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『2001年宇宙の旅』 

[2008/09/01] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 たまたまGyaO(何と「昭和TV」枠)で放映されていたので、見ました。こういう名作もたまに入りますねー、気をつけてないと。古い作品だし、何度か見たことあるしなー、とか思っていたのですが、やっぱり凄い作品は凄いですね。1968年、恐るべし。(笑)

2001年宇宙の旅 特別版

 映像の力で十分。余計な説明は不要。・・・そういうセリフはこういう映画のために取っておかないといけませんね。
 もちろん、2001年はもう過去になってしまったので、1960年代に想像されていた2001年というふうに細かいところを粗探ししてしまうと、いくつかは目をつぶらなきゃ気まずいところはあります。しかし、それよりもCGとかがない時代に、どうしてこんなに美しい映像表現が可能だったんだろうかと、思わず感嘆してしまうほうが圧倒的。

 PCモニターで見てしまうと、画面の上下に黒い帯が入ってしまうんですけど、普段はあまり気にならないこんなものがもの凄く邪魔な気がしました。がさつな私には珍しい、こんなこと。(笑)
 内容が難解だっていう話もあるんですけど、ここまで美しいとね。・・・どういうことが「美しい」ということなのか分かんないんだけど、このぐらいまで来ると、こういうことが映画で「美しい」ということなのかと逆に納得してしまうような。(これを基準にしてしまうと、今のCGとかって安手に見えちゃいますね。恐ろしいことですけど。)

 難解・・・。世の中には無意味に難解って作品もありますけど、私はこういう考えさせられる作品はいいと思うんですよ。いろんな解釈があり得るからいいんだと思うんで、あまり続編(『2010年』)は好きではありません。極端な話、小説版も「原作」とは言えないですしね。
 GyaOのレビューなんかを見ていると、けっこう「駄作」とか言っちゃってる人もいて、理解できないものを拒否したい心情というのは分からないでもないつもりですけど、そういう人っていうのは映画だけでなく世界そのものに対しても、自分に分かる部分だけで捉えようとするのでしょうね。(分からない部分のほうがはるかに広くて、だから生きることには意味があるんでしょうに。)

 こういう作品は、特に見るたびに印象が違ったりするんですが、今回は妙に“HAL9000”に感情移入して見てしまいました。人間にとって道具でしかない“彼”の人格(?)のほうに思い入れをしながら出来事を見つめると、それはそれでなかなか切なかったです。

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フィクション=「平気でうそをつく」=邪悪なもの?? 

[2008/06/20] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(2) | TOP ▲

 kaitoさんに刺激されて、久しぶりに富野御大のことに触れた記事を書いてみたのですが、いつもながら読み応えのあるコメントをいくつもいただいて。
 忙しいのは一段落したのですが、気が抜けたのか、あまり体調が冴えず、また、いろいろ惑いながら書いていますので、ひどく文意の酌みにくいものを読んでいただいて、ありがとうございます。

そして「平気でうそをつく人たち」(編注)という本を読んで、人間というのはすべてを、個だけではなく組織自体が忘却するという心理的な側面をもっているというのがわかった。これまでのガンダムを全部事実だというふうに肯定してもいい。肯定したことも含めてすでにウソかもしれない。肯定するということ自体、それをする人にとって過去は、本当にあったのか、なかったのかということも全部疑問符をつけていいもんなんだってわかった瞬間、「∀」のというより、ロランやディアナ、キエルの物語をつくり出せたんです。

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

自分の非を絶対に認めず、自己正当化のためにうそをついて周囲を傷つける“邪悪な人”の心理とは? 個人から集団まで、人間の悪の本質に迫るスリリングな書!

(amazon「出版社/著者からの内容紹介」)

 元記事の元記事(笑)から、もう一度読み直してみました。私は(↑)この本は読んでないのでそこは軽く読み飛ばしちゃってたんですが、のりのりさんが、「あの本(「平気で嘘をつく人たち」)を読んでああいう認識にいたるの!???」と反応しておられたので、どんな本なのか(by amazonですけど)見てみました。
 未読なのにいい加減な解釈をしちゃいますが、“世の中には、そういう邪悪な人も存在しますよ”って趣旨の本を読んで、富野監督は“そういう性質というのは人間全般に多かれ少なかれ偏在している”という認識に飛躍しているんですかね?

 ここは『∀ガンダム』についての話なので、「うそ」一般についての話と言うより、フィクションについての話として私は読んだのです。ターンエーには白々しいフィクションがけっこうありますよね。まあ、そもそもロボットアニメなんて・・・というのは脇に置いても。ロラン・セアック(男)がローラ・ローラ(女)とか、ディアナ・ソレルとキエル・ハイムの入れ替わりだって、もっと早く気づくだろ(笑)、というようなものです。
 平気でうそをついているんですね。

たとえばSF作品であっても、SFがわからない人が見てもおもしろかったよねって言わせるのがビジュアル媒体だと、僕は基本的に思ってる。で、僕の場合というか、僕らの世代はそれをずっと映画的なものというふうに考えていたわけです。映画一般なんです。SFであろうがポルノだろうが、文芸映画だろうがいっさい関係ない。みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」というのが映画であるハズなんです。ところが、それを一生懸命区別をつけようとしている人が、たとえばアニメというものを、とても幅の狭い媒体におとしこめているということです。

 それが(↑)このへんに繋がってる。(富野監督にとって、「映画」的=みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」だっていうのも私には“そうなんだー”って感じでしたけど。)
 端的に、“うそ=邪悪”という枠組みではない。

「初代ガンダム」って、「正義と悪は相対的なものだ」という見方を始めて明確に打ち出したTVアニメだと思うんですけど、「∀」になると、そもそも正義とか悪とかという概念自体がない

・・・と大森氏が指摘してるのも、そのへんなのかなーっと。「白富野」は人が死なないから正義だったり善だったりするんじゃなくて、「平気で嘘をつく」ような、したたかなタフネスさ(=しなやかさ)が話のキモだってことですね。
 その、“あえてフィクション”ということの意味を、少し拡大して考えてみたいと思ったのが前回の記事です。
 「例え“目の前の現実”であってさえも、一人の人から見えていることというのは、常に“一面の真実”でしかないという。・・・その危うさを自覚しながら、それでも敢えて何かを語らずにはいられないんだという、そういう覚悟」のことをいきなり書いてしまったんですが、バルタザールさんが指摘されたように、人間の認識力の限界に絶望するべきではないと私も思います。
 それと同様、“メディアを通して知る現実”も、無意味なのではなくて、その危うさを覚悟するという条件のもとで価値はあるし、そのときに手がかりとなるものは“目の前の現実”しかないでしょうね。多分私が言いたかったのは、“身体性”のないフィクションだけで、ものを考えるのは危険じゃないかということです。

  • フィクションであるというその時点で、それは現実に対する一つのメタファー(暗喩)を構成しているとすれば、さらにその中に配置されたメタファーを必要以上に分かりにくくするのは、内向きに閉じた自己満足でしかない
  • “分かる人には分かる”というメタファーの置きかたのほうがそれはカッコいいんですが、それは技術論でしかない

 それから、(↑)メタファーについてこのように書いたのは、kaitoさんの記事にあったオタキングのコメント(「コクピットは元々子宮のメタファーなのに、富野さんのはモロ子宮じゃん」)に直接的に反応したものです。
 「分かる人にしか分からない」というのは、カッコわるいというバルタザールさんの意見に共感するんですが、のりのりさんの冷静な指摘で、少し思い直しました。
 ここでの話の流れからすればむしろ、どうやったって分かる人にしか分からないという認識を、諦観ではなく覚悟としつつ、それでもなお「みんなが見てわかるような映画をつくればいいじゃないか」とオープン・エンターティンメントとしての機能にこだわり続ける富野監督にもっと学ぶべきなのかな、と。

本来、ミーハーの大衆というところに落としていって、わーい!と楽しんでもらえるものをつくりきれないというあたりでは、メジャー狙いをしようと思って一生懸命背伸びをしている人間としては、なんだかんだ言いながら映画屋になり切れない自分を自覚する

 だから富野監督、大好きです!(結局そこかよ。) (*^。^*)

ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など 余話 

[2008/01/26] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など その1

ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など その2

 感想じゃないものを書こうと思うと毎度グダグダに長くなってしまうんですが、ちょっと書ききれなかった話を書き足しておきます。

 富野監督は「リアルロボット」という言い方ではなくて、「ハードロボットもの」という言い方を『ガンダム』にはしていたらしいですね。(サンライズの作品の癖に、「ハード」という言い方はタツノコプロっぽい気がします。)

 ロボットが出てくるアニメには、ロボットの玩具が売れるという“大人の事情”があるということも一応了解しています。ただ、ごく個人的な趣味嗜好の話ですが、「そこはまあ、そういうことだから・・・」で終わってしまうのも寂しいんですね。ロボットはただの物語(人間ドラマ)の背景で、どっちかといえば本当はないほうがいいぐらいなんだ、あれは戦闘機とかそんなようなものとまったく同じ、ただの道具(本当にたまたま何かの間違いで人型をしているだけ)だよ、というようなロボットアニメは、何だか完全に(制作者も、ファンである私自身も)“大人の事情”に屈してしまったような気がしてしまって、どっか釈然としないわけなんです。

 なので、私は“ロボット”それ自体にテーマ性がある作品のほうが好きです。SFの歴史を覗いてみると、科学の象徴であるロボットを用いる物語は、文明批評的な性格を持ってきたのかな、と。
 ・・・と言っても、どんなにこじつけても今では非科学的なものでしかない人型の巨大ロボットに、現実的な科学文明を象徴させることは難しいので、どうしても未知の超科学のようなものを仮定せざるを得ないんですけどね。(本来はあり得ないはずのものがなぜか存在する、いわゆる「オーパーツ」としての巨大ロボット。)
 そうした意味で、『伝説巨神イデオン』は人間の意志を無限の力の根源とする究極の科学を象徴するロボット(もう少し正確には、それが内在する“イデ”)の物語であり、その超文明を仮定した中で人間は“業”を超越できるのかどうかという内容を扱っていて、テーマの面では古典SFのロボットものの伝統に連なるんじゃないかと思うのです。(実に正しく、「彼はロボットを通じて何かを思考しようとしたのかもしれない」と思います。)

「創作の中に相対化できない貴重な物の存在を、クライマックスで描写しようとする富野氏の思考は、SF人間の思考とは根本的に異なります.」(SF者達の挽歌

 富野監督には「SFマインド」なるものがない、という話なんですけど。「 様々な可能性を否定して絶対的な結末を導き出すという物語はSFでは成立しないということ」が、そのSFマインドなんでしょうか。よく分かんない。科学文明で説明できないことはSFでは書いちゃならないってことなら、そういうSFなんかでなくて全然かまわないと私は思います。でも私は「フランケンシュタイン・コンプレックス」っぽく、人間と、その文明の在り方を考察しようとするSFは大好きだなー。

ロボットアニメとは単にロボットが出てくる作品という訳ではなく、

  • ロボットが存在する必然性がある世界が描かれている
  • ロボットを他のものに置き換えたり、省略しては物語が成立しない

といった作品なのだろうと思います。

 しののめさんが昔お書きになった記事(むいむい星人の寝言: ドラえもんはロボットアニメか?)をコメントで教えていただきましたが、納得です。私は『ドラえもん』はとてもニガテなアニメで、ロボットアニメを考える中でも“アレはただのファンタジーだから”と念頭から外してしまっていたのですが、

  • 科学技術の産物であるロボットのドラえもんは、未来の象徴
  • ロボットは「人間と異なるもの」であるが故に、異形の存在が日常空間に入ってくる非日常を描く物語構造が成立
  • 他のものに置き換えては「ドラえもん」にならず、ドラえもんが来なければ話が始まらず、また「未来からやってきた」ことでロボットである必然性は描かれていることから、「ドラえもん」はロボットアニメと言える

・・・あっさり納得。たしかにロボットアニメかも。
 してみると、私がニガテなのは、『ドラえもん』の科学文明を疑わないところ、価値観の問題なのかもしれません。私はかねがね“みんなどうしてあんなに『ドラえもん』が好きなんだろう”と思ってきたのですが、それは「そもそもなぜ私たちがこうもロボットが好きなのか」と根っこのところで繋がっている疑問なのかもしれないですね。

 “夢の21世紀”も来てみればこんなありさまだっていうのに、高度成長期を懐かしむような風潮のほうが強いような国だからなぁ。・・・って言いながら、私もロボットアニメが好きなんだな、これが。やっぱり不思議なものですね。

少年の日の思い込みの根深さに首を捻る 

[2006/12/13] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 12月の忙しさってのは、ほんと理不尽だと思えるレベルだと時々感じられます。(これも個人的な体験かなぁ。世の中の多くの人に共感してもらえる点があるのかなぁ。)
 さてさて。考えて、書かなきゃいけないこともたくさんたまってます。見たい作品もたくさんあります。(何とですね、またビデオ屋で『ガサラキ』はレンタル中だったのですよ。何たる悲惨!)
 毎週水曜は『反逆のルルーシュ』を見て、つたない感想を書く習慣でしたが、今日はちょっと後回し。えーと。昨日の記事の反省点から書くべきでしょうか。

 私の少年時代(というのは1970年代になりますが)、公害問題なんかも噴出し始めていたはずなんですが高度成長の夢はまだまだ人々の間で信じられていて、21世紀はすばらしい科学文明の時代になっているはずだと思われていました。'60~'70年代のSF映画や漫画、アニメなどに描かれている21世紀像を見てみてくださいよ。すごい夢と希望の世界ですから!私なんか、そんなのを見せられて育っちゃったんですよ。で、…実際に訪れてみた21世紀の、何たる夢も希望もないことか!(笑)


 nishinomaruさんにトラバでご指摘をいただきました。確かに当時の映画や漫画、アニメには、すでに終末観を示した作品は少なからずありました。なので私の思い込みだったんだろうなぁと。
 これを書いたときに私の思っていたSF作品と言えば、たとえば『謎の円盤UFO』(放映は1970年、設定された未来は1980年)だったり、『スペース1999』(1974年、設定は表題どおり1999年)だったり、『2001年宇宙の旅』(1968年)だったりしました。いずれも有名な秀作なんですが、2006年の今となっては、もう過ぎちゃった年代設定なんですよね。月面に有人基地なんかできやしないし、木星まで有人宇宙船が到達するなんて考えられんじゃないか、どうなってるんだという素朴な考えで書いちゃったんだと思います。
 と言うより、もっと影響を受けたのは、そういう立派な作品のようなものではなくて、家にあった図鑑とかだったり、あとそうそう、大阪万博(1970年、テーマは「人類の進歩と調和」)のイメージとかだったかもしれません。
 当時少年だった私が「少年少女向けの未来に肯定的な楽観的なものを見て大人向けの未来に懐疑的な悲観的なものを見ていなかったのだろう」というご指摘は正しいと思います。ただし万博とかで人類の輝かしい未来を信じたのは、子どもだけではなかったかもしれないとも思います。そこが難しい。このご指摘のほうは、もう一つの「失われた未来」(ロストフューチャー)という記事で触れられたものです。オタキングの書いた毎日新聞連載コラム 『失われた未来 LOST FUTURE 2000』も批判されてました。
 正直に白状しますが、批判を先に読んでから、オタキングの文章を読んだのですけど、たしかにアメリカの例が多いのは分かりにくかったですけど、けっこう面白く読んでしまいました。'60年代、'70年代の愚かな少年(というより頭でっかちな少年かなぁ)の思い込みというのは、けっこう根深いものがあるんじゃないかと自己批判。
 私が学ばねばならないのは、いつの世にも覚醒した人たちと、愚かな大衆はいるのだから、むやみに愚衆レベルだけで時代を語ったような気になるなと言う教訓なのでしょうか。なかなか難しいです。(稚拙な話ですみません。)


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分かり易い(分かり過ぎる)指標? 

[2006/05/08] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 Ζガンダムでのニュータイプの描かれ方について、「なまじスピリチュアルな描写があると、万能感が強すぎて共感しにくい」というところから、お話の続きを。
 SF的にどうかということを含め、この種の「論争」については、

それぞれの人が意識、無意識に抱えている 「こうであるはずだ」という前提、常識に縛られ過ぎてしまっている場合があります (というか、普通それを前提にしますが) 他人は違う背景を抱えていて それを前提に意見を言っているということを理解できない人は 耳を貸さない、硬直的な発言になりがちです。 おそらくは「正しい」ものを求めすぎる人が多いと思います。


という警句をいただきました。人それぞれの背景の違いは考えるように努めているつもりですが、自分が「耳を貸さない」状態になっていないかと自省もしつつ、話を続けてみたいと思います。

 「SF」という言い方を避けて、もう少し広く「絵空事」という言葉で考えてみましょうか。

われわれはそういう能力無しであらゆる思想を育んできたし、社会を築いてきました。それらの凡てが下らないものばかりでは、なかった筈なんですよ。「私達は、血を吐きつつくり返しくり返しその朝を越えてとぶ鳥」だと思うんですよ。


 もちろんそのとおりなので、大変良いことをおっしゃるなあと。
 ロボットものでもサイキックものでもいいんですが、「絵空事」の世界で現実にはあり得ない能力をバーチャル体験して爽快感を味わうだけのものなんだと割り切るんだったら、まあそれはそれだけのことで、老若男女を問わず、自分の趣味に合った楽しみ方をすれば良いのでしょうね。
 そこからもう一歩話を進めて、たとえば人間というものをどう考えるのかといったところに思いが至っているところで、その作品を大人になって振り返ってみるに足るものかどうかということになる。
 富野さんのアニメにはそういうものがあるんだ、という感覚を共有できているから、ここでこうやっていい年こいたオッサン同士で語り合えるのでありましょう。
 少し分かったような気がするのは、メカ(科学)の進歩というものはあり得る未来だけど、人間そのものの進歩(進化)というのはあり得ない未来じゃないのかという抵抗感があるということです。たしかにそうだ。
 「絵空事」の中で人間というものを扱うことに、もし意味があるとすれば、ある仮定された状況の中での人という存在を考えてみることで、その性質がより明快に浮かび出てくるということなのでしょうね。広くドキュメンタリーに対してフィクションというものはそういうもので、その仮定が空想科学に類すものをSFと呼んだりするのかな。
 そしてガンダムという作品は、科学が進歩した社会という仮定の下でも相変わらず人間というものは、戦争もやめられないし、政治はくだらないし、愚にもつかない感情に支配されて傷つけあい憎み合うことをやめられない生き物だと。
 それはまあ、それでいいんです。というか、それだけでも賞賛に値するという見方、あるいはその部分でしか成功していないという見方も正しいと思います。
 なのに、「どうしてニュータイプなんだろうか」ってことですよね。
 以下は私の勝手な想像なんですけど、ガンダムが世間から支持された中で、しかし多くの(大人を含めた)ファンは「科学が進歩したって人間なんて相変わらずなんだ」ということよりも、バーチャルな空想科学の世界の中でドンパチやる爽快感の方だけに入っていってしまったように思える。そうなると、科学の進歩を仮定したことが、まったく逆方向の意味を持ってしまう。それでも売れれば良いんだ、そんなものは「売るための方便」なんだ、と割り切れればいいんですけど、愚直にして割り切れなかったとした場合に、科学の進歩にもう一つ意味を与えなければならない、と考えたんじゃなかったのか。
 「もし科学の進歩が、人間の進化を促したなら、」というもう一つの仮定を付け加えた理由はそんなことじゃないかと私は思うのです。(明快な根拠は何もありませんけどね。)
 「戦争なんてしなくてすむ人類」というのは幻想ですが、あからさまに分かりやすい指標でもあります。そこまでハッキリ言葉にしないといけないのかっていうぐらいですが、ガンダムが、後続するダグラムやレイズナーと一線を画していたのは、少なくとも私にとってはそういう口幅ったいことを愚直なほど正面きって考える為のメディアとして、アニメというものには他にはない可能性があるな、ということだったように思うのです。(・・・それも「幻想」だったんだろうと、今にして思いますが。)

何が出来て何が出来ないのか。
共感能力が優れたもの達が、それでなお支配欲に支配され続けるのか。
個々の人格の根幹に莫大な影響を及ぼし得る変化を設定している筈なのに、それの使い手を、どうして凡俗の一番悪い部分にとらわれたものとして描くのか。


 まさにそういうことなんじゃないでしょうかね。そしてそれは、そうした課題を物語の受け手に考える契機として与えようというだけではなく、作り手自身も懸命に考えながらかろうじて提示されていたものなのではなかったのかと。
 ニュータイプの何が不快かといって、可能性という幻想を見せるだけ見せておいて、結論は「それでもやっぱり人は・・・」って、結局はまたそこかよ!ということなのだと私は思うのですが。でも物語が心の旅だったとして、出発した地点に最後には戻ってくるしかなかったにしても、旅したことそのものが意味がなかったことではない、とも思うのです。(口幅ったく、青臭い書生論! 笑)

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