富野由悠季 小説『ガーゼィの翼』を読了しました 

[2009/03/02] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 富野由悠季御大将の小説『ガーゼィの翼』を読了しました。世評との違いにはいささか戸惑っているのですが、私には、ごく普通に面白い冒険ファンタジーでありました。
 何しろ「ビョーキ三部作」のひとつなどと言われていて、いったい最後にはどんな「ぎゃー」という展開が待ち構えているのかと、戦々恐々としながら最終巻を読み進めましたけど…。
 あえて言えば、ちゃんと落ち着くべきところに落ち着いた、そのまっとうな結末が、むしろ「富野由悠季の小説」では考えられない“意外な展開”で、そのことのほうに私は「ぎゃー」と驚かされましたよ。(笑)

 富野御大将のライフワークとされる、「バイストン・ウェル」を舞台とする一連のファンタジー作品。個人的にその中では、アニメで『聖戦士ダンバイン』、『リーンの翼』は見ましたが、OVA『ガーゼィの翼』はまだ見ておりません。小説では、『オーラバトラー戦記』、『ファウ・ファウ物語』は読みましたが、『リーンの翼』はまだ。
 これらの作品は同じ時間軸上の物語というよりは、互いにパラレルな関係と考えられますが、例えば『ガーゼィの翼』には“オーラバトラー”が登場しないことなどを考えると、小説作品では一番最後に執筆されたこの作品が、時系列的にはもっとも原初的な技術水準の世界観を示しているのは興味深いと思いました。(『ファウ・ファウ物語』は例外としても、小説『リーンの翼』も“オーラバトラー”以前の物語ですけどね。)

 ロボットアニメの巨匠、富野由悠季の作品にして、巨大ロボットにあたる“オーラバトラー”を物語の中で出さないというのは、エンターテイメント的には難しいところを狙ったと言えるんでしょう。それともうひとつ、バイストン・ウェルものではお約束の妖精である“フェラリオ”も登場しないということで、お色気方面でも、それを出しておけば少なくとも固定ファンの受けは手堅いという部分をあえて外しているという言い方はしてもいいのかも。
 第一巻の巻末にある「あとがき」の中でも、そのことを変な感じで読者に断っていて、これについては鬱になりかかっていた時期の富野御大将の弱気ぶりが伺えて、やや見苦しいと感じたことは正直否めません。

 そうしてまでも「新しい形の騎士物語」を書きたかったのだと作者は述べているわけですが、それがどう新しいのかというと、あえて「格好の良い騎士物語にしなかった」ところがたぶんそれなのでしょう。どうもこの作品についての世評に芳しくないものが多いのは、そういうようにファンタジーでありながら娯楽的な要素には乏しいという、そういうことも関係あるのではないかと思ったのでした。
 何しろ主人公の千秋クリストファは「ガーゼィの翼」の聖戦士としてバイストン・ウェルに召喚されても、そんなものにたてまつられることに戸惑い、コンピュータ・ゲームのようにはいかない異世界の強烈な「現実」にクドクドと愚痴ばかりもらす、ひ弱な現代っ子。
 ・・・と言っても、精神面ではそうでも、いちおう剣道はやっており、弓道も門前の小僧程度には知っているなど、極限の異世界で生き抜けるための最低限のことは地上界で学んでいるのが彼。(そこは富野監督らしいエクスキューズでもあり、物語の主人公に対する多少の優しさでもあるかな、と。)そうした知識には実戦的でない部分もあるんですけど、その真の意味を実戦の中で学び取り、少しずつ鍛えられていく部分には、親近感がわきました。(クリスが“二浪”という設定も、私は個人的に好きです。)

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『ファウ・ファウ物語(リ・ストリー)』 これは富野由悠季の重要な小説です! 

[2008/12/08] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(14) | TOP ▲

 ずっと前に上巻だけをブックオフで見つけ、久しく気になっておりましたが、今回ようやくにして下巻を入手。
 なんと不思議な物語なるよ!・・・というのは、物語の内容がというか、本のタイトル(=主人公の妖精の名前)にも語感が似てますけど、“ふわふわ”として、まったくつかみどころが分からない、そういうお話なのでした。ちょっと長くなりますから最初に言っておいてしまいましょう。私はこの作品、大好きです!

ファウ・ファウ物語〔リ・ストリー〕 (上) ファウ・ファウ物語〔リ・ストリー〕 (下)

 上巻を読み終わってから下巻を見つけるまでに間が空いてしまったわけですが、あまりの不思議さに、下巻のほうを読めば私が思っているような“富野小説”になるのかなーと思っておりました。

 甘かったっ!(笑)

 そもそも下巻を読み始めた瞬間に、頭の上に大きな「?」です。自分は何か間違ったんじゃないのか?・・・話が繋がらない?

ファウファウ物語(リストリー)
ニュータイプ 角川書店
1985年4月号~1986年12月号(全21回)
*1:原題「ファウファウ物語 From BYSTON WELL STORIES」。
*2:連載第11~13回は文庫版未収録。
*3:連載挿絵第1~10回藤井勉、第11~21回大森英敏

 連載3回分がすっぽりと未収録?kaitoさんのおかげで、自分の間違いではないことは分かりましたけど。これはいったい・・・?

2009/2/13 補記

 kaito2198さんの真摯な追求のおかげで、上巻と下巻の間に未収録ページがあるのは初版(ともしかしたら第二版)だけだということが分かりました。ここで欠落しているのは、本来の第十七章「魚の話」から第二十二章「本番」までの77ページ相当分であるようです。ミス・・・とは考えにくいので、意図だったのではないかと思うのですが、結局は本来の形に戻したということらしいです。

 この小説は、富野由悠季のライフワークと言われる異世界ファンタジー“バイストン・ウェルもの”のひとつです。小説メディアの出版順でいうと、『リーンの翼』(小説版のほう)と『オーラバトラー戦記』の間に入ることになります。
 富野マニアの皆さんにはお断りするまでもないですが、特にこの前後の二作では「生首ブッとび腕がちぎれる世界」=バイストン・ウェルという面があります。しかし、その狭間にあって、この『ファウ・ファウ物語』には吹き荒れる暴力もなければ、性的描写もまったくありません。そして、そういう期待と違うから「面白くありません」と、一読して二度と手にしない人が少なくないだろうという作品なのは事実。
 でもですね。「オタク的想像力を作ったのって高橋留美子と富野由悠季じゃん。オタクのお母さんとお父さん(笑)。」とまで言われている富野監督が、まさに「オタク」的想像力の爛熟しつつある80年代半ばに、『ニュータイプ』というオタク濃度の濃い場所で、こうした発信を試みていた。成功不成功はひとまず脇においておいて、ここで「何故?」と問い直す感覚ぐらいはあってもいいんじゃないかと私は思わずにはいられないのですよ。

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小説 『機動戦士ガンダムF91 クロスボーン・バンガード』  

[2008/11/27] | 感想系 | トラックバック(1) | コメント(1) | TOP ▲

 このところブログも書かんと富野由悠季の小説ばっかり読んでるわけですが、まだ熱は冷めやらない感じ(笑)でありまして、今日は『クロスボーン・バンガード』の感想をメモしておきます。

機動戦士ガンダムF91クロスボーン・ガンダム(上) 機動戦士ガンダムF91クロスボーン・ガンダム(下)

 前にも書きましたが、世代的なこともあって私は、富野由悠季の「小説」には、半ば無意識に抵抗感を抱いて来ました。富野由悠季のファンを自認してるのに、我ながら妙なタブーを設けて来たものですね。
 そしてこれも前に書きましたが、『F91』というアニメも、私の中では釈然としない印象として記憶されている作品だったのでした。幸い、この小説は勢いで手に取ったので、そのあたりも変に構えて読まずにすんだのですが、感想を書くというと、そのへんのことも微妙にフラッシュバックして来てしまいそうです…。

 アニメと比べると、出来事の前史にあたる部分のボリュームの大きさが、小説版の特徴になるかと思います。
 普通は鉄仮面=カロッゾ・ロナが、いかにして、あのような暴挙に及ぶに至ったかという、アニメで説明しきれなかったところの補完を重点的に読むのかもしれません。富野由悠季という人が、内面に抱いた思想の代弁者として。
 …でも今回、私が思いきり強い印象を受けたのは、たぶん作者のもう一人の分身である、シオ・フェアチャイルドのほうでした。
 カロッゾのほうは、ある意味作者の叶わぬ(叶えてはならぬ)願望を、代償としてフィクションの中で形にしてみせてしまっているわけですが、このブンガク崩れの小市民たるシオという人物の惨めさたるや!
 それと、富野監督の娘さんたちの年齢を詳しくは知らないのですけど、この作品での「親子」の関係というのはそれ以前の富野作品とはどうも違って、ダメな親だけど親は親で一生懸命・・・だけど、やっぱりダメなのよね、というような、人の親の立場のほうから見つめなおした視点というのを不思議に親密なものとして感じました。

 富野監督、当時50歳ですか。『ブレンパワード』で「世代を重ねる意味」というテーマがひとつ、ぽんと投げ出されてあったわけですが、「人は手前1人でおぎゃあと生まれて1人で勝手に死んでいくものではなくて、それには他の人が大なり小なり関わっている」ということが、まさしくこの小説の「序」には懇切に書かれてありました。ナルホド納得。

 富野アニメを批判する人たちが言うことには、たとえば父親が王様で兄弟が将軍とかで、家庭内紛争みたいなのばかりをやっている、あれはリアルな戦争じゃない、みたいな話があるわけですけど、それは違うんですね。別に富野監督はリアルな戦争を描きたいのじゃなくて、人間の問題が最初にあって、その必然として家族の問題がある。ひとつの家庭だけでその暮らしがなりたつわけではないのが世の中だから、その衣食住をまかなってくれる、あるいは生計をたてるために両親が出てゆく、そういうものとして社会がある。
 そうしたことを丁寧に分かりやすく示しているのが富野監督の作品なのですね。(それに、少なくともガンダムのシリーズでは、戦争らしい戦争を描いたのは最初のガンダムぐらいであり、この作品もそうですが、あとは微妙に「内紛」というのに近いようなレベルの戦いに抑制されて描かれているということも、そのあたりの節度というものをわきまえているから、このようになるのではないかと私は思います。)
 なので上巻の全21章のうち7章までを費やして描写されているロナ家の事情というものこそが、この作品ではとりわけ魅力的であり、まだ物語は動き出してもいないのだけど、ちっとも退屈せずに読み進めることができました。

 もうひとつ、「あれ?」と思ったのはラストの部分が大きく違う、ということで。
 (・・・!) この間の肝心の本編にあたる部分をすべて飛ばすとは、何たること!!(笑)
 いや、アニメでよく分からなかったことが「そういうことか」と納得された部分はいくつもあったのですが、まあそこは個人的には、そんなに重要ではなかったということです。淡々と事象が積み重なっていって、悲劇が拡大していくという。

 で、終劇の迎え方ですが、やけにあっさりと終わったなぁと。いや本当は、なかなか余韻が残る、いい終わり方でしたが。
 それでアニメのことは見事に忘れて小説の物語だけにすっかり入っていたので、その時にはささいな違和感という程度だったのですけど、・・・今になって考えてみると、アニメではラフレシアの撃破以上に重要な感じで描かれていた、虚空を漂うセシリーを探す、あのシーンがごっそりとなかったことに気づき、ちょっと愕然。
 アニメであれを見たときには、富野監督は「ニュータイプの“認識力の拡大”っていうのは、エスパー的な戦闘力のことではなくて、こういうもののことなんだよ」というのを、とても強調したかったんだなぁと私などは感じていたわけです。その部分、丸々カット。(笑)

 ただ、このほうがずっと良かったですね。いまだからそう思えるんで、リアルタイムのあの頃に、そんなふうに思えたかどうかは分かりませんけど。

 生み育ててくれた母と父がいるならば、そこに戻るのが人でしょう。
 もちろん、その逆もあって、不幸な生立ちをもてば、両親を憎しみ忘れようともします。ときには殺そうとも・・・・・・。
 それも、父と母がいるから起ることですから、結局は、戻ることなのです。

 ここから始まる物語は、「世代を重ねる意味」こそが主題であって、ガンダムらしくニュータイプの話などを入れなければならない、などと欲目を出すべきではなかったのでしょう。
 たとえ、父をその娘が殺める悲劇の物語であったとしても。

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小説 『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』 

[2008/11/17] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(5) | TOP ▲

 小説やコミックより、絶対にアニメというメディアのほうが好きな私ですが、これは率直に言って面白かったです。読むのが遅い私にしては、かなり速いペースで読み終わることが出来ました。富野さんの小説への個人的な評価を、少し上方修正しないといけなさそうです(笑)。

機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ〈上〉 (角川文庫) 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ〈中〉 (角川文庫―スニーカー文庫) 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ〈下〉 (角川文庫―スニーカー文庫)

 ソノラマ文庫時代の『機動戦士ガンダム』 (1979-80年)や『伝説巨神イデオン』 (1981-82年)と、1989-90年に角川スニーカー文庫で出版されたこの小説を読み比べると、テンポが良くなってることがはっきりと感じられると思います。約10年の間に、けっこうな数の小説を書いておられるんですよね。
 しかし、ここから『クロスボーン・バンガード』 (1991年)を経て、先日読み終わった感想を書いたばかりの『機動戦士Vガンダム』 (1993-94年)へという ’80年代末から’90年代前半あたりというのが、富野さんの“小説家”としての活動に、一番脂がノッていた時期だといえそうです。

 前にも書いたかもしれないけど、富野小説のテンポっていうのは、絵コンテを文章化したとでもいうような印象が私にはありまして。・・・その言い方で言うと、初期の『ガンダム』や『イデオン』のノベライズでは、世界観の文字設定みたいな部分が多く、それはアニメの世界観を補完するという意義は大きかったんだけど、文章表現のテンポとすれば、ストーリィの動きがそこだけ止まっちゃうという短所もありました。
 その点、この『閃光のハサウェイ』では、(相変わらず能書きが多い傾向はありますが、・・・)よどみなくストーリィが流れていきながら、そのテンポを止めることなく物語空間を構築するテクニックがかなり巧みなものになっている気がします。

 もっとも、『ガンダム』や『イデオン』では、(例えば"モビルスーツ”という概念ひとつの説明などをとってみても、)そこでの世界観を一から構築しなければならなかったというハンディがありました。『閃光のハサウェイ』はシリーズものの続編のほうなのだから、そんなもんでしょうという言い方もあるかもしれないけど、単体で(自律した)“小説”として立てようとする強い意識は、それらに比べると、明らかに薄くなっていると言えるかもしれません。よく言えば、肩の力が抜けてきているということ。
 私は“ラノベ”という概念がよく分からないんですけど、そうしたものに近づく傾向というのか・・・というよりも、時代的にも“軽い”ものが志向されるようになってきたところに合わせてきているのか。「小説>ラノベ」、「重厚>軽薄」、いずれも自明のことではないと私は思ってますので、そこで良し悪しも何もないわけなのですが。(読みやすいに越したことはないけど、・・・。)

 ただし文体は、そういうわけで軽やかさを身につけてきていますけど、物語の内容的には、これはもうドシッと重たい(!)。
 そこのギャップが逆に生々しい切り口となって、作中で展開される事象に手触りのたしかさ、ふくよかさが感じ取れる。それが、この小説の大きな魅力になっているのではないかと私は思いました。
 してみると、この時期のアニメ作品(『逆襲のシャア』~『F91』~『Vガンダム』)のほうでは、(同様に“続編の楽さ”の中で仕事をしているにも関わらず、)実のところここまでテンポよく物語を弾ませることができていなかったと思います。作家というよりむしろ、アニメ職人というべき(?)富野由悠季にして、何故そうなってしまったのかな、と思わずにはいられません。
 それこそつまりは、個人の中から生まれる小説という媒体と、スタッフワークによるアニメというものの差異、・・・ということになるんでしょうか。

 『逆襲のシャア』に出てくるハサウェイ・ノアというキャラクターが、(クェス・パラヤもそうですが、)私はあまり好きではありませんでした。何のために出てきて、何のために生き残ったのか。入れなくてはならない気がするから入れたはみたが、最後まで監督自身が若者は分からない、としてしまったような印象があります。
 なので、『ガンダム』に一つのピリオドを打ったあの作品の中で、ハサウェイの物語だけは奇妙な中途半端さで宙吊りになっていて、そういうところを直視する。きっちりと結末を付ける。いわゆる二次創作のサイドストーリィ的なものを原作者本人が敢えてやる。
 ・・・そうして考えていっただけで苦しくなってくるのですが、クェスの死という傷を経てきたハサウェイという少年は青年に成長し、そしてきっちりと彼自身の物語を締めくくりました。無残な悲劇ですが、その透徹ぶりにはちょっと感動があります。その痛切さはまったくTVアニメ的ではなくて、かなり文芸的、強いて言えば映画的なものでした。

 この本を実際に手にする前、そのあらすじだけを聞いて私は勝手に、ガンダムという名は冠していてもモビルスーツとかは出てこない、もの凄くストイックなストーリィなのかな、という思い込みを持っておりました。あにはからんや、なかなかの活劇でもあって、渋い物語ながら不思議な実在感のある青年たちの人間ドラマは、実にエンターテイメントだったなぁと。
 余韻の残る結末ですが、読後感は爽やかであるのが何とも言えない。とにかく魅力のある小説でした。

小説『機動戦士Vガンダム』 読み終わっちゃいました 

[2008/11/05] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 第一巻の感想を書いたときは、一巻ずつ感想を書くつもりだったんですが、あれよあれよと全部読み終えてしまいました。うん。大変面白かったです。なんて言えばいいんだろう?TVアニメ版が嘘のように、ちゃんと物語になっていました。ストーリーを追っていくもう一方で、だから、こういうものをアニメの製作と同時進行で書いていながら、なんでアニメはああいうふうになっちゃったんだろうかと、もうそればっかりが頭の中ではぐるんぐるんと渦巻いちゃいましたけど。

 出だしで調子が狂ったのと、あとは・・・アニメにあって小説にはない大きなものといえば、・・・“バイク戦艦”ですか?バンダイの介入で出さざるを得なくなったアレが、けっこう致命傷だったんですかねぇ。

 アニメと比べて、舞台まわし役として、クロノクル・アシャーの役割が大きかったというか、その視点が重要でした。・・・けど、やっぱり彼の最期はあっけなくて。あと、カテジナさんの狂いっぷりがアニメの毒電波な感じではなくて。強化人間にされてしまった存在として、普通にかわいそうだったのは意外でした。

 エンジェル・ハイロゥが、『逆襲のシャア』のラストみたいに地球を取り巻くリングにでもなるのかとハラハラ(?)しながら読んでいましたら、あにはからんや、一部とはいえ『発動篇』に吹っ飛んでいったのにもびっくり。

 しかしそれにしてもだれることなくラストアクションまで一気に物語が走っていて、テンポは良かったです。小説としては、だからよく出来ていた、まとまっていたというべきなんでしょうか。アニメを見ていて「?」だったことの多くがきちんと説明がついていて、なんだそうだったのか、そういう意図だったのね、と納得したところも数知れず。
 そう思いながらもう一度アニメを見返したら違って見えてくるのかもしれないですけど・・・。でも、あのフィルムだけを見て、こういうドラマとして理解することは、・・・私には無理だった気がします。正直な話。

 それと同時に、あのアニメ版の、特に終盤の、もうむんむんとするほどの狂気が。あれほどのものは、この小説の行間からは伝わってこなかったような気がするという、まったく矛盾しきった思いも一方ではあって。いくらなんでも贅沢なことを言ってるような気も自分でしますけど。
 逆に、まったくアニメを見たことがなくて、この小説だけを読んでいたら、どういう感想を持っていたんだろうかと考え込んでみたりもしますが。してみると、あのアニメがひどく自分の中に強烈な印象として残っていたことを、改めて認識してみたりもします。

 思いがけず、ラストが一気に筆をおいたという感じでまとまってしまって。いや、なんか、それでかえって。激しく混乱しています。何ていうか、それが正直な感想ですね。