アニメ産業は先細りの一途か? - あえて言おう?“ニッチ上等!”
例によってコメントするつもりが長くなってしまったのでトラバします。
タツノコは過去の遺産で食っていこうとしないで、新たに企画を起こす能力はもうないんだろうか?
何にせよタツノコがこのまま零落していってしまうのは忍びないので、金を稼いだらオリジナルの企画たてて欲しい。
昔のタツノコ作品のファンとして、涙が出そうになるお話。
また、今回のパネルでは、この新しいキャシャーンの物語の一部も公開されている。そのプロローグでは、なんとキャシャーンはブライキング・ボスの部下で、謎の少女ルナを殺害するところから始まるものになっている。また、キャシャーンのイメージも、大きな目が特徴になっており従来と異なった印象を感じさせる。
元記事のほう。“な、な、な・・・なんだってぇー!”と思わずのけぞりますけど、「アニメ制作はマッドハウス」と言われると、それなら期待もしていいだろうかと。正直、今のタツノコが自分のところだけでやるという話だったら、失礼ながら不安でいっぱいだったかもしれません。
これを読んで、お隣のマウンテンサイクル(2008/6/26付)で先日発掘されていた昔の記事のことを思い出しました。
ガンダムは年間500億円をコンスタントに稼ぐニッチ産業だということ。ユーザーのパイがそんなに大きくない中で、どれだけ深掘りできるか?という商売らしい。
ガンダムブランドを消費するだけのビジネスなど無駄以外の何者でもない。
しかし、ビジネスサイドからすると売れるから売る、ぶらさがれるからぶら下がるのは当たり前の判断であり、結局、ガンダムブランドを無駄に消費しているのは、それを買う側のファンに過ぎない。
だからこそ、ガンダムだから何でも良いというのではなく、本当にガンダムというブランドを生かそうとしている商品のみを購入するべきだ。消費者が正しい目を持って選択することのみが、本当にブランディングを考える商品を生み出すきっかけになる。
「どれだけ深堀りできるか?」という商売なのは、タツノコブランドも同じだと思う。むしろ、汲めるだけのリソースがそこに眠っている(「ビジネスサイドからすると売れるから売る、ぶらさがれるからぶら下がるのは当たり前の判断」)と思ってくれる人が、まだある程度はいるらしいことを喜ぶべきなのかもしれません。(かつてのヒット作が、いまや・・・という嘆きはありますがね。)
しかしかなり手堅いはずのガンダムですらニッチ市場と呼ばれるんでは、アニメビジネス全体が「どれだけ深堀りできるか?」という商売と言わねばならないんでしょうか。(もっとも、日本テレビと組んだスタジオジブリだけは別格か・・・?)
しかしOVA作品は、ビデオやLDを買うか借りるかしないと見ることはできなかった。
ところが今では、そんな作品もでわざわざ無料でテレビ放送してくれる。『コードギアス』なんていう徹底してオタク向けにチューニングされながらも高い質を維持している作品が無料で全国放送されているなんて、本来なら夢のようなことだ。
こういう見方もありました。当たり前のようですが、「ガンダムだから何でも良い」、「タツノコ原作だから何でも・・・」、「アニメだから何でも・・・」というのを注意深く退け、何を見るのか、何を買うのか、しっかりと選ぶことが大切ですね。
もしかすると作り手も、そういう切磋琢磨する環境にさらされているという意味では、“ニッチ上等!”な側面もあるのかもしれません。(ジブリブランドだから安泰という環境よりも、老舗のタツノコであっても、今、勢いのあるマッドハウスと組む、といったような。)ただし、富野監督がよく言っておられるように、隙間産業だけに安住する志の低さでは、業界全体が先細りになっていくだけなのはもちろんですが!
いわゆる“善”ではない「白富野」の話と、それから・・・
どうも、アニメの感想がうまく書けないで、(もっとも・・・もともと、うまい感想なんか書いたこともないんですが、)ブログの更新が滞っております。今日は、kaitoさんの記事が興味深かったので、コメントしようと思ったら例によって長ーくなっちゃったので、ここに書いてトラバするというパターンであります。
つまり、人はそういう強固さを持つ同時に、そんなに利口でもないから、 そう簡単にひとつの行動原理で支配されるわけがない。 どういうことが言いたいというと、とにかく人は平気でうそをつく。 人はそんな便利な生き方をするから、そう簡単に死ぬわけがない、ということです。
・・・いい話だと思いました。それを“しなやかさ”というんでしょうかね。
なかなか難しい話でもあります。人々は理路整然とした「主義主張」を求めたがりますが、往々にして人間の現実は、そのように理にかなったものではあり得ない。これを、どのぐらいの人が受け入れられるのか。
「黒富野」と言われる作品群はおおむね、さして利口でもない人間が理詰めで考えていっても、結局は行き詰ってしまうという、そういう人間の本質的な愚かさを見据えたものであったと思います。
人間の「生」のありようとして、それは一面の真実を捉えています。その一方で、主義主張のとおりに生きねばならないと思いつめる(いわゆる“原理主義”的な)人々だけが、人間の典型的なありようではないのですよね。
近ごろ世の中で実際に起きている不穏、悲惨な事件についての報道や、あちこちのブログの記事などを読んでいて、漠然と“フィクションの機能”ということを思ったりしています。それらはたしかに現実に起きている出来事には違いないと思うのですが、ほとんどの人にとっては“目の前の現実”ではなくて、メディアを通して知った情報に過ぎない。
そのように、たまたま聞き知った情報の断片だけで語ってしまうことの怖さを、あまり強調し過ぎてしまうと、誰も何も語れる言葉がなくなってしまうことも知っていますので、そういうことが言いたいわけではありません。ただ、例え“目の前の現実”であってさえも、一人の人から見えていることというのは、常に“一面の真実”でしかないという。・・・その危うさを自覚しながら、それでも敢えて何かを語らずにはいられないんだという、そういう覚悟が行間から見えてくる文章と、そうでない文章というのは、これはあるような気がいたします。
映画を撮らせてもらえないルサンチマン、などという過去形の話
なんだか普通のアニメ感想を書くやり方を忘れてしまった!で、今度はひとさまのブログで、言及いただいていたのでお返事のコメントを書いていたら、だらだら長くなってしまったので、トラックバックにさせてもらいます。
僕としてはミュージカルとかオペラのように、つまり時間軸に沿ってテンポがはまりきっているような感じもした。
それでいて、現代タレントの芝居でもあるので、はまったままなのだ。
あと、カメラポジションもセンターがメインで、視点が簡単だ。
でも、逆にこれは萬画にした時にコマ割が単調だなあ。
いや、僕が好きなアニメの構図が凝り凝りなのかもしんないけど。
私は印象論でしか書けなかったのに、ちゃんと具体的に検討してくださっていて、グダちんさんは、偉い!と思いました。ありがとうございます。
昔は、映画が撮らせてもらえないルサンチマンの塊のような人たちがTVドラマを作っていたりしたのかなぁとか勝手に思ったりしています。(これだと富野監督の話っぽいけど・・・。)
多くの視聴者に求められているTVドラマのクオリティって、見終わったらスッキリするのが大事なことで、あとから何度も反芻したくなったりとか、そういうのは余計なことなのかも。マンガで言うと、週刊ペースで読み終わったら惜しげもなく廃品回収へ行くのが標準的な消費者のスタイルで、単行本を買いたくなっちゃうのはあくまで例外的扱い、とか。そんな感じ。
あれもこれも気になった作品の単行本を買いだしたら、きりがないぐらいの量がある。昔はどうだっただろう?まだ子どもでアンテナが発達していなかったせいもあると思うけど、気になった作品の単行本ぐらいは、集める気になれば集めることができたような気がします。











