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60万ヒットありがとうございます & キングゲイナーの話を少しだけ 

[2009/03/08] | ブログ日記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 えーと。(汗

 このブログに設置してありますカウンターのアクセス数が、60万ヒットを超えました。このところの低調ぶりにもかかわらず、それでも日々カウンターは回っていっているのだなーと。ちょっとプレッシャーを感じたりもします。w

 つい先日、“2月の月間エントリー数が「9」というのは、このブログを書き始めて以来最小、初めての一桁”でした、ゴメンなさいという記事(3/1)で、そのへんのたまってるものを吐き出したばっかりなので、今日はあんまりそういう話で書けることもなかったり。

 ちょっとぼやぼやしていましたら、いつからかなぁ?はてなにユーザーの「プロフィール」みたいなページができてました。

自分ではブックマーカーのつもりではないのですよ。w

 放置状態のはてダの自己紹介のままではいかにもまずかったので、あわてて書き直しましたが、さて何を書こうかと考えて、・・・自嘲の言葉ぐらいしか出てきませんでした。orz

 しかし、こうやってみると、はてなのサービスいろいろ手を出してますねー。ちょっとやり過ぎかも。ブックマーカーじゃないやい、と強がってみましたが、囚人022のはてブのブクマ数は既に9,000以上。やがて10,000の大台に乗っちゃうじゃないですか、この勢いでは。w
 以前にはときどきメンテナンス(整理)していたんですけど、最近は増えすぎて手に負えなくなってるし。RSSリーダーのほうはLivedoorリーダーに乗り換えちゃったので、はてなのほうは放置になってますけど、そっちもちょっと購読数が増えすぎ。インプットが多いわりにアウトプットが増えるわけではないっていうのは、考える時間が足りていないんでしょうねぇ・・・。

 この間、子犬さんが自分ははてなが好きじゃないと言っておられましたが、耳が痛かったです。
 はてなって、はてブもそうだし、はてスタもそうだけど、アクセス数やコメントだけじゃなくて読者のリアクションが可視化されやすくて、それはもう素朴に「嬉しい」と感じてしまうんですよね。
 特にたくさんブクマされると、アクセス数も目に見えて増えるし、そうするとはてな界隈で注目されている話題に食いつく記事を書きたくなるんだと思います。普通にブログやってても、時事ネタのほうが受けがいいなんてのは、みんな何となく意識するでもなく意識しちゃうことだと思うんですけど、はてなの場合はそこがすごく顕著で。ちょっとたちが悪いのは、それが誰でも見れるネット空間の中の出来事なんだけど、はてなユーザーの間だけで閉じたコミュニケーション(くねくね)になっていっちゃうところがあるもんだから、外部から見ていると「なんのこっちゃ」になっていても全然気が付かない。

 ただ、こういうのは例えば、富野監督の熱烈なファンの間でばかりコミュニケーションしていると、はたから見れば同様に「なんのこっちゃ」だったりもするから、気をつけなければならないんですけど、考え込みすぎちゃうと何も言葉が出てこなくなっちゃうし。難しいですよね。

 はてブの話に戻すと、それを個人的な“ネタ帖”的なものと考えている限りでは、ブログ本体のほうではなくて、ブックマークのほうが人気があり、ブロガーというよりブックマーカーとして認知されているというのは、不本意なことだと思います。で、正直、ちょっとは不本意なんですが(笑)、でもまあ、何も人気ないよりこれはこれでいいかなーと。
 はてなブックマークは、かなり機能化された個人ニュースサイトのようなものだという考え方に馴染んできたというか、ネタの備忘録というだけじゃなく、自分が「これは」と思った記事を皆さんに紹介したいという気持ちも近ごろはあるような気がしています。

 今、イチオシの記事はこれですね。『キングゲイナー』という作品に感じた違和感について、考え直す重要な新知見が多数あると思いました。“富野信者”の外からの真面目な視点って(それが貴重なものになってしまっているのが残念ですが、)たいへんありがたいです。
 ただ、ブログ的には即時タイムリーに反応すべきなのかもしれないけど、もう一度見直してじっくり考えてみたいという、最近はそういう感じです。

 この記事の中で、グダちんさんが『∀ガンダム』について、富野監督がシナリオを絵コンテ段階で軌道修正しているということを書いておられますけど、『キングゲイナー』は『∀ガンダム』以上に、ストーリーラインで追っていくのと、アニメとして表現されたものの印象が乖離していたのではないかという、今思い出して考えてみると、そういう仮説のようなものが今の私にはあるんですが、それはもう一回見直してみないとハッキリしたことは言えません。
 それと、「事態は今なお進行中」と言っておられるとおりだと思うんで、実社会の話と重ねて考察するのは、非常に興味深いんですが、どうもなかなか難しい。歴史化された過去ではなくて、まさに現在進行形の問題だからなんでしょうかね。

 話があっち行ったりこっち行ったりしますが、はてなの「くねくね」したところについて、厭だなと思うことを書いたわけなんですけど、でも私はやっぱりはてなが提供してくれるコミュニケーションもありがたいなと思うほうです。
 先日の「更新が少なくてスミマセン」という記事に、全く思ってもみなかったことでしたが、いくつか“はてなスター”をもらったのは、ちょっと驚いて涙が出そうになっちゃいました。
 それにつけてもpsb1981さんの言われた「身の丈に合わない物語」というのは至言だなぁと。作品の解釈の話だけでなく、自分の身にひきつけて考えることができる問題提起というものは、読み応えがあるものです。『Z』のテレビ版を見てるから今の私はこんななのかもしれませんけど(笑)、あまり思いつめずにやっていきたいと思いますので、皆様よろしくお付き合いくださいませ。

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「これからはどちらかと言えば、政治と無縁のまま過ごせる方が特権階級」 

[2008/09/14] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

これまで政治というのは特権階級の仕事と思われていたけど、これからはどちらかと言えば、政治と無縁のまま過ごせる方が特権階級で、庶民は、たとえば自分の仕事と家族と趣味を守りたい、というささやかな望みを持つだけでも政治に関わらざるを得ない。

 上記のようにessa先生が書いておられて、何か“ビビビッ”と電気が来たんですけど(笑)、なんだったっけなーと、考えこむことしばし。

 essa先生が直接言及しておられる「MIAU」というのはぜんぜん知らなかったです。ググってみてなるほどそういうことかと。

ネットワークの自由には価値がある。
ネットワークの自由は古い制度に縛られている。
ネットワークの自由を主張し擁護する組織的主体がない。
だから作ることにした。
それがMIAUだ。

 私はWEB音痴ですけど、ネットワーク技術の発展が、世の中そのものの急激な変化を促しているというのは分かります。その発展を制限する方向に働く既存の社会制度に対し、「ネットワークの自由」を働きかけていく、という趣旨の運動に対して、それが「社会派」的な色を帯びることの是非についての対話というふうに理解させていただきました。(違っていたら、ご教示くださいませ。)

 それで、「社会派」的な色を帯び過ぎると支援が得にくくなる、現実的な調整が必要かも、という懸念に対し、

それは一般的な観点ではあるとは思うけど、一方で、ネットに関する技術やビジネスは本質的に政治的なものであるとも私には思える

というのが、essa先生の見解のようでした。

 以上は長い前置きで(笑)、「これからはどちらかと言えば、政治と無縁のまま過ごせる方が特権階級で、庶民は、たとえば自分の仕事と家族と趣味を守りたい、というささやかな望みを持つだけでも政治に関わらざるを得ない」という言葉を読んで私が“ビビビッ”と来たのは、よくよく考えてみたら、たまたま先日目にして、ちょうど『ニーチェ入門』とか読み直していたので強く印象に残っていたCrowClawさんのブクマコメントにあった言葉でした。

ニーチェの予言通り末世=現代とは奴隷が権力を握る時代のこと。寄生獣ではないが余暇=暇とは本来人間の良心の源泉であり、心に暇のない人間は必然的に悪魔化する

ニーチェ入門 (ちくま新書)

 『ゼロ年代の想像力』を読んでいたら、どうもニーチェ先生との違いが分からなくなってきたので読み直している『ニーチェ入門』(まあ、“入門”なところで私の地頭の良くないところは察していただくとして、)なのですが、読み合わせると個人的に大変面白いんですね。(素直じゃないとも言う。)

 それがこういうところでも一考の価値があるなぁと、思ったのでありました。

 “ネットの自由”を掲げる運動が、“ネットの奴隷”になってしまう可能性とでもいうんでしょうか。ネットの「先進ユーザ」という考え方は、よい意味のエリート論でもあるような気がします。

ネットに関わる人は、技術者もビジネスマンもユーザも「自分たちは核のように危ない領域に関わっている」という自覚が必要だと思う。

と、essa先生がおっしゃっているのは、エリートの義務について述べているのではないかと。
 また、あるいは、“「誰かが『社会派』をやってるけど、自分は『普通のネットユーザ』」みたいな錯覚”には注意すべきだという言い方のほうは、ポストモダンの今の世の中の中では、誰もがゲームのプレイヤーであり、そこから逃げることはできない(特定のエリート任せはあり得ない)という、『ゼロ年代の・・・』的な話にも繋がるのかもしれないな、などとも思ったり。

 少し背伸びして、私の理解力を超えたところの話を今日は書いてしまったのですけど、たまにはこういうのもいいでしょう?(笑)
 っていうか、基本的にはルサンチマンの塊のような私なんですけどねー(笑)。いろいろ私の認識違いとか、読み違いとか、ありましたらご教示いただけましたら幸いです。

IE vs. Firefox ブラウザ戦争は激しそうですね 

[2006/10/20] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 出人さんのところとtakkunさんのところで相次いでブラウザのアップデートのニュースを読んで、これはすごいなぁと思ったので、( ..)φメモメモ。

MSがIE7正式版を提供開始~David the smart ass~

∀ddict - Firefox 2

 それぞれの記事がリンクしている先も紹介しておきます。

マイクロソフト、「Internet Explorer 7」正式版を提供開始 - CNET Japan

「来週中にも、Firefox 2を正式リリースする」と米モジラCOO:ITpro

 IE7って、このブログのアクセス解析とかを見ていても、ほんの数パーセントすでにユーザーがいて、「へぇー、テストバージョンが出てるんだ」と思っていたところでした。
 マイクロソフトの側は、完全に後れを取っていたタブ機能の追加がポイントですか。(記事中に書いてある「ウェブ標準」って何です?W3CのHTML規格のことですか?IEしか読めないHTMLタグとかの問題?)
 RSSフィードへの対応、フィッシングサイト対策は双方共通みたいですね。RSSリーダー対応は嬉しいけど、はてなRSSとかでも使えるんだろうか?Bloglines限定とかだったら嫌だなぁ…。

 CNET Japanのほうの記事によれば、IEはFirefoxに奪われていたシェアを最近取り返す傾向にあるんだとか。個人的な印象で言えば、使ってみるとFirefoxのほうが全然いい感じなんですけどね。ネットで垣間見たIE7のテストバージョンの評判はあまり芳しくなくて、「7を入れてみて具合が悪かったから、元に戻そうとしたら、うまく行かなくてひどい目にあった」という記事を読んだことがあります。

MicrosoftではIE 7をFirefoxユーザーにも勧めているが、インストールによりデフォルトのブラウザがIEに変更されることはないと約束している。


 こういうこと、わざわざ言わなきゃいけないマイクロソフトって、やっぱり「悪の帝国」のイメージなんですかね?(笑)
 それでもMicrosoft Updateで強制アップデートされるんじゃないかと思ったら、

IE 6ユーザーには11月からIE 7を自動アップデート経由で提供する予定だが、それをインストールするかどうかは各自の判断だという。

 
…と書いてあって一安心。

 もう一方のFirefoxのほうは、

Firefoxは自動アップデート機能を搭載するが、メジャーバージョン・アップには適用されない。ユーザー自身がダウンロードして導入する必要がある。


…ということで、やっぱりちょっと控えめですね。(笑)

 アップデートの直後って、これまでの経験では絶対にセキュリティホールとかが続々と出てきて、何度も何度も後から細かい修正が入ってましたから、IE、Firefoxのどちらとも、あんまりせっかちに入れ替えないほうが、ストレスが少ないんじゃないかなと個人的には思っています。
 …私なんて、何しろごく最近まで、Windows98を使ってた人ですから。(笑)



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GoogleがYouTubeを買収だそうです 

[2006/10/11] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 まあニュースとしてはだいぶ出遅れちゃいましたが。私が最初に見たのはtakkunさんのところででした。

∀ddict - GoogleがYouTubeを買収

 文字だけ読んで「ふーん…。」で昨日は終わっちゃったんですけど、今日改めてリンク先を見てみて。

“YouTubeで見る”GoogleのYouTube買収:ITpro

 米Googleは米国時間10月9日,ビデオ共有サービス最大手の「YouTube」を買収すると発表した。時代の寵児による時代の寵児の買収はブログやSNS,そして他ならぬYouTubeで大きな話題を呼んでいる。
 まず,YouTubeには創業者のチャド・ハーリーCEO(最高経営責任者)とスティーブ・チェンCTO(最高技術責任者)自らがGoogleによる買収を語るビデオが,チェンCTOの手によって投稿されている。

 いや、技術責任者のチェンさんってやっぱり中国系なのかなぁ~と。
 まあアメリカでアジア系の人たちってがんばってるなぁということなんだと思いますけど、どんどんこうやって人種の壁とか超えていければすごいなぁとか、ぜんぜんお門違いのことをぼんやりと考えていたのでした。
 これからGoogleがインターネットを制覇していくんでしょうかね?パソコン(というか、OSか)をマイクロソフトが制覇したことには、なんとなくあんまりいい感情を持っていないんだけど、Googleがウェブを制覇するとどういうことが起こるんだろう?想像力が追いつかない感じです。
 Google的な考え方で、YouTubeの難しい問題をどうさばいていくのかな?私はなし崩しに既成事実を作ることで、とりあえず既存のシステムを壊してしまえという乱暴なやり方は、あまり好きではありません。それこそ時間は後ろには戻せないのだから、新時代にふさわしい新システムを考えることを投げてしまってはよくないのじゃないかと。(よく分からない人の素朴な感想。)
 「きっと他の誰かが考えるよ」って、世界中がそう考えちゃう時代になるのは嫌だなぁ。(よく分からないで言ってますけどね…。)



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流通コスト減はYouTubeの免罪符になるのか 

[2006/10/09] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

アンカテ(Uncategorizable Blog) - 映像表現の「作品」性と「商品」性を制作コスト低下を前提として調和させるには

 読み応えのある長文で、非常に興味深い内容でした。いろいろな内容が盛り込まれていて、ちょっと難しかったので、ご紹介を兼ねて自分用のメモを書いておきます。

 YouTubeにアニメをアップロードする行為の是非が問題。
 多くのアニメは「作品」であると同時に「商品」でもあるので、YouTubeで紹介されて注目を集めることはよしとしても、それではクリエイターの収入にはならないので、そこは迷惑だと。しかし大半のクリエイターは、その両方の意識を持つだろう。

 だから、映像作品や音楽や出版等、文化、表現に関わる商品は、普通の商品とは違う縛りがある。放送局には法的な参入規制があるし、再販制度があるし、各種の権利団体もある。そういう表現に関わる商品に関わる制度は、本来、「作品」としての側面を支えるようになっているべきだと思う。
 つまり、素朴な「これいいよ」「ほんとだ、すごいね」という表現を鑑賞し感激する人たちの気持ちが、うまく商品としての流通につながっているように、その特権を生かして制度を維持していくべきなのだ。

 至極正論。分かりやすいまとめになっています。そして、流通の環境が変化しつつある中で、この制度を現状に合わせて再考していくべきではないかというのが、この論の主題のようです。

 たとえば、映画であれば、制作サイドでも純粋にクリエイターと言えるのは、監督、脚本、重要な役の俳優くらいで、音声やカメラや編集等の技術スタッフは「商品」を製造する過程に関わっているプロフェッショナルだろう。そして、宣伝や配給を行なう組織や映画館の人は、ほとんど全面的に「商品」としての側面に関わっている。

 「作品」としてではなく、専ら「商品」としての側面のみに関わる人たちがいる、ということを言うために例示されているこの部分は、細かいことを言うと難しい気がしました。むしろ監督こそ作品の興行的成否を考える立場に置かれることが多そうな…。(笑)

 ここで論者(essaさん)は、「映像制作のコストが技術の進歩によって減っている」ために、専ら「商品」としての側面のみに関わる人たちの生活が脅かされつつあるという点をいったん指摘しています。
 これを“前提”と断ったうえでessaさんは、作る側も見る側も「作品」という意識が強い時のみは、クリエイターの「権利侵害」を「倫理的に可とする」としています。

作る側が「作品」「表現」として制作していて、見る側がリスペクトを持って見ている場合。その場合は、「作品性」と「商品性」の相克は、「作品性」を優先して解決すべきである。つまり、その作品の「商品性」にぶらさがっている人たちは、作る側見る側の素直な気持ちがそのままお金となって回るような工夫をすべきだと思う。

 この部分は、論としては正しいと思うんですけど、それは難しいなぁとも感じます。「作品性」と「商品性」は、制作に携わってるスタッフのかなりの人たちにとって、実際には不可分なもののように思えるもの。見てる側にしてもクリエイターをリスペクトする気持ちがあってさえも、少しでもローコストで作品を観たいという誘惑に抗することは容易じゃないし。

 作る側が「商品」として制作しているものを、作る側の意図に背いてアップロードするのは、「権利侵害」であって望ましくないと私は考える。「商品」は市場で流通させるべきで、市場は一定のルールがなければ運用できない。だから、市場の前提となるルールを破壊するような形で、「作品」をアップロードしたりタダで見たりするのは良くない。
 ただし、そうであれば、作る側は市場淘汰による技術革新に直面すべきである。表現、作品、文化、報道等を扱う者として、市場の中で特別扱いされていて、それを利用するような形で技術革新を遅らせていて、「これは商品です」と言うのは筋が通らないと思う。

 些事ですが、「市場淘汰による技術革新」は、「技術革新による市場淘汰」でしょうか。(一応、そう読んでおいて、)ここで少し私が混乱するのは、作品の“制作”に携わっている人たちの問題と、その“流通”に携わっている人たちの問題を、すっかり一緒に論じてしまうことに問題はないのかなぁという疑問です。アニメの制作現場がどんどんデジタル化されていくということと、アニメ作品がWEBで配信されたりYouTubeにアップロードされてしまうこととは、直接的に関連があると言えるんだろうか。
 むしろ、ここでの話は作品の“流通”に携わっている人の話に限定してしまったほうが、イコールそのまま、専ら作品の「商品」としての側面のみに関わる人たちの問題として、分かりやすかったような気もします。(もちろん流通に携わっている人たちの中にだって、「作品性」への志を持って関わっている人たちだっているんだとは思いますけどね。)
 デジタル化による“制作コスト減”と、“流通コスト減”の話は、突き詰めて見ていけば関連は皆無ではないかもしれないけど、ここでは切り離して考えたほうが、話の整理は付きやすいように私は思いました。これを混ぜこぜに考えてしまっては、話の筋が見えにくいのではないでしょうか。
 制作現場のデジタル化に関して、大型汎用コンピュータの例を示して考察している内容は、大変興味深いものです。ただ、「映像制作は、監督が自分でカメラを回し自分で編集し自分でアップロードするものが大半になるだろう」と述べておられる部分に関しては、既に『ほしのこえ』などの例もあることだし、やがてそうしたものが増えてくるだろうとは思いますけど、それが本当に主流になっていくのかどうかは私には疑問です。(むしろ制作コスト減の観点のほうから、それに近づいていく可能性は決して否定し切れませんけど。)
 一方、“流通コスト”の削減のほうに関しては、その成果は本来、観る側・作る側の双方が享受すべきものだと思われます。(低廉な料金であっても)より多くの人に観られることで、制作現場の人たちがむしろより多くの報酬を得る結果になってこそ、誰もが納得がいくのではないかと。

もちろん、法律違反は無い方がいいが、業界関係者を含む「合意」を待っていたら、違法行為はどんどん蔓延し、映像作品に対して「商品」として関わる人の声が大きくなって、「作品」として映像制作をすることは、従来の規模の金額をかける人も、現在の技術を駆使して少ないコストで行なう人も、両方とも難しい立場に追いこまれるだろう。

 結論としては、essaさんのおっしゃっていることに私も大筋で同意なのですが、「合意」できない業界関係者は専ら“流通”方面の人たちであり、流通手段の技術改革で「業界全体が痩せてしまう」かに見えてしまうのは、制作現場がいかに流通方面の人たちに押さえられているかという別の問題なのではないかという気がしてならないのです。
 そこではじめて、「自分でアップロード」という、制作現場と流通を直結することの、新たな可能性が見えてくるのですけど、私が整理しておきたいのは、「最大多数の最大幸福」のための「シフトチェンジ」は、クリエイターにとっても物心両面で幸福であるべきだという当たり前のことに過ぎません。

フリーダウンロードを前提としてユーザとクリエイターの間で少ない金額でいいから確実にお金を回す仕組みが確立されるべきである。そういう仕組みに合わせた法整備をして、そこから違法行為を完全に取締ればいいと思う。

 これにはもちろん賛成です。ただし、ユーザーの負担は今より少なく、かつ、より多くの人に受け入れられたものならば、できればクリエイターの手にする対価も今以上に多くなるシステムを考えるべきだと思うのは、そんなにおかしなことなのでしょうか。
 そういう意味で、制作現場の人たちが流通に携わる人たちの支配下から脱せない状況下では、確かに実際問題として「合意」形成は困難であるかに思えますが、理念的には流通経路を最小限にすることについて、作り手と受け手の間で合意を形成することは「不可能」ではないと私は思います。
 YouTubeがその可能性を示した役割は評価してもよいと思いますが、そうかといって、それで現在蔓延している権利の侵害を「倫理的に可」とする免罪符にするわけにはいかないのではないかと私は思うのですが、いかがなものでしょうか。



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