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小説『機動戦士Vガンダム』 読み終わっちゃいました 

[2008/11/05] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 第一巻の感想を書いたときは、一巻ずつ感想を書くつもりだったんですが、あれよあれよと全部読み終えてしまいました。うん。大変面白かったです。なんて言えばいいんだろう?TVアニメ版が嘘のように、ちゃんと物語になっていました。ストーリーを追っていくもう一方で、だから、こういうものをアニメの製作と同時進行で書いていながら、なんでアニメはああいうふうになっちゃったんだろうかと、もうそればっかりが頭の中ではぐるんぐるんと渦巻いちゃいましたけど。

 出だしで調子が狂ったのと、あとは・・・アニメにあって小説にはない大きなものといえば、・・・“バイク戦艦”ですか?バンダイの介入で出さざるを得なくなったアレが、けっこう致命傷だったんですかねぇ。

 アニメと比べて、舞台まわし役として、クロノクル・アシャーの役割が大きかったというか、その視点が重要でした。・・・けど、やっぱり彼の最期はあっけなくて。あと、カテジナさんの狂いっぷりがアニメの毒電波な感じではなくて。強化人間にされてしまった存在として、普通にかわいそうだったのは意外でした。

 エンジェル・ハイロゥが、『逆襲のシャア』のラストみたいに地球を取り巻くリングにでもなるのかとハラハラ(?)しながら読んでいましたら、あにはからんや、一部とはいえ『発動篇』に吹っ飛んでいったのにもびっくり。

 しかしそれにしてもだれることなくラストアクションまで一気に物語が走っていて、テンポは良かったです。小説としては、だからよく出来ていた、まとまっていたというべきなんでしょうか。アニメを見ていて「?」だったことの多くがきちんと説明がついていて、なんだそうだったのか、そういう意図だったのね、と納得したところも数知れず。
 そう思いながらもう一度アニメを見返したら違って見えてくるのかもしれないですけど・・・。でも、あのフィルムだけを見て、こういうドラマとして理解することは、・・・私には無理だった気がします。正直な話。

 それと同時に、あのアニメ版の、特に終盤の、もうむんむんとするほどの狂気が。あれほどのものは、この小説の行間からは伝わってこなかったような気がするという、まったく矛盾しきった思いも一方ではあって。いくらなんでも贅沢なことを言ってるような気も自分でしますけど。
 逆に、まったくアニメを見たことがなくて、この小説だけを読んでいたら、どういう感想を持っていたんだろうかと考え込んでみたりもしますが。してみると、あのアニメがひどく自分の中に強烈な印象として残っていたことを、改めて認識してみたりもします。

 思いがけず、ラストが一気に筆をおいたという感じでまとまってしまって。いや、なんか、それでかえって。激しく混乱しています。何ていうか、それが正直な感想ですね。

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小説 『機動戦士Vガンダム』 (1) ウッソ・エヴィン 

[2008/10/10] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 なかなか富野監督の新作の噂さえ聞こえてきませんし、富野ファンとしては禁断症状が出そうな中で、先日来、今まではあまり読んでいなかった富野小説を読んでみたくなってきています。そういうわけで、先日読了した『オーラバトラー戦記』に続き、Vガンダムの小説版を読みはじめてみました。

機動戦士Vガンダム〈1〉ウッソ・エヴィン (角川文庫)

 ビクトリーガンダムのカラーリングから取ったと思われる表紙デザインからは、私の年になるとちょっと手に取りにくい(・・・苦笑)少年向けテイストを感じます。下のほうにピンク色(!)で欧文タイトルがあるんですが、下段に「BASIC STORY」とあるんですよ。原作っちゅうわけでもあるまいにと奥付を見れば、「平成五年四月一日 初版発行」とある。
 “機動戦士Vガンダム - Wikipedia”で確認すると、アニメの放送期間は「1993年(平成5年)4月2日から1994年(平成6年)3月25日まで」になってるんですが、これってアニメの放送と並行して刊行されてたんですかね?

 そうだとすれば、表紙の少年向けテイストも、制作当初の意図を反映してるものなのか。それにしては、物語冒頭の事件の流れは、アニメより整理されていたような印象がありましたが? よく分かりません。

 文体そのものも、手こずった『オーラバトラー戦記』に比べれば、はるかに読みやすかったです。やっぱりバイストンウェルものは、世界観を描くほうにかなり気持ちが行っていて、物語がすらすらとは流れていかないところがあったのかな。『Vガンダム』のほうではそのへん、読者もご承知の宇宙世紀ものですよという感じで、さらっという感じ。

 しかし、宇宙時代の抗争は、歴史のくりかえしではなく、人類が、次の人類に成長するための陣痛であると信じたい。

 このへんは、最初のガンダム以来のニュータイプ論のようですが、この「序」では「子供たち」というのが前面に出てきてるのかな、と。

 その子供たちを生みだすためには、どうしようもなく矛盾するものをもったみずからを矯正しなければならないのだ。

 「みずからを矯正」というのは、ちょっとシャア総帥の思想くさい。(笑)

 だから、少年と少女の物語のなかに、一つの希望をみようとするのは、大人たちの無残さをみることではあっても、未来の絶望をみることではない。

 ・・・ということで、少年ウッソと少女シャクティの物語に「一つの希望をみよう」として、『Vガンダム』は書き始められていっているわけですが。“ウッソ=嘘”というのは有名ですけど、シャクティって子もやっぱり変な子ですよね。
 しばしば繰り返される、「・・・がやれてしまうのがウッソなのである」、「それでも・・・なのはシャクティだった」っていうような書き方。アニメだと漠とした違和感ぐらいなんですが、言語化されると、作者が本当にキャラクターを突っ放しちゃってる感じがひしひしと。

 ウッソとシャクティっていうキャラクターは、富野監督がある意味目標にしたらしい『未来少年コナン』のコナンとラナに重ねてみてよいと思います。改めて考えてみれば、あの子たちもすごく変な子たちだったんですけど、宮崎駿がその世界に入り込んで夢中でやってるから、もう絶対の絶対にあり得ない(笑)子どもたちなのに、そんなに違和感はなかった気がします。でも富野由悠季は、ウッソやシャクティなんて、「いねぇよ、こんな子ども!」と少し苦々しく思いながらキャラクターを描き出しちゃってるんだろうなぁ、と。

 ウッソ・エヴィン13歳、でしたか?そういえば『ザンボット3』の神勝平が12歳でしたね。こんな年端も行かぬ少年が巨大ロボットを操縦できる口実として、ザンボットでは睡眠学習みたいな設定がありました。ウッソもやはり、過激な親によって特殊教育をさんざん詰め込まれている少年なのでした。
 彼をザンスカール帝国との闘いに巻き込んでいくリガ・ミリディアの老人たちの胡散臭さまで、直感というよりも理詰めで看破してしまう少年というのは、私の個人的な感想としてはどう考えても可愛げがなくて、これで物語を弾ませようというのもどうも難しい気が。
 ただ、こういう物語なのであれば、弾まないのが当然というか、弾ませちゃならないようなところもあるのかなー、とか。いろんなことが頭のなかでぐるぐると。

 一般論として個人的にはアニメのほうが小説よりも好きな私ですが、Vガンダムはどうでしょうかね?アニメのほうは、途中はもうどうなるかと思いましたけど、尻上がりによくなっていきました。私は読むのが遅いのですけど、小説版はどうなることか・・・。

個人的富野小説史 発動篇<下> 

[2008/07/24] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 前々回前回の続きです。コメント多数頂戴いたしまして、フォローいただいているなぁと感謝いたしております。
 何ていうか、こういう自虐的(笑)なエントリーを書いていますと、自分が“富野スキー”と言っていても、富野由悠季御大将の世界丸ごと愛しているのではなくて、“富野アニメスキー”なのだなぁとつくづく。でも、皆さんのコメントを読ませていただいていると、何となく読んでみたくなってきますから不思議なものですね。

 ともあれ、ここの後半から。

 『機動戦士Vガンダム』もアマゾンで書影がないのですねー。小説版、未読の作品です。御大自ら「意趣返し」であると明言しているんですか、そうですか・・・。“「生き生きとした」ルサンチマン全開の活躍”とは、しかし面白そうですねー。いちおう私の基本スタンスはのりのりさんにいただいたコメントに近いですし、アニメの仇を小説で、というのはまあ苦手なのですが(笑)。
 富野ファンの順当な流れとしては、この小説を補助線にして『Vガン』というアニメを見るわけですね。なるほど。私などは混乱した感想しかないわけなんですが、これまでこの作品について書いてきたことなどを振り返ってみると、見た順番もあって、『∀ガンダム』を裏返しのガイドラインにして、Vガンダムのことは考える習性が付いているような気がします。(そういう視座をいただいたのはpsb1981さんのおかげですけど。)・・・それを踏まえて、改めて小説版準拠の見方を味わいなおしてみるのもいいかもしれませんね。

 次の『ガーゼィの翼』も未読。善良な市民さんの解説を読んでも内容はかなり「?」ですね。

私見だが富野御大将はアニメとは違い、小説を「プライベートな仕事」と捉えすぎている所があり、それが例えば「イデオン発動編」や「逆襲のシャア」をエゴ剥き出しの作品からかろうじて「映画」にしていたエンタテイメント精神の箍を外してしまうのではないかと思うのだ。
バンダイから、サンライズから「こんなんじゃ売れませんよ」と適度に言われることが必要な人なのかもしれない(笑)

 前段は賛成です。後半もほぼ正しいと思うのですが、『もののけ姫』以後、『ぽにょ』までの宮崎アニメの人気を見ていると、どんなプライベートフィルムでも、宣伝しだいじゃ売れるのかな、とか思ったりも(笑)。あ、絵がすごければ、という条件付か・・・。
 そういえば子犬さんからご教示のコメントをいただいてました。謹んで訂正いたします。

シーマ・シーマはかなりビョーキっぽいですが、 いわゆる鬱病期に書かれた「ビョーキ3部作」ではありません。 「アベニールをさがして」「ガーゼィの翼」「王の心」がそれですね。 どれもそういう意味でスバラシー作品です。

 というわけで、『アベニールをさがして』、『王の心』、どちらも未読です。(今回、アマゾンに全然書影がないな・・・。)『王の心』のほうは、子犬さんのブログに何度か書かれていたのを拝見して、是非読んでみたいと思っているのですが、出会いがありません。

密会―アムロとララァ (角川スニーカー文庫)

 次、『密会』!やっと読んだことのある小説が出てきました。(ほんと、ごめんなさい。)
 で、これはすごく良かったですよ。自分で感想を書いてなかったのがすごく意外な感じがするぐらいです。たしかに『機動戦士ガンダム』のストーリーを知らなかったら、少し内容がつかめないかもしれませんけど。シャアとララァの出会いが描かれていて、あとは劇場版III『めぐりあい宇宙』にほぼ沿った内容です。
 富野小説独特の毒気を濃くする部分はほとんど感じられないんですが、善良な市民さんも高評価を出していますね(笑)。アニメは好きだけどノベライズはどうもという向きにも、この作品はオススメできると私は思ってます。

ブレンパワード〈3〉記憶への旅立ち (ハルキ文庫)

 ということで、ようやく(笑)『ブレンパワード』なんですが、子犬さんkaitoさんも否定的だし、善良な市民さんも“番外”扱いで、「本当に御大将の筆か怪しい」としていますが、私は読んで気持ちよかったので、違っていてもいいです。(斧谷稔名義には、何かわけはあるのでしょう。)
 いつもの富野調ではなかったとは思いましたが、1、2巻とは文体を似せようとしながら、結果的にはちょっと違っちゃったという感じもしました。任せると言いながら後半に行くに従って関与の度合いが大きくなってしまって、というような雰囲気を想像しますけどどうなんでしょうかねー。アニメに素直な感じは『密会』に連なる部分もあると思うので、いずれにしても方向性としてはそういう感じになってきているんじゃないかと私は勝手に思っています。

 あんまり読んでないのを白状しておいて、印象だけの話をしてしまいますが、善良な市民さんが“富野由悠季は「映像作家」であり、結局のところ「小説家」としては「たかがノベライズ」の域は出ていない”と総括しておられるのは私も何となく同感です。『密会』のいいところは、そういう自分の立ち位置を自覚しながら、さらっと小編を書いたところにあるんじゃないかと。それと、初期の作品で『イデオン』は私は好きなんですけど、それも部外者がブンガクの世界に首を突っ込むことを自覚しながら一生懸命書いている初々しさがよいと思うのですよ。
 この間の作品には、“作家性”という強迫観念に追いまくられて、必要以上に作家然として書こうとしているようなギクシャクを感じたりしています。基本的に、宮崎さんみたいに自分で“絵”が描けるわけじゃないので、従来は“それなら俺は物語の部分で”というような思いがあったりしたんじゃないかと感じたりもしちゃうのですが、近頃の富野監督はそういう境地の一段上に立ったんじゃないかと(やや希望的に)思っているので、今日、富野小説を読む場合には、そのあたりを加味しながら、これはこれとして楽しめる範囲で読めばいいんではないかと、そんなふうに考えています。
 ちょっと前までは、むしろ意図して遠ざけているようなところもあったんですが、そういうふうに自分なりに整理も出来てきた気がするので、今なら読めるかな、と、そういう感じです。いろいろフォローやアドバイスをいただきまして、ありがとうございます。参考にさせていただきます。

エヴァよりV!(個人的雑感!) 

[2007/07/27] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 psb1981さんに、この避難所で『Vガンダム』のことを“あーでもない、こーでもない”とうだうだ書き連ねてきたことが、そこでのコメントのやり取りも含めて、「カテジナ日記」連載のひとつのきっかけになったと思いがけないコメントをいただいて、改めてVガン関連で書いてきたことを読み返してみました。

囚人022の避難所 tag:Vガンダム

 ふぅふぅと弱音を言いながら、皆さんのコメントになんとか支えられて、よろよろとよろけるように見てきたと言うか…。(笑)
 ただまぁ、私の書いていることは、ほとんど悲鳴(笑)のようなものが多いんですけど、いろんな方からいただいたさまざまな言葉は、今改めて読み返してみると、感慨深いものがありますね。

 それにしても、見ながら、また、見終わった直後、本当にじたばたじたばたと、なんとか作品を消化しようと、我ながらひどい雑感のメモをむちゃくちゃに書き散らしていたものだと。

 それでも、こんなに真摯なコメントを多数いただいたり、「カテジナ日記」ご執筆のキッカケの一つにもなったと言っていただければ、たとえ“うだうだ”なものであっても、何か書いておいてみるものですね。本当に皆さん、ありがとうございます。

 考えてみると、その前にはエヴァンゲリオンを見ていたんですけど、こっちは見ているときには言葉がなかなか出てこなかったんですよねぇ。(むしろ見終わってだいぶしてから、Vガンとの関連で思ったことを書いたりしていることのほうが多いかも。)

 なんだかんだ文句も言いながら、結局やっぱり私は富野スキーといいますか。(笑)
 今度作られる新劇場版で、少し軸をずらした新しい視座を得ることができたら、そんな私のエヴァ観でも、もう少しふくらみを得ることができますでしょうかねぇ。
 普遍性のある考察のようなことは何もできない私ですが、これからもなるべく虚飾を入れないようにして、戸惑ったこと、よく分からなかったこと、拙いなりに書き散らしていきたいと思います。またビシバシと突っ込みを入れていただけますよう、どうかよろしくお願い申し上げます。

「カテジナ日記」読後感想のようなもの 

[2007/07/26] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 富野アニメのファンなら、皆が目ン玉ひんむいて読んでいた(と私は信じている)psb1981さんの偉業「カテジナ日記」がひとまず完結をみられた模様なので、長期にわたり、眼からウロコの落ちるようなすばらしい考察を読ませていただいたことに、お礼を申し上げたいと思います。

 私は器量の狭い人間なので、基本的には“自分の目で見て感じたことが全て”と思ってしまうほうなのですが、この連載には脱帽しました。はじめは“こういう見方もあったのか”と感じていたものが、だんだん自分もそういう見方を無条件で前提にし始めていたのには、ほとんど驚きに近いものがありました。今となっては、『Vガンダム』という作品は、「カテジナ日記」の読後印象抜きで考えることはできないのではないかとさえ思えます。

もしかすると、このVガン世界で唯一正気であり続けようとしたのはカテジナだったのかもしれない。だが、マトモが成立しない世の中で、マトモを貫き通そうとした彼女はいつの間にか狂気の側に居た。

 カテジナ(そしてクロノクル)という潔癖症の“優等生の挫折”の物語として見はじめると、Vガンって急激に目を離せないドラマに思えてきます。私の中にもカテジナさんがいるし、私の周りにもまさにカテジナさん状態で「いつも世界から一人浮いてる気分で、寂しい想いを抱えてる子」がいる気が。

 そうして感情移入して考え始めると、じゃあカテジナさんはどう生きればよかったんだろうって、胸が苦しくなってきます。シャクティは卑怯ですよね。何だかんだ言って、生まれついてのお姫様だもの!

そして、

 このあたりを何度も咀嚼しなおして考えてみたりしています。(以前にも少し考え始めてみてはいたのですが。)
 でもキエルもね!ディアナと瓜二つ?そんな“持って生まれた”もので!?
 …と思わず言いたくなってしまうのが、残酷に言えば、教養主義の「心貧しく何かを求め続ける」気持ち、「身の程知らずの上昇志向の落ち着きのなさ」なんでしょうかね~。(ふぅ~…)

 シャクティとカテジナ以上に、ソシエとキエルなんてのは、姉妹であり、もともと紙一重の差であるわけで。
 そりゃいろんなことが一緒くたになって
「わーーーーーーーーーっ!!」
…って、叫びたくなりますよね。

 ただシャクティよりキエルのほうが、すんなり来るかな、と思えるのは、キエルは“自分”を消してディアナを演じることで、うまく行っているってことはありますかね。

 あと、ターンエーですごく素直に成長したな、と思えるのは、最後にはグエン卿を見限って自立してみせたリリ・ボルジャーノであったり、同じく最後にはジョゼフを尻に引いてみせたフラン・ドールであったりするのも面白いところかもしれませんね。これらの男どもはそろって野心家であるところとか。あと、フランの声はカテジナさん=クインシィ・イッサ=渡辺久美子さんだったりとか。
 で、それらの女性の中で、とりわけソシエだけが哀しいのは何であるのかとか。

 私はVガンは、それでもやっぱり“傑作”とはいい難い作品だったと思いますけど、psb1981さんのおかげで、重要な問題作ではあったと認識を新たにすることができました。今さらながら、これがあったからこそ、『∀ガンダム』は作られたんですね。

 これからも「カテジナ日記」は、折に触れて読み返させてもらいたいと思います。

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