いくつもの絶対的な体験が交わっていったところからしか、相対化というものは成し得ないから。
 しかし、それにしても、リンク先で話されているぐらい、いっぺんにいろんなことが「わーっ」と語られてしまうと、情報量過多なのかどうなのか、相対化された総括っていうのは容易なことではないのかなぁとも思うのです。
 っていうか、私なんて、「頭が悪いくせに真面目なせいで理屈っぽくなった層」の典型だったりするのかなぁ。
 相対化できる頭が足りないから、自分の視聴体験の話に終始してしまう?
 でも、だから自分の頭の中で整理できないことを、ここでいろんな人と話す中で相対化したいと思っているのかもしれません。
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ロボットアニメのキャラクターの話 

[2006/04/29] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 と、ここまで書いてきて、シンジくんに共通した特性を持つ主人公を思いだしました。それはのび太くんです。彼は、子供がだれでも持っている欲望をストレートにあらわにし、しかも依存心がやたらめったら強い。なんでもかんでも「ドラえも~ん」です。しかし、こんな彼でも単行本第六巻では自立し、ジャイアンとのケンカも一人で乗り切り、未来へと帰るドラえもんを送り出します。このへんは、第拾九話「男の戦い」でシンジくんが自らの意志でエヴァンゲリオンに乗り、仲間の危機を救おうとしたところに通じます。と、同時にドラえもんが残していった発明品のおかげでウヤムヤのうちにドラえもんがもどってくると、すぐにもとの依存心のかたまりにもどってしまうのび太くんと、第弐拾話でおかあさんに取り込まれてコクピットのなかで溶けてしまったシンジくんはあまりにも似ている。
Robot Animation MANIAX パイロットの才能


 にゃはは!笑えました!
 こういうの大好きです。
 『ドラえもん』と『エヴァンゲリオン』ですよ。しかし、いいところ衝いているなぁと、マジメに感心もしました。設定の謎がうんぬんかんぬんというのも楽しいんだろうと思いますが、私はこういう考察が好きなんだなぁ。(残念ながら頭が固くて、自分でやろうと思うとなかなかできませんが。)

 主人公の話でふっと思い浮かんだんだけど、アムロ以前の主人公って、ああいうネクラ(死語?)はいましたかねー?
 Ζのカミーユって、スポーツ野郎なんですよね。私なんか、かえってそっちに違和感を感じてしまうのは何なんだろうかと。だからといってエヴァのシンジぐらいまでウジウジされたら、正直うんざりしますが。
 スーパーロボット系の主人公って、スポーツ馬鹿みたいなのは多い気がしますが、頭のいいやつっていましたっけ?
 子どものときから「エースで4番」のスポーツ万能で、しかも勉強も常にクラスで1番で、しかも生徒会長・・・みたいな主人公って、思い浮かびませんねぇ。実際には、それに近いようなやつって、時々は身の回りにいたような気がするんですけど。(「実は亡国の王子様でした」って言うアニメでよく見る設定よりは、少なくとも現実感はありそうなんですけどねぇ。)
 やっぱりそれはつまらないか。エリートには共感も感情移入もできないんですよね、普通、多くの人は。わたしゃ運動音痴だったので、熱血スポーツ馬鹿系の主人公でもNGなんですけど。アムロはウジウジしたやつで、そのネクラぶりを周りからも非難されていて、だけどそう簡単に爽やか青年にはなれないところにいつしか共感していたのかもしれないな、と。
 気が付けばニュータイプでした・・・というのは、受け止めようによれば「やつもエリートだったのかよ!」なのでしょうかね?
 ネクラなやつに共感させておいて、実は彼にも一つぐらいは取り得があるという話になって、でもエリートにはエリートの悲哀っちゅうものがある、という結末を迎える。・・・というすごく粗雑な読み方も面白いですね。
 アムロよりどう考えても美形で、しかもスポーツ野郎なカミーユは、出てきたときからニュータイプだってすぐに分かっちゃった。(しかも幼馴染のガールフレンドのファだって、そばかす顔のフラウ・ボゥより間違いなく美形だ。うーん、気にいらんやっちゃ。)少々粗暴だろうがそうでなかろうが、こいつは共感されにくい、可哀想な主人公だったんだろうか。

 しかし、バカシンジだ。「あんた、バカァ!?」いや、まったく。
 ここまで愚鈍なやつが美少女二人とミサトにまでチヤホヤされてる話ってのは、私なんかにはかえってNGなんだけど、そこがおたくにはいいんだってことなら、こりゃたまらん。(ちなみに私は『ドラえもん』が大嫌いです。あんなに教育に悪いアニメもまたとはないのではないかと。・・・ファンの方にはゴメンナサイ。)

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異論大歓迎 

[2006/04/28] | ブログ日記 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

もともとニュータイプって
主人公がなぜ強いかっていう設定に過ぎなかったものが、いつの間にかテーマにまでなってしまい、挙句論争までおこすようになってしまったという、とても厄介なものです。


 そうなのですか?
 歴史的な経緯は、実はよく知りません。
 『機動戦士ガンダム』という作品を観て素直に思うのは、企画当初から明確に構想されていたものではなくて、何かの必要があって、途中から物語に追加された設定なのじゃあないのかなという印象ですね。しかも、少なくとも富野監督の中ではその必要性というのはとても高いもので、TV版に比べて劇場版では驚くほど強調をされているという事実。

物語的にはNTの縛りが無い方が自由な感じがする


 そうだと思います。しかし、“ニュータイプ”の出てこなかったファーストガンダムの結末というものを仮に想像できれば、彼がどうしてそれを強引なまでに必要としたのかが推察もできるのかもしれませんが。意外と難しいですね。(例えば、ここの「なぜエヴァは分かりにくいのか」で試みられているような想定ができればいいのですが 笑)
 物語とすれば、はじめガンダムの性能のおかげで何とか勝ち抜いてきたアムロですが、やがて敵はガンダムと同等、さらにはガンダム以上に強力なMSを繰り出してくる、というところが定番の流れとして盛り上がるわけです。普通、ロボットものの王道から言えば、ここで新兵器登場で派手にパワーアップ(ex.ジェットスクランダー)とかの場面なのですが、ガンダムの場合は地味にマグネットコーティングですからねぇ。(笑)
 ちょっと目先を変えて、リアル路線の最果てと言われる高橋監督の『ボトムズ』では、はじめからATの性能は敵味方同等。常に人間の才能の部分に集約されていって、でも最後は「そこまで行っちゃうの?」だったというところでは、「あれ?リアル路線???」という部分もあったと思うのですが、ガンダムほどに言われないのは、作品そのものが地味だからでしょうか。(余談:詳しく知らないのですが、SEEDのコーディネーターというのは、あれははじめから“無敵”が仕様なのですか?)
 
 ニュータイプについては、ガンダムが好きな人の間でも意見が分かれることはよくあることで、私にはニュータイプ抜きのガンダムなどというものは考えようもありませんが、否定的な意見にも耳は傾けたいと思います。
 お隣の4/25付け雑記では

俺ガンはつまんないです。俺ガンやってて楽しいですか?
「俺設定」は他人と共有できません。自己満足と同じです
人とコミュニケーションするという楽しさを捨てててまで、自分はそれをやろうとは思いません。


と言った人のことが紹介されていますが、「唯一正しい」設定などというあり得ないものについてのバトルは不毛なコミュニケーションだという気がします。
 人それぞれ感じ方が違うからコミュニケーションは楽しい。これを言うと身も蓋もないと言われますけど、私はどうしようもなく、そう思う人です。

ブレンパワードの魅力(の一面) 

[2006/04/27] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

「世代を重ねる意味」については
そんな遺伝的アルゴリズム的な話ではなくて、
単に
人は
手前1人でおぎゃあと生まれて1人で勝手に死んでいくものではなくて、
それには他の人が大なり小なり関わっていることを忘れさせないための言葉でしょう。
少なくとも縦の繋がり(世代)は無視できないですから。


うん。たぶんそうかもしれないですね。少なくとも映像の中で語られていることはそういうことだと思います。ただ、ブレンという作品は、こういう深読みというのか、思索の翼を広げていくことというのか、そういうことを許容する懐の深さがあるような気が勝手にしています。
 エヴァとブレンを並行して見ていくという変なことを続行しているんですが、不思議な専門用語がぽんぽん出てくると言うのは同じでも、エヴァのそれは宗教的だったり哲学的だったり、人間の“知”に関わるもの中心である印象ですが、ブレンのほうは自然科学的と言うか、生命の本源的なあり方に関わるものが記憶に残ります。
 それで人間社会のことから考えを拡大してしまったのですが。
 「だからみんな、死んでしまえばいいのに」にせよ「生きろ」にせよ、まだ何か頭で考えてしまっているところがあるような気がして。「頼まれなくたって生きてやる」と言い切れるものは、理屈ではないからこそ、むしろ自然科学的なものからこそ遠まわしに導き出される部分があるのではないでしょうか。
 縦の世代的つながり、横の社会的つながり、そうしたものからこそ「生きる」ことの意味が見出されるというのは、東洋的な自然観であり人間観でもあるような気もします。「僕が・・・」というのは“個”に発する思想で、西洋的合理主義・個人主義なのじゃあないのかなと、ふとそんなことも思いました。
 宮崎監督などでも東洋的自然観を押し出してくる面は強いわけですが、彼はブレンのような作品をどんなふうに評価しているんでしょうかね。(どなたかご存知で?)

隣の芝生は 

[2006/04/27] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 お隣の達人には、またうまいことかわされてしまいました。(笑)
 風流を解さない無粋なやつでございますので、ご無礼あればお許しを。(自意識過剰なぐらいに、人にかまってもらいたがりな寂しがり屋でござんす。)
 リンク先を拝見して頭をかいております。でもあまり反省してないのは、私、自虐的なんでしょうかね~?(笑)
 人から見れば、見ようによってはあほに見えるかもよ、と教えてもらえるのも、教えてももらえないよりは、はるかにうれしいことであります。

 ・・・ってのろのろと書きかけていたら、4/24付けの雑記で、正しきモヒカン道(?)を書いていらっしゃいましたね。(笑)

非論理的な弱き善人よりも理論武装した悪人が正義である、筆力の元に全てが平等な楽園、それがネット!(←ただし地獄に見える人も多いらしい)。


 そうかもねー、と思いながら、「論理の斧」も「鉄の心臓」もあいにく持ち合わせが・・・。
 バルタザールさんが狭い世間とおっしゃった、そういう中では違うのかもしれないとも、ときおり夢想しますが、たぶんそれは間違いなので。(だって狭い世間は人口過密な都会だもの。)
 この広い世間(だけど広々とした田舎)では、どこからどう見られてるのかなど、想像のしようもなく、天然自然あるがまま以外には身のおきようも分からないというのが正直な所です。(不器用なやつめ!)
 ・・・嘘です。世間が広かろうが狭かろうが、振る舞いようなど分からないので勝手気ままにやっておりますワガママものですから、たまに叱ってやってもらえることが、本当はうれしいのです。(これって意外と心臓はヤワだが鉄の剛毛が生えてるような言い草だろうか。)

 だけど、ひとりでもものが考えられる人はうらやましい。(これは本音)