「メッセージ性」と「ポストモダン」と「Zガンダム」 

[2007/02/23] | 新訳Ζ | トラックバック(2) | コメント(0) | TOP ▲

 “メッセージ性”が強い作家ということで、富野監督などは持ち上げられて、ここまで来ているような気がしますが、私は実は「本当にそうなのかなぁ」と思いながら作品を見ています。何か考えながら作品を作っていることはいつもそうですが、結論を持って、その表現として作品を作るというよりも、まさに作りながら考えて、その思考の振れ幅みたいなものも作品の中にダダ漏れで、そこからどういうメッセージを汲み取るべきなのか、富野ファンの多くでさえもなかなか掴みにくい作家なのではないかと。(そこが好きだったりする私もたぶん、この方のメッセージを、しばしば掴み損なっている一人なのかもしれません。)
 メッセージには“発するもの”と“受けるもの”が常にいるわけですが、ただ出されたものを丸呑みする受け手だけでなくなったことは、たぶん良い方向に時代が進んだのではないかと思います。その半面で、発し手と受け手の境界が曖昧になったことで、どんなメッセージもまっすぐには伝わりにくい、難しい時代なのかもしれないなぁとも思っています。
 富野さんに関して言えば、「何が正しいかハッキリしない世界(ポストモダン)」という時代を、あの年代のおじいちゃんなりに考えていればそうもなろうかというように、私は好意的に受け止めているんですが、これは単に私の嗜好の問題、ひいきの引き倒しかもしれません。(それこそハッキリしない・・・。)
 ところで富野さんのことはさておき、一般論としては、何が正しいのかハッキリしない世界ということを前提にした場合に、メッセージが「正しく」機能することというのはあり得るのでしょうか。また、「正しく」機能しないメッセージには、存在価値はないのでしょうか。(抽象的な話ですみません。)
 実は私には「ポストモダン」ということが、まだすんなりと呑み込めていないところがあります。(20世紀が実態としては19.5世紀だったんじゃないかというような話の延長。)――確かに現代という時代に作られるものは、21世紀を見据えて作られなければならないし、こよみはたしかに21世紀なんですが、現代という時代は全然20世紀を引きずっているし、下手をすれば19世紀の遺物だって平気でその辺にごろごろしている。私にはそういうことが気になっちゃいます。現代を見据えるということは、そういう実態を見据えることでなくてはならないんじゃないかと。

ガンダムというものは自分の中に、要するに荷物として背負わされてしまってから、考え始めたことがあって、戦争はもう現在以後の人類史の中では、絶対にあってはいけないやってはいけない行為になってきたっていうこともわかってきました。Zを作っているくらいまでの頃は、それでも僕自身も人類史にとって戦争というのは必要悪かもしれないとも思っていました。けれども、21世紀というのはそういうふうに歴史をとらえていたら、21世紀中に人類は滅びるかもしれないんです。たかがこれから100年くらいで。

ひびのたわごと 手を尽くして

 これなんか読むと、(富野さんの言うことをどれだけ真に受けるかというのもありますが、)『Zガンダム』ぐらいまでのほうが何が正しいのか間違ってるのかは弱かったのに、今のほうがメッセージははっきりしてきています。でも子犬さんが言っておられるとおり、“ハリウッドや世間を括目させる”などというのは難しいなんてもんじゃないですし、そのメッセージも、以前よりもさらに機能しなくなってきている気がします。
 「そんな人類にしたくはないっていうことを考える次の世代を作りたい」という言い方は、何が正しいのか間違ってるのか、それを知っている大人が子どもに教えるのが「成長」という古臭い教養の考え方に、たしかに聞こえます。ただ自分で「考える」、「そういう人に会いたい」と言うところには、可能性は読み取ってあげてもいいんじゃないかと思うのです。

いや、この際ミもフタもなく言って、80年代後半から90年代前半の一時期、高年齢層が「真面目で難しい人間ドラマをやるアニメ」にウンザリして、メカと萌えだけで別にいいや、となってしまったきっかけを作った張本人が、神経症アニメのZガンダムだった、という見方もできる――が、良い意味でも悪い意味でも、Zガンダムという「TVアニメでここまでギスギスした神経症人間ドラマもあった」という前例あってこそ、エヴァンゲリオンだって出てきたんだろうし(富野監督当人はこの言い方を嫌がるようであるが)、その風下の今のセカイ系もあるわけだろ、という話になる。

電氣アジール日録 - 1985-2005

 『ビューティフルドリーマー』以来の「現実に帰れ」というメッセージが、『エヴァンゲリオン』を経ても機能しないのは、アニメという娯楽的に消費される枠組みの中でやっている限り、ぐるぐる回りを続けるしかないという、やり方の問題なのでしょうか。

 「自分で考えなさい」というメッセージを機能させるためにはどうすればいいのか?まずメッセージの場に注目させるための娯楽性がどうしても不可欠なのか、ということもありますが、そうしておいて冷水をぶっかけてもエヴァは充分に機能しなかったようです。そうなったときに、「ええーっ、そうかなぁー!?」と言わずにいられないようなメッセージを(それが機能するかしないかにこだわらず)投げかけるというやり方で、自分で考えることを促すこともあってもいいような気がします。(その意味では、“ハリウッド”云々は、注目への希求なのか、機能することへの執着なのか、私には判断できません。そうした物言い自体が、あえて反発を買いそうな戦略トークである可能性も含めて。)
 『ポストモダンとは - はてなダイアリー』に、「それを用いる者には、降りかかる危険を未然に防ぐため、相手の教養の成り立ち具合に一応の留意が必要である。…ただし、それ以前に自分の教養の成り立ち具合に留意が必要である。」という注釈があって、冷や汗が出ました(笑)。私の教養レベルでは、どうも満足に考えることも難しいようです。
 ただ、そんな私でも今という時代は、こんな程度ですが何か書いて、自分なりに考えてみようとできるんだから、たしかに自分で成長するための環境は整ってきているのかもしれないですね。だけどこれは、ここでいろんな方と関わりあうことで、やれていることであって、自分ひとりでは一歩も前には進めないかもしれないです。
 新訳Zでは『ZZ』や『V』に比べ、“大人”が主人公を導く構図だから古い、というのが私には分かるようで分からないのはそこです。TV版の『Z』では、導いてくれないシャアにイラついていたカミーユが、劇場版ではあまり依存し過ぎずに自分なりに考えようとしていた気がするんです。むしろ、以前に“上手に関われない”ことを恐れ、みすみす若者を破滅させてしまったのは大人たちのほうだったので。私には、新訳の大人たちは、導けないまでも関わろうとしていたように見えたのですが、それは私も“大人”を拒否できない年齢になってしまったから、そういう感想を持ったんでしょうかね。
 大人だって生きてる限りは成長はしたいんで、“ダメな大人は黙って引っ込んでたほうがまし”と言われたような気がすると、私はちょっぴり寂しいです。――そんな意味では『新訳Z』は、over35推奨の作品でしたかねぇ?(笑)

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『新訳Z』は、あらゆる“~主義”への警鐘では? 

[2006/11/13] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 恋愛の話は無視できない大事なものなのでしょうが、やっぱり難しいものですね。『星の鼓動は愛』のラストを巡って何回か書いてきましたが(→ちょっと間の空いてしまった前回)、年代ばかりではなく、人によって感じ方・考え方というのには、さまざまな差異があるということを実感。この話をはじめたときは、「違う捉え方もあるということで、どこがどう食い違うのかということを探ってみたい」と言っていたわけなんですが、立場が違うと相手の思いを正しく汲み損ねてみたり、考えていることがうまく伝わらなかったりで、反省しきりです。

個人的な見解では、現代の人にとって達成感のある個人体験がもはや恋愛くらいしか思い当たらなくなっていることが、恋愛重視の正体ではないかと思っています。
精神的に満たされるために必要なことというのかな?

ここで私、「恋愛にアップアップ」とか「純愛への憧れ」とか、「愛なんてもっと下世話なものじゃないか」、とか全部ピンとこなくて…


 のりのりさんの、このコメントには、考えさせられました。――これは揚げ足取りではなく、むしろ同意しているのですが、たしかに恋愛を重視すると言いながら、多くの現代の人は恋愛を“個人”体験として達成することで、精神的に満たされようとしているのかもしれません。何が言いたいのかというと、「恋愛とは本来、相手とのやり取りの中で育まれていくものなのでは?」という視点の欠落についてです。
 ただ「ピンとこない」という指摘も頷けます。つまり、“個人”体験として、お互いに自己満足できていれば“ハッピー”(=精神的に満たされている)と思えている人のほうが、むしろ巷には多いということだと思います。――そういう自分なりの折り合いの付け方もあるのでしょう。と言うか、そうやって折り合ってる人のほうが多いんだな、現代は。そこは納得しました。…となると問題は、(ちょっと極論ですが、)“個人”体験ではない恋愛(本気で他者と向き合うコミュニケーション)でなければ満たされないと考える少数者が、無視できない比率で存在するのかどうか、ということなのでしょうか。

「『星の鼓動は愛』のラスト」を「踏み絵」にして、その反応だけで「恋愛至上主義者」とそうでない者を正しく判別できるのでしょうか?


 ねもさんとは、お互いなかなか思いが正しく通じなくて苦しいところですが、すこしずつ互いの立場が分かりあえてきた部分もあるような気がしています。
 私の書き方が悪いんでしょうけど、今まで書いてきたことは「~主義者」とそうでないものを判別しようというのではなくて、それぞれ自分の中で「~主義者」的になっている部分がないか、振り返ってみるきっかけにならないだろうか、という趣旨のつもりでした。

 「恋愛至上主義」という物の定義が、良く判らない。たしかに言われるとおりだと思います。「恋愛至上主義(れんあいしじょうしゅぎ)とは、恋愛を人間における最高の価値と考える思想・思考形態を指す。そのような思想・思考形態をもつ人物を恋愛至上主義者という。」とWikipediaには書かれています。意外なようですが、戦前から既に議論されてきた言葉のようです。(恋愛至上主義への批判は、もっぱらそれが優生学的な思想と結びつきやすいところから展開されてきたようです。)
 Wikipediaが常にバランスの取れた見識とは限りませんが、「恋愛 - Wikipedia」を見ると、「日本では、自分の好きな人と恋愛をして結婚するという恋愛結婚が現れたのは、明治以降の事」とされ、高らかに恋愛至上主義を宣言し、当時の若者に衝撃を与えたのは北村透谷とのことです。

 明治から大正にかけて、文化人の間にはロマン主義の影響や、家制度によるお見合い結婚への反発として、恋愛至上主義が広まったが、恋愛結婚が大衆化するのは戦後になってからである。お見合い結婚でも親の意向にのみもとづいた結婚は忌避されるようになり、夫婦の間の愛情をもった繋がりが強調されていく。
 高度経済成長期以降は、恋愛結婚の大衆化により、恋愛は普通の男女であれば誰でも出来る・すべきものだという風潮が広がった。


 ここまでの経緯は異論の少ないところですが、バブル期以後の「恋愛で消費行動が重視される傾向」あたりからが、近年“オタク”の問題と絡めて議論の多いところだと思います。「マニュアル的な恋愛」「トレンディドラマ」などがその傾向を助長したと言われていますね。

 男性側がどれだけお金を使ったかで愛情の深さを測る風潮が、それまでの社会的規範に反するとして非難されたり、賞賛されたりしたが、これにより「結婚を前提とした一対一の関係」や「純愛」というロマンチック・ラブの規範から逸脱した恋愛関係が若い世代にも広く認知されはじめたという意見もある。


 賞賛?広く認知?というのがなかなか同意しがたいところですが、少なくともそういう議論、あるいはそういう現実もあるというのは本当のことですね。
 ねもさんが、「恋愛感情(好きか嫌い)」をやはり一番かなとしながらも、それだけでなく「経済力(金が有るか無いか)」とか「美的センス」とか「個人の嗜好」とか、いろんな判断基準が実際にはあって、“「恋愛」というワンパラメータの「至上主義」は、本当に現在の主流なのか”と思えてきたと言われるのには、だから私もまったく同感です。

 ここでは恋愛の話ですが、それだけに限らず、今日では社会全般の傾向として、このように多様に「価値観も拡大・拡散してしまっている」からこそ、かえって各個人は“~主義”(あるいは“アンチ~主義”)に固まろうとしがちではないか?そして、それでは“崩壊”を免れ得ないときに、人はどういうしなやかさを持つべきなのか?…というのが、私が今回の『新訳 Zガンダム』に対して考えたいと思っているテーマなのです。
 先日も飯島愛ちゃんに愚痴ってましたが、富野監督は“今の若者の感じ方は分からない”ということは率直に認めてるんで、それは残念ながら私も似たようなところがあります。「若い人への迎合」では堕落。といって、偉ぶって嫌われてもダメ。…というのは、本当に難しいですね。
 「大人の傲慢」という批判は、けっこうツラい。飯島さんとの対談でも思ったのですが、ファンにとっては『ガンダム』でも『Zガンダム』でも、それらはもはや“自分たちのもの”なので、富野監督の作ったものだという思いではないようです。(それもやむを得ないことなんだと思いますが。)

旧約を見なかった(Zの予備知識を知らない)人に、新約をいきなり見せてラストの(カミーユ->ファの気持ちの流れが)自然な物として伝わるか?


 “自然なもの”としては伝わっているはずだと私は思っています。第一部でも、第二部でも、カミーユとファは抱き合ったり、じゃれあったりしてますからね。ただ自然ではあっても、あまりロマンチックな要素がないのは間違いなくて。
 ロマンチックじゃないと達成感が得られない、ドラマにはそういうものが必ずあるはずだ、という観念も、ひとつの“~主義”に類すものではないでしょうか、ということ。そして、何かの主義に殉じてしまうのでない、しなやかさや、あるいはしたたかさというものも、こうした時代を生き抜くためには大事なのかも、ということ。私が『新訳 Zガンダム』に感じて、誰かに伝えたかったことは、そういうことに過ぎないのですが、力がなくて、これ以上うまく表現できないことが残念でなりません。



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『星の鼓動は愛』は“純愛”否定? 2 

[2006/10/30] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 富野監督と「純愛」の話 三部作の延長戦の、そのまた続きです。(笑)

富野監督は「30代が恋愛にアップアップしていて、一生シングルかもしれない…」といわれていますが、実際にアップアップしているのは、恋愛(純愛)もせずにお見合い結婚をしてこの頃になって「経済orコミュニティ至上主義」は失敗だったとして、(個別には決定的な理由は色々有るでしょうけれども)離婚している熟年世代の方ではないでしょうか?


 私はなるべく“いぢわるくまじかいし”たくないですけど(笑)、ねもさんのコメントの流れ、はじめは“恋愛至上主義”じゃないと言っておられたように思ってたんですが、だんだん“主義者”寄りになって行っちゃってません?別にディベートをしているわけじゃないですし、基本は、(私には似合わないながらも)“恋バナ”ですから、どうか気楽にお付き合いくださいませ。(笑)

 まず富野監督が“恋愛問題”を専門的に研究してる人ではないだろうというのは、それはそうでしょう。“そういう人”なりの考え方だ、と思って耳を傾けてみてはいかがでしょうか?ちなみに私自身も、恋愛に関しては「まるで駄目男」クンです。(笑)
 ですが、そんな私でも、恥ずかしい話をすれば、土砂降りの雨の中を傘もささずに彼女の姿を求めて泣きながら走った…ぐらいの個人史はあります。(こんな話は長くなるので書きませんけどねー。 自爆)だから、富野さんが自伝などで書いてることで、彼の恋愛体験のすべてが分かるわけでもないだろう、と私は想像するのですよ。
 生きてきた年代、それぞれの体験、…恋愛観などというのは結局は百人百様のものとまで言い出すと身も蓋もないですが、だけど“恋バナ”などというやつは、自分の立場で感じてきたことを、思ったままに語るしかないものではないでしょうか。また、人の話も(専門家、非専門家を問わず、)そうしたものだと思って聞かないと、絶対普遍の真理なんて、そうそうはないんじゃないでしょうか?(といって、百戦錬磨のツワモノ以外の言葉は無意味だというようなものでもないでしょうし。)

 ご指摘のとおり、今「アップアップ」してるのは、格別30代だけじゃないだろうと私も思います。熟年離婚も「アップアップ」だろうっていうのには強く同感。ただ、その原因がお見合い結婚なのかどうかは、私には疑問です。(恋愛結婚であれば大丈夫だと?少なくとも富野監督はそうではないと考えておられるようです。)――それこそ私も専門家じゃないから分かりませんが、いい年をして分別なく別れて、それで幸せになれればいいですけど、ねぇ?
 韓流ドラマブームな中高年の「純愛への憧れ」が、あまりいいものには思えないというのも、だから大賛成。そういう熟年世代に向けてもメッセージを、というのも分かりますよ。ただ、その人たちは残念ながら、富野監督のアニメなんか見ないだろうからなぁ…。(苦笑)
 それから、ここはちょっと大事なところですが、「熟年離婚」は「一生シングル」よりも、「ワーストケース」なのかどうかは議論が分かれそうですよ?……一応、人生でやるべきことはやり終えて、残酷なことを言えば老い先も短い人たちが、感情と現実の折り合いを付けられないのも無残といえば無残ですが、“人生これから”の人たちの問題は、考えようによってはいっそう深刻ですよね。

 そして、“~主義”ということなんですが、富野監督の発言には、「イズムを出発点とした表現というのは所詮論文でしかない」、「所詮、イデオロギーというのは100年持ち得ないかもしれないと考えます。」というものがあります。(→【東大】富野由悠季講演会【五月祭】[2003年5月])
 「~優先主義」か「~至上主義」か、どころの話ではなくて、富野さんという人は、あらゆる“~主義”を根底からぶっ飛ばす、スゲー思想(というかヤバイ思想?)の持ち主だということなのですよ。(でも“原理原則”みたいなことは言うので、そこが果てしなく難しい・・・。)

といったときに、人間が一番支持するのは、体感的に言う快感でしかない。そうするとオーガズムも重要な要素なんだけど、オーガズムに近いようなものを体感、想像できるかもしれない、そういうような欲望を喚起してカタルシスさせる芸能というシステムは、人が永遠に手に入れ、持続させなければいけないことなんじゃないかなと思えてきたんで、イズムというものを捨てた、という言い方があります。


 知性で塗り固めるイズム(=“~主義”)は結局その場限りのものなので、これに代わるべきものとして、(のりのりさんが指摘されたように、)人間の生理に根ざしたシステムとして、「芸能」を構想する。――ちょっと難しいですよね。(笑) 私なんて本質的には“頭ガチガチ”な人ですから、こういうのも感覚的じゃなくて、つい頭だけで考えちゃう。(なので、この話はここではここまで…。)

 話を戻せば、富野監督の立場は、つまり「非恋愛至上主義」という“主義”でもないんじゃないかということです。同様に“個人主義”でもなければ、“コミュニティ至上主義”でもないんだと私は思います。

囚人022さんは、「コミュニティは(そのコミュニティの構成員同士の)恋愛をもっと素朴に祝福してもいいのではないか」といわれていますが、コミュニティに幻想を抱きすぎの様におもいます。


…とねもさんは言われるのですが、仮に“キミとボクだけのセカイ”を夢想してさえも、それは実際には、既に最小限のコミュニティだったりするんじゃないかと私は思うんです。富野さんの言葉で言うところの、「結婚、つまり、性別が違う人と一緒に暮らすというのはもともとが折り合いが悪いものなのよ。それをなんとか定置をして、子供を生んで、家庭を維持して、なおかつ死ぬまで一緒だったりする。そういう他者と折り合いをつけて暮らしていくのが、結婚であり、人間であり、世の中なんです」ってことですね。
 つまりシビアな見方では“キミ”はもう他者のはじまりなんで、“キミとボク”の恋愛だけは特別だというのは、逆にそれこそ「幻想を抱いてるんじゃないですか?」ってことです。
 だからそれを承知で「折り合いを付ける」決意をした二人っていうのは、その馴れ初めが“ドラマチック”だろうと、そうでなかろうと、等しく祝福に値するんだと、もしやそういうことが富野さんは言いたいのではないかなぁって。

(恐るべきことにまだ続く)


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『星の鼓動は愛』は“純愛”否定? 1 

[2006/10/30] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 富野監督と「純愛」の話 この三部作(笑)は、“恋愛べた”の私なりに一生懸命書いたのですが、その中で話の引き合いに出した、ねもさんのほうから気合のこもったツッコミをいただきました。ごめんなさい、ちょっとだけ勝手に要約します。

・自分的には、『カミーユが「妥協の産物」としてファを選択』であっても、『カミーユが、恋愛的な反比例距離を克服して物理的な距離の近さまで近付きたかった結果としてのファ』であってもどちらでも良い
・ただ、どちらの感情が根底にあっても描写の不足感を強く受ける(カミーユに感情移入し難い)
・なので、『星の鼓動は愛』のラストで、映画の主題が「純愛」だからといって、その予め用意されていた結末のエピソード(=カミーユは崩壊せずにファと結ばれる)に向かって、なんの脈絡もなく唐突にファへ向かって愛情を注ぎだすカミーユ描写は、まるで「デウス・エクス・マキーナ」的ではないか?
・あの様な、作品(とかその先の観客)への「愛情優先主義」ではなく「尺優先主義」で作られた描写不足なラストでは納得出来ていない


 これについての私の理解は、先日書いたとおりですが(→「恋愛至上主義」と「星の鼓動は愛」、私の雑感 )、つまり“描写が足りない”のではなく、カミーユとファの恋愛ドラマは“意図的”に少なめに描かれたものではないのかと考えています。
 (ご指摘のように「中学生ぐらいからのお隣さん」を幼馴染と言う言わないは別にしても、)彼らが互いに好ましく思っていることは、既に先刻承知のことなのですよね。これは「何の脈絡もなく唐突」ではないと思います。
 だから、それに「納得がいかない」というのは、彼らの恋愛が“ドラマチック”な要素を欠いているという不満感なのではないのかと私には思われます。
 つまり、ここで問題提起されているのは、「恋愛ってそんなにドラマチックなものじゃなきゃ駄目なの?」ということだと私は考えているのです。そして作者がそういう考えの持ち主であれば、“ドラマチックでない普通の恋愛”を、まさにそのように表現してみせなくてはなりません。――これは物語の長さ(尺)には関係のないことであり、「~優先主義」という言い方をすれば、むしろ“何も優先しない”(ドラマチックな恋愛と普通の恋愛とで、どちらが上でも下でもない)ということを、そのままに見せたのが、この作品の表現ではなかったでしょうか。
(余談ですが、“~優先主義”という言い方は、“~至上主義”よりも、この場合のニュアンスとして適当なものかもしれないですね。つい、言葉のインパクトに引っ張られて“~至上主義”、“~原理主義”などと用いてしまいがちですが、ご指摘のおかげで「語弊もある」ということを教えてもらった気がします。)

 さて、もちろんカミーユは、いくら苦労をしてきたとはいえ老成した大人ではありませんから、まだ若いねもさんやルロイさんと同じように、純粋なものへの憧れを失ってはいないでしょう。ただ、(またものりのりさんがうまいことを言ってましたが、)それはそれとして“純愛”の理想は“殉愛”だけでいいのか、という疑問形はあり得るとは思いませんか?

対照的にZガンダムのサラ・ザビアロフが「頭でっかちな純愛(恋愛至上主義)」を貫いた子なんですよ。「私とハプテマス様は地上で唯一無二の特別な関係なの!」とか言って。でも、サラって本当はカツやカミーユにも揺れてたんです。そこで素直になっておけば良かったのに、そうしないで頭でっかちな純愛を貫いた結果、ああなってしまったんですね。


 psb1981さんのこの指摘も、私は慧眼だなぁと感心しました!

 偉そうに言ってるように聞こえたらいやなんで、正直に書いておきますが、「手近な現実と向き合うということが、すごくみっともないこと、納得の行かないことに思えていた自分を、この作品で発見した」気がしているのは、ほかならぬ私自身です。

そういや、「下衆なもの」と表現されているそれは「人間の生理に根ざしたもの」ということではないでしょうか?


・・・とのりのりさんが鋭くご指摘のとおり。
 「生きている喜び」や「好きな人と抱き合える喜び」――私のような夢見がちな人間は、往々にして(&いくつになっても)“それだけではない何か”を求めてしまうのですが、夢を追いかけるあまり、大元にある“それ”を、いつしかつまらないこと、どうでもいいことだと思いなしていたようです。どうもそこで(少なくとも私は)「アップアップ」してしまっていたような気が。(笑)
 そういうわけで、これは私自身には、実によく当てはまる話だったので、「“恋愛至上主義”というもののためにアップアップ・・・」というのを前提に文章を書いてしまったのですが、「そんなものは一般論ではない」と言われると、なるほど少し、普遍性を再検討する必要は感じております。

続く



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「恋愛至上主義」と「星の鼓動は愛」、私の雑感 

[2006/10/25] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

正直な話恋愛至上主義という感覚は自分には理解できないものでして、割と最近まで女子高生とリアルに接することができる立場だった人間としては(笑)、不思議だなぁと常々思っていました。そういうのを否定したいって気持ちも実に分かるんですが、そういう感覚って古今東西全ての女性が持っているものだと思うんですよ。最近の恋愛至上主義傾向っていうのは、単純に女性の嗜好が世間に反映されやすくなっただけなんじゃないかと思うのです。もちろん世相はありますけどね。
だから、「君たちちょっとそれは違うんだよ、恋愛とはそうではないのだ」という言い方は、ただの大人の傲慢でしかないんじゃないの?とは思いますね。

ただ、自分が新訳Zのラストで腑に落ちないのは、単純に過程の描写が足りてないっていうだけで、ああいうラストになること自体は全く否定するつもりはないんですよ。せめて、ファがもっとカミーユに片思いしている描写があればもっと伝わるのに…と、そう思うだけなのです。(ルロイさんのコメント


 若い人は羨ましい…とか、とりあえず、つい口をついて出てしまいますが(笑)
 なるほど御大の言い方自体が「今の30代が恋愛にアップアップしていて、一生シングルかもしれない」ですから、それは現在ただいま、全然“アップアップ”してない人には、はじめから通じない物言いかもしれないと思いますね。

はてなブックマーク > タグ > 恋愛至上主義

 このあたりを眺めていると、確かにそういう問題を実感している層は(特にサブカル界隈?でなのかもしれないですが)実在すると思うんですけどね。
 それから、もう少し広くネット上を見回していくと、「恋愛至上主義」という言葉に対する男女での感じ方の違いというのも、なるほどあるような気がしてきました。(それをうまく言い当てるところまでは到底行きませんけどね。)

 若い人が“純愛”に憧れる気持ちを持つのは普通のことだと思います。ただ私も「大人の傲慢」を恐れずに言うと、それは“夢”と言い換えることも出来ます。(この世のものじゃないかもしれない。)
 だけど“夢”を持つこと自体を否定する立場でもないんだろうなぁ。“夢のない大人”になんか、なりたくってなるやつなんて誰もいないんだ。
 ただね、いくつになっても夢ばかり見がちで現実を直視できないでいて、なおかつ(自覚のある場合もない場合もあるでしょうが)それに起因して、目の前の現実にうまく対処できないという“大人のなりそこない”が、現に世の中に一定数以上いたと仮定するなら、それに対して「夢を大事にすることも忘れてほしくないけどね、…」と語りかけることは、それは「大人の傲慢」じゃなくて、むしろ大人の責任なんじゃないかと。
 そういう文脈で言うと、ファとカミーユの関係は、描写が足りないんじゃなくて、むしろある意味では、わざと“純愛”らしさを避けて下司に、それこそ“手近なところで間に合わす”感覚をえげつなく描き出しているんじゃないでしょうか?…だって、あそこでファと(みっともなく)抱き合うことが出来るカミーユだからこそ、今回は“崩壊”しないで済んだんですよ?(そこにカミーユとファの“純愛”をあらかじめ描いておいたのでは、あのラストが“みっともなく”は見えないでしょう。)

 たぶんそれこそが狙いなので、「表現としては、ああでしかあり得なかったんだ」というのが、白状すればルロイさんの問題提起をきっかけにして、ようやく私の至ることの出来た理解です。(私もね、あの下品とさえ思える抱き付き合いは、いったい何なんだろうなぁ~と思っていたんですよ。)

 夢はなくしたくないんですよ。だから夢を完全に壊すことはしないように配慮もされてはいるけれど、でも夢を追い続けるだけでは(夢見る主体である)自分自身が崩壊してしまうかもしれないような状態に置かれたなら、みっともなくても手近な現実ときっちり向き合うことも、描いておく必要がある、のではなかろうか。
 Zガンダムというのは現実認知の物語である、という初期からのプロットがあったと思うんですが、その責任を最終的に取るということが、実はああなるんじゃないかと。
 それは今、一見みっともないだけに見えるかもしれないけど、これを観た人の深層心理の中に潜み、やがていつか、彼/彼女が夢と現実の相克に直面し、崩壊の危機に瀕したとき、「みっともない手近な現実と向き合うことだって、そんなに全否定されるべきものじゃないんだよ」と少しだけ、現実を生き抜くために背中を押してやる役割を果たせたなら。
 ……何よりも、(ひどいことを言えば、)何十年も前の旧作をいまさらやり直すという、そのこと自体も言ってみれば、監督にとっての“みっともない手近な現実”のひとつだったのですから。



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