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ポール・グリモー『王と鳥』 

[2007/12/22] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 見れるものは何でも見てやろう、みたいな感じで。宮崎駿や高畑勲のアニメに大きな影響を与えていると言われているポール・グリモーの『王と鳥』を借りてきました。

王と鳥 スタンダード版王と鳥 スタンダード版
(2007/04/04)
ジャン・マルタン、パスカル・マゾッティ 他

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 『王と鳥』として公開されたのは1980年らしいですが、宮崎さんや高畑さんが見て影響を受けたというのは、1952年にフランス初の長編アニメーション映画として制作された『やぶにらみの暴君』ということのようです。「王と鳥 - Wikipedia」を読むと、日本での公開は1953年。グリモー監督には不本意な形で公開されたらしく、改作される前のバージョンは、今では目にすることはできないようですね。手塚治虫は『王と鳥』より『やぶにらみの暴君』のほうを高く評価していたらしいですが、どこがどう違ったんでしょうかね。

 見て面白いかというと、エンターテイメント的には、面白いとは言えないかもしれません。アニメーション的にすごいかというと、それもよく分かりません。1952年の作品として見たら、画期的だったんだと思いますけど。じゃあガッカリだったかというと、実はそうでもなくて。
 宮崎アニメへの影響というのは、ぱっと見ただけでも、かなりすぐ分かるものです。『カリオストロの城』のお城は、この作品の王様のお城そのまんまだし。そびえたつ塔の地下に虐げられた人々が住む街がある、というあたりは『未来少年コナン』のインダストリアを思い出させます。
 ただ、この作品の魅力はというと、テイストで言ったら高畑アニメに近いような、何とも言いようがない苦味だと思いました。

 戦後間もないフランスで作られた作品ですから、暴君の姿にはヒットラーが投影されているのかもしれません。でも、この王様のキャラクターはなかなか味わい深くて、ただ悪逆の象徴として描かれているのではなかったようにも思えます。彼は、改作前の題名にも「やぶにらみ」とあるように、どうも実際に目つきがおかしいということにコンプレックスがあるようなのですが、奇妙なぐらいに城じゅうを自分の肖像画や彫像で埋め尽くしています。まあ、それだけではなくて、人間は容赦なく処分してしまいますけれど、芸術を愛好する心性はあるようで、実際、彼が絵画の中に描かれた“羊飼いの少女”に恋をするというのが、この作品で物語がはじまるきっかけになります。少女は、しかし隣の絵に描かれていた“煙突掃除の少年”に恋をしていて、王の思いは横恋慕。
 エンターテイメント的に考えれば、少年と少女がヒーローとヒロインの物語を構想しそうなものなのですが、この作品ではどうも、あくまで主人公は暴君の王様と、もうひとつは少年少女を助ける変な鳥さんなのですね。

 どちらかというと少年少女は物語に振り回されているばかりで、話を駆動していく役回りは、実に奇妙な鳥さんが担っている、このへんは『長靴をはいた猫』のペロなんかにも近いのかもしれませんね。ただ、変だ奇妙だとさっきから、この主人公格の鳥さん(実際、作品の冒頭に出てきてストーリーテラーの役割を果たしたのも、彼)のことを書いているんですけど、どうも彼は少し意地悪なところがあって、感情移入がしにくかったりするんです。
 絶対的な権力者である王様に対して、彼には自由があるということなのかもしれませんけど。ほんとうに、エンターテイメントとしてはおかしなことなんですが、私なんかは、むしろ悪者のはずの王様のほうに、しばしば感情移入をしてしまいがちでした。そのへんの苦いところが、なんとも高畑アニメっぽいのかな、などと感じられたり。

 話のテンポも独特な感じです。少年を助けるために王との結婚を受け入れてしまう少女とか、結婚式に乱入していく少年とか。これをエンターテイメント的に組み立てなおすと、そのまま『カリオストロの城』になりますね。クライマックスには、なんと巨大ロボットも登場してきます。そして物語の終わりには、“えー、そこまでやるんだ・・・”ということになるんですが。いやはや!
 これをカタルシスといってもいいのですかねぇ。思わず考え込んでしまいました。とても戯画化された表現だといってもいいんでしょうが、これはあまりにも深いなぁ。

 映像特典で、高畑監督と、爆笑問題の大田さんの対談が収録されていたんですけど、これがまたアケスケで、けっこう笑えました。(笑)
 今年、レンタルDVDで見るアニメはこれが最後になると思います。このDVDはスタジオジブリが日本での普及のために出しているそうなんですけど、たしかにこういう作品は手が出にくいだけに、こんな形で見せてもらえてありがたかったです。

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アニメの中での「表現主義」って・・・ 

[2007/12/07] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 「“日本のビジュアル大衆文化の頂点は、アニメじゃなくマンガ?”という話」の続きです。(相変わらずムダに長いですが、お覚悟を。)
 “アニメ様”こと小黒祐一郎さんがどこかのパーティで話した内容を、東浩紀さんが見事に逆の意味に聞き違えたらしい、という話で、「それにしても、強烈な東浩紀批判ですよね」・・・とNishinomaruさんに指摘されましたが、アニメ様が「多分、どこかで勘違いされている(増田さんの勘違いではなく)のだろう」というのは、確かにまあ、注意して読めばそれと分かるように書かれていますね。アニメ様のスタンスはよく承知していませんが、読んだ感じでは婉曲に書いたんであって、揶揄する意図ではないのでは。

 それはともかく(笑)、「表現主義」というほうです。

東映動画系、虫プロ系というのはよく言われる話なんですが、「表現主義」「物語主義」という言い方を聞いたのははじめてで、もし最初からそういう対比なのだったら、語感から言って「勘違い」の発生も無理はないという印象。

・・・と私も書いたぐらいで、増田さんが特に疑問を挟まなかったのと同様に、私もその部分だけを読んだら、“東映動画系は表現主義派”、“虫プロ系は物語主義派”という言い方も(個々の人名を見なければ)大雑把にはあり得るのかな、と思ってしまったと思います。それをスパッと、

りんたろうさんを始めとする虫プロの人達が「表現主義」だと言ったはず

・・・と訂正したアニメ様の見解を詳しくお聞きしたい、とだけ前回は書きましたが、自分でももう少し考えてみたくなったので続きを書いてみます。

 (たぶん東さんの)そもそもの勘違いで曲者なのは、「表現主義」という用語と併置して、「物語主義」という言葉を用いているところ。そういう読ませ方をさせられると、“物語”というほうに文芸的な内容の重視、“表現”というほうに映像的な内容の重視というニュアンスを勝手に誤読して納得してしまいます。
 “もし最初からそういう対比なのだったら、・・・”と私が書いたのは、そういう理由で、「物語主義」というのは「勘違い」した人の付けた尾ひれなんではないかとしたのも、そういう意味です。

美術において「表現主義」として語られるのは主に19世紀後半以降の動向だが、そもそも「表現」を意図しているはずの美術の特定の部分を、敢えて「表現主義」と二重に括るようになったのは、ある傾向の作家・作品に窺われる激しい感情の吐露・表出を、科学や実証性を重んじた「印象主義」と対置するためと考えてよい。

Art Words - Art scape「現代美術用語集」

表現主義(ひょうげんしゅぎ)または表現派(ひょうげんは)とは、様々な芸術分野(絵画、文学、映像、建築など)において、一般に、感情を作品中に反映させ、現実をねじまげて表現する傾向のことを指す。また、この語は感情の中でも特に不安や葛藤などをあらわしたものを指すことが多い(表現主義の作品で、陽気で快活なものはあまり見れず、陰鬱なものが多い)。

表現主義 - Wikipedia

 美術用語としては、「表現主義」(Expressionism)は「印象主義」(Impressionism)の正反対の語として存在するようですが、他のジャンルで援用して使う場合はなかなか難しいですね。Wikipediaの「表現主義 - 映像」の項を読むと、映画では象徴的、超現実主義的な作風を、そう呼んでいるようです。(今のアニメで言ったら、むしろ「エヴァっぽい」みたいな言い方をされる傾向が、それっぽいですか?)

 「激しい感情の吐露・表出」と言う特徴は、なるほど富野アニメによく当てはまります。“りんたろうさん”と言われると、私はついつい東映動画で製作された『銀河鉄道999』とかを頭に浮かべてしまうので、正しく虫プロ的な“りんたろう作品”って何だろう?不勉強で、そのへんがよく分かりません。(『火の鳥・鳳凰編』とかでしょうか。今度見てみようかなぁ。)

登場人物のデザインと性格だけではなく、空間と時間も徹底的にデフォルメされた。投手の手を離れた白球が、捕手のミットにたどりつく時間は、一球に込められた情念によって際限もなく延長され、ひき延ばされた瞬間が迫力のある動きとして、アニメーターにより追求された。せまいリングが広大な戦場として描かれるのも、その主人公にとって戦場に等しいのだ、というわけで正当化された。おかしなもので、語り口がどこかで講談と同じになっていった。間垣平九郎が愛宕山の石段を馬で馳せ登るくだりの表現と、これらのアニメーションの語り口のなんと似ていることか

 「感情を作品中に反映させ、現実をねじまげて表現する傾向」と言うのは、前の記事でも紹介したリンク先(「アニメビジネスがわかる: アニメビジネスがわかる本32」)で引用されている宮崎駿さんの“テレビアニメを中心とする過剰表現”への批評(というか批判?)が分かりやすいですね。
 たぶん、これこそがアニメ様が「表現主義」という言い方で示したものだと思うのですが、なるほど、そう言われると確かに虫プロ(テレビアニメ)的な特徴のような気がしてしまいます。

 ただ「激しい感情の吐露・表出」という側面を抜きにして、このアニメ的な誇張表現という部分だけで見ていってしまうと、例えば私の世代では、ついつい『ガンダム』と『未来少年コナン』(あるいは『カリオストロの城』でも可)の対比などで考えてしまいがちなので。それは宮崎監督の得意技でもあるのではないかと。(あのコナンやルパンの超人的な身体能力ですよ! 笑)
 Wikipediaに「マンガ物理学」などという笑える一章(つい読みふけってしまいます)がありましたが、『コナン』を初めて見たときなど、“これこそがアニメの魅力かなー”などと私は単純に思い、改めて感心したものでした。
 富野アニメに頻出する“ハイパー化”などは、まさに「激しい感情の吐露・表出」でもあり、アニメ的な誇張表現の典型とも言えそうですが、近年、世間一般ではギャグ的用法を除くと一概に誇張表現は否定的に捉えられる傾向があるような気がするので、私はそこは残念です。

 で、こうした誇張表現を排除していった極北の作品というと、私は例えば高畑勲監督の『母をたずねて三千里』などを思い浮かべます。お猿のアメデオ君が一人で画面に動きを与えていた以外では、あの禁欲性はすごいですよね。あれこそは「物語主義」というよりも、むしろもう少し普通っぽい用語で「自然主義」的な(現実を理想化せず、社会・人間・自然をみにくいものもふくめて、ありのままにえがこうとした)傾向として、表現主義に対置すべきものかなぁと。
 美術の分野で、“そもそも「表現」を意図しているはずの美術の特定の部分を、敢えて「表現主義」と二重に括るのは・・・”と言われていたように、表現主義的な傾向というのは、よほど意識的に抑えない限りはむしろ、ほとんどのアニメ作品の中に見られるものなのではないかと私は思います。
 視点がどこで、何と対置した場合に「表現主義的である」というように、言い方あるいは聞き方を注意深くしないと、言葉というのは一人歩きをしてしまって180度違う意味に取り違えられる場合さえある、ということなのではないでしょうか。

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アルプスの少女ハイジ 37,40,42,44話 

[2007/08/22] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 バンダイチャンネルキッズで放映中なので、「絵コンテ・富野喜幸」の回だけをずっと見ていっていますが、相変わらず“これぞトミノ”のツボなんて分からないまんま。ですが、まあ楽しく見ていってますから良しとしましょう。(笑)

 先日、h-nishinomaruさんには『あらいぐまラスカル』も富野コンテが多いですよとコメントで教えていただきました。あれも少し苦味があって、富野さんの持ち味が活きそうなストーリーですよね。(・・・でいいのかな? 笑)
 そういえば、この間グダちんさん(ヌ・リョウグ・ダさんと言ったほうがいいのかなぁ?)は、『ラ・セーヌの星』の富野味(?)を鋭く分析しておられました。さすがです。「小芝居が増えた」に思わず苦笑。

 実際それが最重要なのかはよく分からないんですが、少なくとも私の好きな富野さんらしい要素というのは、“演劇的なもの”(芝居?)であるような気がしてきています。“映像美としてのアニメーション的なもの”だけでは、私のツボには、うまくはまらないことが多いようです。(押井さんの「GHOST IN THE SHELL」を見て、そう思いました。私、アートアニメーションはアートアニメーションで、好きなんですけどね。)

アルプスの少女ハイジ(10) アルプスの少女ハイジ(11)

 今回見たのは、次の4話でした。

第37話 山羊の赤ちゃん
第40話 アルムへ行きたい
第42話 クララとの再会
第44話 小さな計画

 アルムに帰ってきたハイジ。でもフランクフルトで字が読めるようになって帰ってきていました。(ビビるペーターが可笑しい。)そしてペーターの盲目のおばあさんのために本を読んであげる。そんなハイジを見ていたアルムおんじは、冬の間、ハイジを学校へやろうと決心。でも、おんじには蓄えがあるわけでもなく・・・。という、あたりから。村人たちと上手にコミュニケーションできないおんじ。この、ほのかな苦味が何とも!

 ハイジとの文通で、アルムの山へ行きハイジに会いたい思いの募るクララは、ちょっとしたハンストまで企てて、ゼーゼマンさんの心を動かします。娘に甘いゼーゼマンさんが、友人の医者を半ば強引にアルムへ下見に行かせる小芝居が最高(笑)。

 ついにハイジのいるスイスに来たクララ。ハイジたちが一生懸命準備したデルフリ村の“冬の家”ですけど、同行してきたロッテンマイヤーさんは、そのオンボロぶりに唖然。おんじとの会話もしばしば緊張感があって。ハラハラします!

 山の暮らしを楽しんでいるクララですが、ロッテンマイヤーさんは“目を白黒”しっぱなし。いつも憎らしい彼女ですが。正直ね、見ていたら少しロッテンマイヤーさんが気の毒になりました。(笑)

 車椅子のお嬢様に、山で暮らしていただくのは、みんなに少なからず負担をもたらしています。みんなハイジの大事な友だちだからってことで、そこは表に出さないんですけど。お嬢様はそういう周囲の苦労に気付かぬ面もあるから、何となく先行き不安ですね。
 やっぱりね、個人的には、この細やかに人情の機微を捉えた芝居がいいんだなぁと(そこ、高畑テイストでもあるんですけど)。宮崎さんの「場面設計」で絵が美しいのも確かですが。間違いなく言えるのは、これは子どもだましじゃない名作だってことですね。さすが「高畑勲+宮崎駿+富野喜幸」のドリームチームは伊達じゃないなぁ・・・。

アルプスの少女ハイジ 18,21,23話 

[2007/07/17] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 バンダイチャンネルキッズで放映中(毎週木曜4話更新)なのですが、なかなか全部は見られないので、「絵コンテ・富野喜幸」な回だけを見ていっております。まあ、富野さんらしい表現なんて、私の目では全然見分けがつかないので、飛び飛びに見ていっていることの、ただの口実なんですけどね。

アルプスの少女ハイジ(5) アルプスの少女ハイジ(6)

 というわけで、今回見たのは、次の3話。

第18話 「離ればなれに」
第21話 「自由に飛びたい」
第23話 「大騒動」

 ハイジがデーテおばさんに「今日中に帰れるから」と騙されて、フランクフルトへ連れて行かれちゃうのが第18話。こんなところで暮らしていても学校へも行かせてやれないし、ハイジは幸せになれない。裁判したら、村中の嫌われ者のあなたに勝てるわけない、と言われてワナワナしちゃう“アルムのおんじ”。・・・この苦さは、さすが高畑アニメですわ。おんじには、他人に明かされたくない嫌な過去もあるらしく。

 第21話では、クララの遊び相手としてゼーゼマン家に連れてこられたハイジが、のっけからその環境に馴染めないようすが。クララが大事に飼っている小鳥を、ハイジは「お前は山へお帰り」と逃がしちゃうのでありました。でも、せっかく逃がしてやった鳥が、籠の中へ自分から戻ってきてしまうという。
 この回、文字も読めないのにクララのお勉強につき合わされているハイジがうたた寝をしてしまい、アルムの夢を見て「モミの木がなってる!」と家を飛び出すエピソードが早くも登場。

 アルムの山を一目見たさに、ゼーゼマン家を抜け出して昇った教会の塔で、ハイジが猫の子を貰って帰り、動物嫌いのロッテンマイヤーさんがパニックになっちゃうのが第23話。

 この程度に飛び飛びで見ても、何とか話の筋は追えるのは、昔見たのを覚えてるというより、話の進み具合がゆったりしているってことなんだと思います。(昔のアニメは、ビデオとかDVDとかないし、見逃したらそれっきり再放送まで見ることはできませんでしたからねぇ。)
 そして、まあ、ハイジが何かするたびに、気持ちは分かるんだけど、「そんなことしたら・・・」って、ハラハラドキドキしながら見守っていると、「ああ、やっぱり」というような展開パターンですね。そこに引き付けられるんですけど、このフランクフルト篇は、見ているとやっぱりつらくなるなぁ。

 ハイジがついていくわけがない、と思っていたアルムおんじが、(ハイジが騙されて連れて行かれたとも知らず)がっくりと落ち込んでいる描写がなかなか泣けます。

アルプスの少女ハイジ 13~14話+α 

[2007/07/14] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 バンダイチャンネルキッズで放映中(毎週木曜更新、「2週ごと4話いれかえ」)の、なつかしの名作です。いちおう「絵コンテ:富野喜幸」の回だけでも見のがさないようにしようと、前回一覧にして抜き出しておきました。で、この間の木曜まで放映中だった第13話「再び牧場へ」、第14話「悲しいしらせ」が、絵コンテ富野担当回なので、見のがすまじと眠い目をこすりこすりして見ておりました。

アルプスの少女ハイジ(4) アルプスの少女ハイジ(4)
(1999/08/25)
バンダイビジュアル
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 第13話は冬に閉ざされていたアルプスの山に春が訪れて・・・というエピソード。前から思ってましたけど、名作劇場系の作品って、物語の展開スピードは超ゆっくり。ストーリーをぐいぐい前へ進めていく必要なんてないから、じっくりと“アニメーション”を見てくださいという、そんな感じです。(逆に言うと、こののんびりした筋運びで、仮に絵づらがキュートなものでなかったら、とても間が持たないかもしれないですね。)・・・ってなわけで、豊かな大自然の中で暮らす可憐なハイジという、一般的なイメージそのままみたいな(意外にそう多くはない)回でした。その分、跳んだり跳ねたり転げたり、ハイジもペーターもヤギたちも動く動く。(笑)
 ただまあ、このへんの富野コンテは、高畑勲監督に思い切り直されて、ほとんど痕跡も残ってないなんて風聞も聞きますし、前にも書きましたけど、絵づらとすれば、レイアウト担当の宮崎アニメっていう感じしか、私にはほとんど分からなくて。

 絵コンテとレイアウトと監督の関係なんて、素人にはよく分からないだけではなく、制作会社の体制によっても大きく変わるものらしいですが、板垣伸さんがWEBアニメスタイルに連載している話なんかを読んでいると、絵コンテが大直しを食うなんていうのは意外と茶飯事のようでもあり、「絵コンテ千本切り」とか称されていた富野さんの凄いところっていうのは、むしろ“富野パターン”みたいな繰り返しが(少なくとも私のような素人には)目に付かない、・・・物語らしい物語も少ない中で、見ていても飽きさせない画面のリズム作りにあるのかもしれないですね。

 ・・・と言いつつ、第14話はハイジが可愛がっている子ヤギの“ユキちゃん”が、なかなか大きくならないし、ミルクの出も悪いというので“つぶされ”ちゃいそうになる、という、実は甘くない高畑テイストのエピソードでした。ハイジは必死で薬草を集めたりするのですが、ペーターにも大迷惑をかけたりとか、なかなかどうして苦味もある回でした。
 ただ、やっぱりゆっくりだな、と思うのは、この回でそのピンチは終わらなくて、“次回どうなる”という強力なフックで終わっちゃったので・・・富野コンテ担当回ではなかったのですが、思わず第15話まで見てしまいましたよ。(笑)

 そういうわけで、ついつい話の筋が気になって、珍しく「絵コンテ:富野」クレジットのない回も見たわけなんですが、・・・気のせいか、やっぱり絵的なリズムは今ひとつだったような。(私にはそんな鑑識眼はないと思うので、ただの身びいきかもしれないですけどね。)

 あまりマニアックな視聴をする覚悟も本当はあまりないんですが、しかし“絵コンテ”とか、“レイアウト”とか、どのへんを見て、それぞれの特徴を把握したらいいか、みたいなツボでもあれば、ちょっとは勉強したいですね。

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