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突然、「靴磨き」というマイブームが到来。 

[2008/07/03] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 タイトルのとおりで、昨日ぐらいから突然、「靴磨き」というマイブームが到来。何だか仕事をしていても、そわそわ。ちょっと手が空いたら物陰でごしごし磨いてるとか、そんな感じ。(笑)

 しかし。もう何年はいているんだろう?少しは磨き甲斐のあるような靴であれば、まだいいのですが。そもそも頑丈なだけがとりえで、そんなに高い靴でもない。なおかつ日々、非常~♪に酷使してきた歴戦の勇者でありまして、なんつうか、もう、見る影もなくぼろぼろです。何しろ私と来た日には、身なりとかあんまり構わない、ものぐさな性質なもので、これまで手入れなんてろくにしたこともないのですよね・・・。

 近頃なんとなく、はてな界隈などで、「承認欲求」がどうのこうのという話などを、ちらほら読んだりしています。周りの人たちに(かろうじて)存在を認めてもらえる、(必要とまで行かないかもしれないけど)そこそこアテにしてもらえる、(あえて斬られない程度には)何とか繋がり感を保っている・・・。難しい話はよく分からないんですけど、その程度の最低限のレベルの欲求(自意識?)ですね。考えてみると、たしかにこれは絶対防衛ラインという感じで、何とか確保しておかねばならないと、いくらものぐさな私でも無意識に周りとの折り合いをつけているもののようです。

 こんなのは、いろいろ議論されていることの本筋とは、たぶん大幅に外れてる、イタい反応なのですけど。

 「承認欲求」というマジックワードを聞かせられて、私の場合は、急に周りの人たちに自分はどう見られているかということが、(久しぶりに)自分の意識の表層に上ってきたような気がします。急に背筋を伸ばしてみたり、・・・というよりは、いつのまにか無意識に背中を丸めていたのに気づいた感じですね。

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「オタクだか新人類だか」の補遺 

[2006/07/17] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 前回、最後のほうで、エヴァンゲリオンの影響のようなことに関して疑問をいくつか挙げたのですが、書いたものを改めて読んでみると、エヴァがきっかけかどうかは分からないけど、エヴァブームの頃には、オタク第一世代と新人類は、分立の理由を見失って融合しはじめていた、と考えると少し納得できる気がしました。

 理論面では、社会の情報化の進展で、現実/仮想現実の境界が実際問題として不分明になってきたことと、もうひとつ動機面では、第一世代あたりの年代では、そろそろ「モテ/非モテ」があまり切実な問題ではなくなってきた(要するに、年齢が上がってしまったので、欲求が切実なものではなくなってしまった)というような背景もあるかもしれません。

 …というようなことを踏まえて、例えばエヴァを作った庵野さんも同世代人だと考え合わせたときに、後続世代はともかくとして、少なくとも第一世代オタクは「情報の送り手が込めた価値観やメッセージ(作家性)を軽視ないし無視」できないと思いはじめたんだろうか、とか。……あまり確証はないけれど、心証としてはうなづける部分はあるような気がします。

 そこにどうして、今までこっちの領域には関わってこなかった「新人類」たちが首を突っ込んでくるようになったのか。

 本当は関心あったんじゃん、とか言うと身も蓋もない話ですが、できれば、自分たち自身が時代の価値を創造していかねばならない年代に差し掛かってきたときに、「際限のない消費」ということについて、考えるべき共通の問題があったというふうであってほしいような気がします。


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オタクだか新人類だか(どこから来てどこへ行くのか) 

[2006/07/17] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 前回の続きのようなことになります。世代的には第一世代ですが、永遠にオタク未満の私なりに、オタクの同時代史みたいなものを考えてみたいと思いました。

 で、さっそく「宮台真司、新世紀の文化を憂える」というのを読むと、「オタクの誕生」は1970年代後半、カルトQ的なマニア層から…ということにされています。

その頃の、カルトQ遊びみたいなのをするっていうのは今のオタク的イメージとは少し違ってて、対人能力はむしろメチャあるやつが多かったよ。


 このあたりのイメージでは、「新人類」という言葉とも重なっていたのが、1970年代末から80年代初めごろ、急速に変化しはじめる、と。

オタクが仮想現実と現実を峻別して人生の目的として仮想現実世界を選択することに対し、新人類は情報化社会によって現実世界のほうが仮想現実化し、現実社会で生きるとは情報化された現実を情報処理することであると唱え、それをさまざまな哲学的命題によって理論づけようとした。(新人類―Wikipedia


エネルギーがあってしたいこともあるけど、たとえばデブでモテないとか。そのエネルギーをどこに振り向けていいかわからなくて、イライラしてるような状態。それが抑うつだとすると、まさに抑うつ的な連中の一部がサブカルチャーを代替的なコミュニケーションのチャンスとして見出したと。たとえば、対人能力がない、でも人とコミュニケーションしたい。タダではできない。そこに、queっていうか、手掛かりが与えられた。そういう感じだと思うんだよね。
 そういう流れが比較的誰の目にも明らかだったので、いわゆるオシャレ系のやつはそういうサブカルチャー・コミュニケーションを避けてナンパ系になり、逆に「ニワトリタマゴ」みたいだけどそれを見たオタク系のやつらが「こりゃかなわんわ」とそちら方面から退却してサブカルチャー・ツールをもっぱら用いるようになったと。(宮台真司、新世紀の文化を憂える)


 これ、分化に至る動機としては宮台さんの観察のようなことがあって、それぞれの選択した方法論というか、理論武装のしかたがWikipediaみたいなことだったというような、理解の仕方でいいのかな。
 違いの部分よりも、Wikipediaで「オタクも新人類も情報の受け手である消費者を絶対視し、全ての情報は消費者の解釈と位置づけがその意味を決めるのであって、情報の送り手が込めた価値観やメッセージ(作家性)を軽視ないし無視した」と共通する考え方について述べられているのに、すごく納得。
 当時想像も付かなかったぐらいに社会の情報化は進んだと思うんですけど、そうしたら人類はみな新人類かって感じで、新人類なんて言葉はどこかへ行ってしまった。そうなってみたら結果的に、理論武装の根拠はなくなってしまったので、「モテ/非モテ」という動機の部分だけが残ってしまったというようなことでいいのかと思ったら、Wikipediaには違うことが書いてある。
 エリート消費者としての新人類の概念がバブル崩壊で、現実に晒されて下火になったことと、「エヴァンゲリオン」によってオタクも作家性を無視できなくなったことが挙げられていますが、さて?
 エヴァは「作家性で大ヒット」したのかというのがひとつ。仮に区分をするなら、エヴァを熱く論じたのは、むしろオタクではなく新人類の側ではなかったかという疑問がひとつ。エヴァ以後、オタクは作家性を無視しなくなったんですか、へぇ~というのが、極め付けですかね。

 オタク同時代史の話のはずが、今回は「新人類」の方向へと引っ張られてしまいましたが、あちこちと脱線しながらも、また続きは考えてみたいと思っています。

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たとえゲームは不可避だとしても、 

[2006/07/16] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 「Stage1=恋愛ゲームの勝者だけが、Stage2=人生ゲームへの参入資格を持つ。ついては、恋愛ゲームのマニュアルはコレだ。」…というような風潮、すなわち恋愛至上主義(=恋愛資本主義)に感じる反撥ということについて、先日から、駄文をいくつか記しました。

ニュータイプ論と見せかけて、実は・・・
恋愛至上主義 イクナイ!w

 「モテるための努力を回避する」ということは恋愛至上(資本)主義への批判的態度ということで、「非モテ」宣言(笑)を図らずもしてしまいましたが、矛盾したことを書いているのは一応承知しております。

 恋愛ゲームに上手に適応できなかった人間の中から、少なからぬ比率でモテない趣味であるオタクへ奔るものが出ているという現象。(*1)
 「目の前の相手と向き合う事」を忌避するオタクは、「自分しか愛さない」という事にも繋がりかねないのではないかというオタク批判はおそらく正しいと認めたうえで、「向き合わない」オタクばかりが責められるが、「向き合えない」環境にも問題はあるだろうということを私は書きました。
 恋愛ゲームなんかよりも人生ゲームのほうが本番なのであり、人生ゲームを「現実」として直視することが社会のためだというのなら、恋愛ゲームをクリアできないものは人生ゲームに参加しちゃいけないかのごときルール設定は、実は全然社会のためになっていないという異議申し立てをしたかったのです。

 社会のこうした風潮について、恋愛ゲームを「金になる市場」とみなす広告戦略の存在が指摘されましたが、同時にそのゲームから退いたはずのオタクがまた、モテるために使うはずの資力を他のことに使う「金になる市場」になってしまっているという事実も見なければならなくなりました。(*2)

 自分の「研ぎすました価値観」を磨くことの、今日いかに難しいことか!

 いったん切ります。

*1)
 本来のオタクはそういうものではない、という言説があることも承知しています。この「オタク is Dead?」の問題についても、いずれ考えてみたいと思っていますが、ここではいったん、主として非モテ趣味としてオタクを考えています。
*2)
 避けても避けても出てきてしまいますが(笑)、オタキングによるオタクの定義は「好きなものを自分で決められる知性と偏見に屈しない精神力を持っている人たち」だそうであります。そして、そうした意味でのオタクは死に絶えたのだ、と。



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恋愛至上主義 イクナイ!w 

[2006/07/11] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(5) | TOP ▲

 「恋愛至上主義 イクナイ!」とか言うのは、いわば[非モテ]の旗を自分で振ってるようなもんですが、胸に手を当てて考えてみると、実際そうなので素直に認めてしまおう。

 もともと「モテ」という言葉から生まれてはいるため誤解されやすいが、現在の用法としては「非モテ」の対義語として「モテ」が配置されている訳ではないのに注意。「モテ」は第三者による評価だが、「非モテ」は自意識の問題といえる。
 その一方で、「モテるための努力を回避する」という恋愛至上(資本)主義へ批判的態度およびその人のことを指す場合もある。
非モテとは―はてな


 はい、私は純愛ブームとかの仮面をかぶった「恋愛資本主義」大嫌いです。オタクを騙してその気にさせて、ヲタグッズを買わせるスポンサーどもより、より一層たちが悪いと思っております。

 監督と矢口嬢の対談の中で「恋愛」と対比されているのは「見合い」であり、これはやっぱり「目の前の相手と向き合う事」なんですね。


・・・と前回の記事はバルタザールさんに混ぜっ返されましたが、うまく伝わりませんでしたけど私の言いたかったのは、「向き合わない」オタクばかりが責められるが、「向き合えない」環境にも問題はあるだろう、という世の中への混ぜっ返しでありました。
 考えてみてください。今の世の中で「見合い」の意味するものは、限りなく「恋愛敗者」に近いと思われませんか?それってどうなのよ、と。
 もう一つ思うのはね、恋愛至上主義の究極形として「純愛」とかって仮定したとしてね、それで本当に目の前の相手と向き合ってるのかと。恋に恋してるんじゃないのかと。
 たとえそれで結婚したって、それは恋愛ゲームの終わりだけど、富野さんの言うように、いやでもその人と向き合って生きる人生ゲームの再スタートでしょ?恋に恋する夢見がちな気持ちで、その現実に本当に向かい合っていけるんですか。そうして現実から目をそらして、家族でファミレス行ったり、デゼニーランドへ行ったり、マイホームドリームを追ってみたり?「恋愛ごっこ」ゲームの第二部は、「幸せマイホーム」ごっこですか、そうですか。楽しいね、よかったね。(うーん、絵に描いたような資本主義。)

 バルタザールさんが、「オタク、イクナイ!」的なことを言うのは正しいと思うのです。ただ、富野さんが言われたのは、恋愛ゲームなんかよりも人生ゲームのほうが本番だということだと思うのですね。恋愛ゲームをクリアしないと人生ゲームに参加しちゃいけないみたいなルール設定は、全然社会のためになっていないということ。
 だいたいモテる男はこうあるべき、モテる女はこうあるべき、みたいな標準がテレビ基準で決まっていくっていうのが、すげー変ですよね。
 人によって異性の好みなんてのは千差万別であるべきで、例えば(私は別に好きじゃないけど)「メガネっ子」みたいな新基準を自分たちの中から出してくるオタク陣営のほうが、まだその辺は生き生きしてると思うのです。
 「心の壁」の建て方のルールは自分で決めようよ、ということ。「美男美女じゃなくったっていいじゃない」と、キレイゴトじゃなく言える社会にならなくちゃ、オタクが連れ合いを見つけようなんて気持ちになれるわけないと思うのです。(今夜は何故か熱く語ってしまった・・・。ぅぅぅ・・・。)

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