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「ターンエーだって、時代を拓けるはずだーっ!」 

[2009/08/03] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 「富野由悠季起用論」ということで、サンライズはなぜ富野に新作を作らせないのかをテーマに、kaito2198さんが興味深い連載をブログ上で展開しておられます。これ、富野ファンとして、私が個人的にたいへん尊敬しているkaitoさんが、渾身の一撃という感じで満を持して投入してきた記事のような気がするんですが、どうも今のところ、あまり注目されていないような印象も。
 この連載への反応が思いのほか少ないなのは、実のところ富野ファンには正当至極な話がメインで、異論も反論もあまりないという感じなのかなーとも思うんですが、どんなもんでしょう?むしろ、富野ファンではない人の感想も伺ってみたいところではあります。

 そんなわけで、よく出来ていてツッコミどころのない記事ですが、私なりの感想みたいなものをメモしてみます。

サンライズが富野を起用しようとしない一番の原因は、ガンダムシリーズから「富野由悠季」の影響力を少しでも消したいから。これに尽きるでしょう。

 サンライズは30年も『ガンダム』で商売し続けてきてるんですよね。これって本当に凄いことでしょう。アニメ史を変えた作品としたら、例えば『宇宙戦艦ヤマト』とかもあって、今日に至るまでいろいろやってるわけなんだけど、現役ブランドとしてはガンダムの存在感には及ばない。もちろんヤマトは、この間にあれこれと問題もあったわけですが。特撮まで含めれば、ウルトラマンと仮面ライダーぐらいですか、ビジネス的な成功で比較できるとすれば。

石森(石ノ森)章太郎は『仮面ライダーBLACK RX』までは原作者として制作に関わっているが、『仮面ライダークウガ』以降は没後の作品であるため当然制作に関与してはいない。しかし、「仮面ライダー」というコンセプトに対する原作者としてその名をクレジットされる。

仮面ライダーシリーズ - Wikipedia

 晩年10年ほど間が開きましたが、石森章太郎の没後に『仮面ライダー』は再開されているんですよねー。そして富野監督もいつかは天に召される。考えたくないけれど、他人事ではない。
 「もしシリーズの顔である作家と作品の連帯感が強いままの状態で、その作家が突然失われたら、作品自身の価値も損ないかねません」というのは、サンライズ(&バンダイ)は当然考えていることなんでしょう。
 しかし、「脱・富野由悠季」。ファンとしてはこれは聴きたくない言葉ですねー。(涙)

結局今のところ、ガンダム作品の歴史を振り返れば、根本となるコンテンツ、新しい路線をガンダムシリーズに提供し続けているのは他でもなく、バンダイ・サンライズが一番排除したかった富野由悠季です。

ガンダム30thアニバーサリーコレクション ∀ガンダム I地球光 [2010年7月23日までの期間限定生産] [DVD] ガンダム30thアニバーサリーコレクション ∀ガンダム II月光蝶 [2010年7月23日までの期間限定生産] [DVD]

 宇宙世紀ものが、これだけのふくらみを持つことが出来たのは、ガンダムの続編である『Zガンダム』がああいうふうに作られたからですしね。
 『∀ガンダム』をサンライズ&バンダイがどう評価してるのかは分かりませんが、あの作品に出会わなかったら、少なくとも私はもうアニメに対する興味を失っていたかもしれません(笑)。
 ガンダム30周年に1stガンダムを見直すのもいいんですが、20周年記念作品たる∀ガンダムもぜひ観るべきだと私は思うのです。そういうわけで、30周年記念プライスに感謝しつつ、「地球光」と「月光蝶」を観なおしたところであります。やっぱりすげぇ作品です。ユニバァァァァス!!

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“神の手”考 ― 「皆殺しのトミノ」は手塚治虫の直系の子孫 

[2009/07/15] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 諸事多忙で、なかなか更新できないでいます。過去記事へコメントいただいても、なかなかレスできなかったりして、いつも申し訳なく思っているんですが、『聖戦士ダンバイン』最終話の感想にいただいたコメントが、ちょうど今、考えていたことを記事にするきっかけになりました。

確かに地上に上がってからはグタグタ感があった。
しかし最終回が良かったので何も言う事はない
印象的な最終回でした。

ダイゴさんのコメント

理由はわかりませんが…最後の方で空母の艦長が「あれは…人のオーラが放つ光だ」というあたりから、優しい曲が流れる中、もうショウもマーベルもニーも… バーンも、いないんだと思うと胸が詰まってしまうんですよ。やはりどうしても忘れられない作品の一つです…私にとっても多分、バイストンウェルは…あの頃のバイストンウェルこそが、心のふるさとかも知れません。

通りすがりのコモンさんのコメント

 ウェルメイドに形式が整っているからといって「どうしても忘れられない作品」になるとは限らないんですよね。「最終回が良かったので何も言う事はない」というのも、そういうことでしょう。
 しかし、そう何度も皆でよってたかって「ぐだぐだ」って言わなくても、もう分かっていますから、まあいいじゃないですか。(笑)

日本動画興亡史 小説手塚学校 1 ~テレビアニメ誕生~

 で、ちょっと違う話題なんですけど、今、皆川有伽の『小説手塚学校』を読んでおります。その中に手塚治虫の『ある街角の物語』を見て、宮崎駿は手塚ファンをやめたというエピソードが載っていました。
 これがリミテッドアニメだからというんではなくて、「終末の美」を描いた悲劇的なラストに「神の手」を感じたのが許せなかったというんですよ。

 初期のストーリーボードでは、どうも物語の結末にもう少し救いがあったらしいんですね。それを「戦中派のセンチメンタリズム」と指摘した人があって、これを聞いた手塚先生は興奮し、『じゃ、全部殺しましょう。(登場人物を)全員殺しましょう』ということになったそうです。「そうすればリアリズムになりますから」と。
 お分かりかと思いますが、この部分を読んだ瞬間に、私なんかは、やっぱり富野由悠季は手塚治虫の直系の子孫なのかもしれないな!と思ってしまっているというわけです。(笑)

 この部分で皆川さんが“神の手”という言葉の位相をずらしながら使っているんで、流し読んでいたら一瞬「おや?」とひっかかったのでありました。

 「全員殺しましょう」という結末のほうが手塚にとってはリアリズムであって、それを救わなくちゃとするのは「戦中派のセンチメンタリズム」でなければ、ディズニーアニメのような「児童文学的」性格なんだけど、それこそ(手塚にとっての)“神の手”だと。

 ところが宮崎駿は悲劇的な結末をみたときに「背筋が寒くなって非常に嫌な感じ」を覚えたというんですね。 「意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手塚治虫の“神の手”を感じました」と。

 何が作家の「神の手」なのかという感じ方が、ここで逆の位相を示している。

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富野アニメの「スピード感」について―「時間軸」の一貫と「神の視座」の排除 

[2009/05/17] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 富野由悠季は何故、主人公の努力による「現実の残酷さ」の克服を遠ざけるのか、というテーマは富野監督の作品の独自性について検討する上で、非常に面白いテーマだと思います。

 先日書いた、この記事は、富野由悠季論ということで、シャア専用ニュースさんでもご紹介いただいたんですが、ちょっと消化不良で難解だったかもしれません。少し不遜なことを言うと、私も富野監督と一緒で「結論ありき」で何かを書くというより、書くことを通じて何かを考えるというほうなので、「分かりやすく書く」ということは、残念ながらどうも苦手です。
 実を言えば、この数日、もう少し自分で消化したものを書き直してみようといじりまわしてみたものもあるんですが、どうも同じように結論が不明快なものにしかならないので、ちょっと放り出して、違うことを書いてみることにしました。

1.『イデオン 接触編』について、どう思うのでしょうか?

2.『新訳Z』三部作についての評価は? この作品の意味はどこにあると思うのですか?

3.『クロスボーンガンダム』は富野作品らしいと思ってるでしょうか? なぜでしょうか?

4.近年の富野作品の一話のスピード感についてどう思うのでしょうか?

 この間に、kaitoさんがこういう記事を書いておられて、たくさんのコメントも付いているのを拝見し、ちょっと嫉妬。w
 それは冗談ですが、欲張りすぎですよkaitoさん!その中のひとつのテーマでも、しっかり記事ひとつを書けるようなテーマを4つもまとめて出してくるなんて、あんまりです。www

 こんな鬼のようなお題の繰り出し方をやっておいて、「富野作品のスピード感」ということを俎上に上げておられますから、ちょっと抵抗ではないですが(笑)、このことについてだけ思ったことを少しメモしてみます。

 「富野作品のスピード感」というテーマで、まず真っ先に私の頭に思い浮かぶのは、(これはかなり初期からの傾向ですが)、「一連の事件」という緊迫感(物語の気分)への徹底したこだわりです。

 端的な例で言うと、『聖戦士ダンバイン』でバイストン・ウェルに飛ばされた主人公ショウ・ザマが、一晩のんびり寝てしまったのが失敗だった、というような発言。あれってどういう意味だと皆さんは思っていますか?

 久しぶりにテレビ版の『機動戦士ガンダム』を全話見直したときに感じたのも、サイド7でアムロがガンダムにはじめて乗り込んでから、ア・バオア・クーのラスト・シューティングまで、この間の時間経過は何日間なのかを数える気になれば数えられそうな(実際やってる人は少なくないわけですが)、各エピソードで起きている事件の連続性がかっきりと描かれているという特性です。
 従来のアニメはもっと漠然とした時間の流れだったと思うんですよ。SFアニメで言えば、宇宙から侵略者がやってくる第一話があって、その間に何度かパワーアップするイベントなんかはあるにしても、最終回で侵略者を撃退して終わるという流れで、この間には大きな物語の時間軸の中でどこに置かれてもあまり大勢には影響ないような、単発エピソードの繰り返しが基本。事件の始まりから最後までがどれだけの時間経過があったのか、よく分からんわけです。
 この点で巧みだったのは『宇宙戦艦ヤマト』で、各エピソードの最後に「人類滅亡の日まであと○○日、あと○○日しかないのだ!」というナレーションとテロップが入ることで、個々のエピソードが物語の大きな時間軸の中で位置するポジションを明快にしていたことが、効果的でした。
 そういう意味では『ザンボット3』などは、エスカレーションしていく事態の展開、神ファミリーに対する人々の態度の変化など、個々のエピソードを貫く物語の連続した気分というものが、すでに重要視されていた作品じゃなかったかと思います。

 そういう、時間軸の一貫というところを徹底してやっているのが富野作品で、『ガンダム』のシリーズでは、例えば1stから『逆襲のシャア』まで、そこの筋が一本通っているのはkaitoさんも指摘しているとおりです(→ TOMINOSUKI / 富野愛好病 『逆襲のシャア』と作品全体を支配する時間問題考(1))。

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「夢みたくとも夢みるものを持ち得ないということは空でありすぎる」 

[2009/05/11] | 御大 | トラックバック(1) | コメント(1) | TOP ▲

 物語の作者に近い存在の「自分語り」を初期の富野監督が書いたことがあります。『伝説巨神イデオン』の無限力“イデ”のことですけどね。
 小説版第3巻「発動篇」の最後のパートは、物語の謎解きでもありますが、同時に、神の視座にもなり得る物語作者の立場を自己表明したものというように読むことも出来るでしょう。

伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇

 それは「雑多」であり「混沌そのもの」である己への戸惑いから書き始められます。

この己のありようが雑多で、時も所もわきまえずにぐるぐると時空をかき乱して果てる存在のように思えた。それは不愉快なものであると感じる思惟が己の中心にあった。

 このように感じる己はあまりに不定形で、己のありようを示すべきものを有していない。
 けれど、不愉快と感じ得るのは「己があるからであろう」という推測もできる。それは不自然。

 このような「自己嫌悪と己の不在」が始原にあって、イデは「己のありよう」を最小のものとすることを思い立ちました。「その己の賢明さに己がたくわえた思惟は答えてくれよう」というのはイデの「願望」です。

 そうしてまどろみから目覚めたイデは「キラキラと輝く思惟」を見ますが、同時に「それもまたひどく雑多で煩雑」なことに気づきます。

しかし、初めての目覚めにくらべればより明確な思惟の数々を己の中にとりこむことができた。健やかであり得る力を己の中にたぐりこむことができる。

 ただ、その思惟たちは、イデが「最も願望したもの」をかねそなえてはくれない。

 そうしたものを認めることは己を汚すことではないか、とイデが「恐れ」を抱くことについては、私もたしかに「イデのエゴイズム」ではないのかと疑念を持ちます。
 しかし、その恐れには根拠があるのだと、イデは言うのです。「イデ自身が健やかな発生ではないからだ」というのは、「自己嫌悪と己の不在」がその始原にあるからなのでしょう。

己の願望という欲を示すから我が生まれ、我が生まれるからより雑多な欲が発生するのではないだろうか?

 ところで、ここでちょっと『イデオン』の話を離れて、ネットで拝見した富野由悠季論に言及します。

現実に「残酷」という側面は確かにある。その側面を誇張できる虚構を素晴らしいと思うことも多い。
しかし、残酷な展開や描写ができれば良い作品になるかというと、必ずしもそうではないだろう。いってみれば、声優の演技が巧いだけのアニメや、絵が奇麗なだけのマンガといったものと同じようなものだ。作品全体にとっては、「残酷」な描写や展開を用いて、どのような物語を作り上げていくかが重要ではないだろうか。

 この部分について賛成です。ただ富野由悠季作品は「残酷」や「矮小」を克服しようとせず冷笑的に映し続けるだけだという判断には同意できません。
 ですが、hokke-ookamiさんは「嫌い」だけで終わらずに、高橋良輔監督や出崎統監督との対照をちゃんと明示しておられるので、富野作品の特異点を外側から規定してくれているのは、私とは違う立場からの真摯な指摘として興味深い記事だと思いました。

人物の地に足がついた行動ではなく、唐突な言動による事態好転や、人が介在しない架空設定によって救いが与えられる。それは克服ではない。

 主人公たちの「地に足がついた行動」によって「現実の残酷さ」を「克服」することが大切ではないかという問いだと思います。物語の作者として、何故富野はそうしないのか、と。

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各論だけでは突破できない問題が出て来るから、原理原則を持って・・・ 

[2009/01/14] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(6) | TOP ▲

 上記で触れたテキストは基本的には「世代」論ですけど、富野由悠季御大将も決して「経済」の専門家ではない中で、その場での読者に響く言葉はどういうものであるかを考え、その専門誌上であっても臆することなく自分の考える経済論を述べておられるのはさすがだな、と思ったわけです。
 それを紹介している私はといえば、自分にとっては苦手な分野のことなので、どうもおぼつかないことを書いてしまったような気がしています。それでもう少し、別の富野語録もあわせてご一読くださいと提出しておいてみます。

そもそも、地球圏でのこの100年の人口増は異常なんです。科学技術、衣食住のインフラが構築されて、サービス業という産業にしかビジネス的に資本投下する場所がなくなってしまった。アニメやコミックやゲームという分野は、こんなに毎年毎年、商品を開発する必要は、実際にはないんですよ。だけど、マンパワーを消費しないと社会が回らない方向になっちゃっている。サービス業を拡大させるという方向でしか、今の経済体制を維持できない。こう言う話をすると、話が通じる人と通じない人がでます。「世の中、何かおかしくないか?」と言う思考回路を持っていないと、絶対に理解できないんです。

 『オトナファミ』2007WINTER(『週刊ファミ通』1月26号増刊)掲載の「富野由悠季 ガンダム世代を叱る!」という記事ですね。先の『東洋経済』の記事が40代以上向けなのに対し、ここでの対象世代は30代あたりになっているので言い方は違うわけですけど、言っている内容の軸、原理原則はぶれていません。
 “「世の中、何かおかしくないか?」と言う思考回路を持っていないと”というのが大事なところだと思います。資本主義っていうのはそういうシステムなんだからという、専門的な知識を持つことは悪いことではないのかもしれませんが、ディティールが正しくても根本的なところで「おかしくないか?」という目が失われてしまっては何にもならない。つまり「大局を把握しないと、各論だけでは突破できない問題が出て来るから、原理原則を持って、大局を見るセンスを身に付けなさい」っていうことですね。
 分かっちゃいるんですが、人間なかなかニュータイプにはなれない。だけど、なれないからといって、そこであきらめるのではなく、今できることをやらなきゃダメじゃないのか・・・というのが、より年長の世代に向けた『東洋経済』の内容だったと思います。

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