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『日本動画興亡史 小説手塚学校 1 テレビアニメ誕生』 

[2009/07/29] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 とても面白かったです。『鉄腕アトム』テレビ放映はついにはじまったものの、誰もが危惧していたとおり、第4話で放映に穴をあけてしまうのか!というところまでで第1巻は終わり。このブログ的には残念ながら、まだまだ富野由悠季(っていうか、「富野喜幸」)は出てきません(笑)。
 詳しく研究しておられる方には、既知のことが多いのかもしれませんが、テレビアニメとは何か(少なくとも、どういうところからはじまったのか)ということに、関心を持つ向きには非常に参考になる、とてもよくまとまった本だと思いました。

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 巻末に13ページに及ぶ脚注。私は無精者だし、見てもわかんないから、いちいち確認しませんけど、文中での描写がどういう文献に基づいてるのか明記されてます。近い過去とはいえ、いろんな立場からいろんな証言が残ってるものだけに、どの記録をベースに書かれたものかは大事なところなんでしょう。研究者の人っていうのは大変だなーと頭が下がります。(私には絶対、真似できませんよ、こんなのは。w)
 でも、この本は研究論文タッチではなく小説仕立てなので、私のような素人には読みやすくてありがたかったです。

 皆川さんの思いは「あとがきにかえて」ということで巻末に書かれています。これ自体がよいまとめにもなってますね。“手塚治虫の物語”ではなく、彼がまいた種を育て、引き継いだ人々の群像劇。彼らの姿は「手塚流リミテッド・アニメーション」を推進した作家集団として一種の学派(School)のようでもあり、その若さゆえの無軌道ぶりは学校のサークルのようでもある。そんな意味で『手塚学校』と名づけたと。(『日本動画興亡史』という大仰な副題の意味もそこでは語られていますが、この部分は2巻以降への思いでしょうね・・・。)
 だいたい手塚先生からして、すでに売れっ子漫画家として地位を築いていたとはいえ、まだ30代。なんて若い!

 虫プロ以前のアニメ(というか「漫画映画」)の状況というのは全然知らなかったので、資本をバックにした大手・東映動画のほかに戦前から続く小さなプロダクションがいくつかあったことや、意外に大きなものだったコマーシャルフィルムの需要、そして当時のテレビに『ポパイ』など輸入物の「漫画映画」が多くあったことなど、大変興味深く読ませてもらいました。
 それら輸入物の質の低さから国産の“テレビまんが”が待ち望まれていたが、生産性と採算性の壁を前に、どの会社も製作に踏み切れずにいた状況。その中で、300人以上の社員を抱える東映動画さえも手を出さないビジネスに、社員数十人の虫プロが挑んだ無謀さ!(これはプロジェクトXですな w)

 とはいえ、彼らにもまったく考えがなかったわけではなく、強いキャラクター性と高いドラマ性で観衆を引きつければ、あまり画を動かさなくても堪えられるのではないか、という(“コロンブスの卵”的な)発想の転換があり。アニメーションでは命と考えられている“動き”を、物語の道具として限定するという「手塚流リミテッド・アニメーション」の発明がそこにはあったのでした。
 すなわち彼らは、単にテレビ放送されるアニメーションを作ったのではない。アニメーションの歴史の中に<アニメ>という新たな手法を創造したんだ、ということ。

 ストーリーとカットワークさえ優れていれば、例えば目をぱちぱちと動かすだけのカットに「驚き」という意味を与えることもできる。
 当時のテレビで人気のあった輸入もののアニメは単調なパターンの繰り返しが多く、物語的な内容が薄かったという背景も。(これ、今のアニメファンには通じる話なのか、ちょっと自信が無いけど、私はよく分かる気がします。私は年寄りなので、このへんの低俗な輸入アニメというものも何となく知ってますが、若い皆さんはご存じないかもしれないですね・・・。録画からコマ送りの静止画をべたべたネット上に貼られる時代には、通じにくい話ですか?)

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手塚治虫、虫プロ関係のいろいろ貴重な話を拝読しました 

[2007/12/19] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 今日は、昔、手塚治虫さんの身辺でお仕事をされていた真佐美ジュンさんのブログホームページを延々と拝読しておりました。真佐美さんは、世間的には旧ドラえもん(日本テレビ版)の制作に関わった方として知られている方のようです。

 お年を召した方の手作りホームページということで、見やすい作りではない気はしますが、手塚治虫アニメ関係の年表はすごいと思いました。「海のトリトン」のページには、パイロットフィルムのことなども載っています。

 前にもリンクしたかもしれませんが、虫プロの子会社、虫プロ商事に在籍していた西崎義展との関係の話は、書きにくそうな話ですが、貴重なものです。(この「海のトリトン」の記事の特にコメント欄のやり取りはすごいです。)

 虫プロ最後のテレビシリーズ「ワンサくん」には、なるほど後の「宇宙戦艦ヤマト」のスタッフが顔をそろえていたんですね。

 ワンサくんの版権も奪ったNさんは、山本暎一さんに、総監督をお願いした。

 これが後の「宇宙戦艦ヤマト」の複線となり、山本暎一さんが、すでに「ヤマト」の企画をしていたのは、目撃している。
 だから、ヤマトを企画したのは、山本暎一さんで、Nさんは「ヤマト」でも美味しい取りをしたわけだ。

・・・というあたりでは、さすがに名前が伏せられていますが。
 「瑞鷹」というのは『アルプスの少女ハイジ』で有名な会社なんですが、『ヤマト』の裏番組だった、この作品の会社に西崎氏が関わっていたとは驚きでした。

 まあ、そんなスキャンダラスな話ばかりではなく。『ジャングル大帝』の製作現場で噴出する、

虫プロへ入ってくるのは、みんな好きだからですけど、その好きをいいことに、全人格的な、没入と犠牲を強いることで成り立っている。アニメ界の古い体質で作家プロダクションなのです。そんなものは資本の論理の競争の中では弱いです、「鉄腕アトム」を始めた時はしょうがなかったけれど、その後もきつい仕事の連続でみんな疲れ果てている

・・・のようなところににじみ出てしまう手塚の作家肌の問題とか。現在にも通じるような、そういう話も興味深く。ただ部分で引用すると“アニメーター残酷物語”になりそうなところもあれば、それでも意外に皆で楽しくやっていたふうのところもあり。本当に、一概には言えないなぁと。(富野さんとの関係では、『ふしぎなメルモ』第14話のエピソードなどもありました。富野さんは虫プロの主戦力を結集した『ジャングル大帝』のときに別働隊のアトム班で頭角を現した人らしいですから。でも『ジャングル大帝』のほうが手塚チェック抜きで進む体制だったとすると、それ以後は、むしろアトム班のほうが手塚と濃い接触があったかもしれないとも想像されます。)

 それから強く興味を引かれたのは、杉井ギサブロー作画監督による『哀しみのベラドンナ』などの一連の“アニメラマ”と言われる作品群。某所で一部だけ映像を見ましたが、これはすごい。とても前衛的で、(一般的な用語ではないのかもしれませんが)いわゆる“アートアニメーション”ふうとしか言いようがないような。

囚人022のはてなブックマーク / blog.goo.ne.jp:mcsammy

 そのほか、関心を引かれた主なページは上記などになります。(残念ですが、3月以降、更新はされておられないようです。)
 白状すれば私の中では「虫プロ」→「テレビアニメの元祖」という固定イメージができかけていたのですが、今となればそれは大きな誤解だったと思います。手塚治虫という人の強烈な作家性、強烈なアート志向に、じかに接した人たちというのは、(大変な思いをした人も少なくないにせよ)やはりこの巨匠から大きな影響を受けたのだろうな、と強く感じました。

アニメの中での「表現主義」って・・・ 

[2007/12/07] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 「“日本のビジュアル大衆文化の頂点は、アニメじゃなくマンガ?”という話」の続きです。(相変わらずムダに長いですが、お覚悟を。)
 “アニメ様”こと小黒祐一郎さんがどこかのパーティで話した内容を、東浩紀さんが見事に逆の意味に聞き違えたらしい、という話で、「それにしても、強烈な東浩紀批判ですよね」・・・とNishinomaruさんに指摘されましたが、アニメ様が「多分、どこかで勘違いされている(増田さんの勘違いではなく)のだろう」というのは、確かにまあ、注意して読めばそれと分かるように書かれていますね。アニメ様のスタンスはよく承知していませんが、読んだ感じでは婉曲に書いたんであって、揶揄する意図ではないのでは。

 それはともかく(笑)、「表現主義」というほうです。

東映動画系、虫プロ系というのはよく言われる話なんですが、「表現主義」「物語主義」という言い方を聞いたのははじめてで、もし最初からそういう対比なのだったら、語感から言って「勘違い」の発生も無理はないという印象。

・・・と私も書いたぐらいで、増田さんが特に疑問を挟まなかったのと同様に、私もその部分だけを読んだら、“東映動画系は表現主義派”、“虫プロ系は物語主義派”という言い方も(個々の人名を見なければ)大雑把にはあり得るのかな、と思ってしまったと思います。それをスパッと、

りんたろうさんを始めとする虫プロの人達が「表現主義」だと言ったはず

・・・と訂正したアニメ様の見解を詳しくお聞きしたい、とだけ前回は書きましたが、自分でももう少し考えてみたくなったので続きを書いてみます。

 (たぶん東さんの)そもそもの勘違いで曲者なのは、「表現主義」という用語と併置して、「物語主義」という言葉を用いているところ。そういう読ませ方をさせられると、“物語”というほうに文芸的な内容の重視、“表現”というほうに映像的な内容の重視というニュアンスを勝手に誤読して納得してしまいます。
 “もし最初からそういう対比なのだったら、・・・”と私が書いたのは、そういう理由で、「物語主義」というのは「勘違い」した人の付けた尾ひれなんではないかとしたのも、そういう意味です。

美術において「表現主義」として語られるのは主に19世紀後半以降の動向だが、そもそも「表現」を意図しているはずの美術の特定の部分を、敢えて「表現主義」と二重に括るようになったのは、ある傾向の作家・作品に窺われる激しい感情の吐露・表出を、科学や実証性を重んじた「印象主義」と対置するためと考えてよい。

Art Words - Art scape「現代美術用語集」

表現主義(ひょうげんしゅぎ)または表現派(ひょうげんは)とは、様々な芸術分野(絵画、文学、映像、建築など)において、一般に、感情を作品中に反映させ、現実をねじまげて表現する傾向のことを指す。また、この語は感情の中でも特に不安や葛藤などをあらわしたものを指すことが多い(表現主義の作品で、陽気で快活なものはあまり見れず、陰鬱なものが多い)。

表現主義 - Wikipedia

 美術用語としては、「表現主義」(Expressionism)は「印象主義」(Impressionism)の正反対の語として存在するようですが、他のジャンルで援用して使う場合はなかなか難しいですね。Wikipediaの「表現主義 - 映像」の項を読むと、映画では象徴的、超現実主義的な作風を、そう呼んでいるようです。(今のアニメで言ったら、むしろ「エヴァっぽい」みたいな言い方をされる傾向が、それっぽいですか?)

 「激しい感情の吐露・表出」と言う特徴は、なるほど富野アニメによく当てはまります。“りんたろうさん”と言われると、私はついつい東映動画で製作された『銀河鉄道999』とかを頭に浮かべてしまうので、正しく虫プロ的な“りんたろう作品”って何だろう?不勉強で、そのへんがよく分かりません。(『火の鳥・鳳凰編』とかでしょうか。今度見てみようかなぁ。)

登場人物のデザインと性格だけではなく、空間と時間も徹底的にデフォルメされた。投手の手を離れた白球が、捕手のミットにたどりつく時間は、一球に込められた情念によって際限もなく延長され、ひき延ばされた瞬間が迫力のある動きとして、アニメーターにより追求された。せまいリングが広大な戦場として描かれるのも、その主人公にとって戦場に等しいのだ、というわけで正当化された。おかしなもので、語り口がどこかで講談と同じになっていった。間垣平九郎が愛宕山の石段を馬で馳せ登るくだりの表現と、これらのアニメーションの語り口のなんと似ていることか

 「感情を作品中に反映させ、現実をねじまげて表現する傾向」と言うのは、前の記事でも紹介したリンク先(「アニメビジネスがわかる: アニメビジネスがわかる本32」)で引用されている宮崎駿さんの“テレビアニメを中心とする過剰表現”への批評(というか批判?)が分かりやすいですね。
 たぶん、これこそがアニメ様が「表現主義」という言い方で示したものだと思うのですが、なるほど、そう言われると確かに虫プロ(テレビアニメ)的な特徴のような気がしてしまいます。

 ただ「激しい感情の吐露・表出」という側面を抜きにして、このアニメ的な誇張表現という部分だけで見ていってしまうと、例えば私の世代では、ついつい『ガンダム』と『未来少年コナン』(あるいは『カリオストロの城』でも可)の対比などで考えてしまいがちなので。それは宮崎監督の得意技でもあるのではないかと。(あのコナンやルパンの超人的な身体能力ですよ! 笑)
 Wikipediaに「マンガ物理学」などという笑える一章(つい読みふけってしまいます)がありましたが、『コナン』を初めて見たときなど、“これこそがアニメの魅力かなー”などと私は単純に思い、改めて感心したものでした。
 富野アニメに頻出する“ハイパー化”などは、まさに「激しい感情の吐露・表出」でもあり、アニメ的な誇張表現の典型とも言えそうですが、近年、世間一般ではギャグ的用法を除くと一概に誇張表現は否定的に捉えられる傾向があるような気がするので、私はそこは残念です。

 で、こうした誇張表現を排除していった極北の作品というと、私は例えば高畑勲監督の『母をたずねて三千里』などを思い浮かべます。お猿のアメデオ君が一人で画面に動きを与えていた以外では、あの禁欲性はすごいですよね。あれこそは「物語主義」というよりも、むしろもう少し普通っぽい用語で「自然主義」的な(現実を理想化せず、社会・人間・自然をみにくいものもふくめて、ありのままにえがこうとした)傾向として、表現主義に対置すべきものかなぁと。
 美術の分野で、“そもそも「表現」を意図しているはずの美術の特定の部分を、敢えて「表現主義」と二重に括るのは・・・”と言われていたように、表現主義的な傾向というのは、よほど意識的に抑えない限りはむしろ、ほとんどのアニメ作品の中に見られるものなのではないかと私は思います。
 視点がどこで、何と対置した場合に「表現主義的である」というように、言い方あるいは聞き方を注意深くしないと、言葉というのは一人歩きをしてしまって180度違う意味に取り違えられる場合さえある、ということなのではないでしょうか。

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“日本のビジュアル大衆文化の頂点は、アニメじゃなくマンガ?”という話 

[2007/12/05] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 パソコンの調子もネットワークの調子も絶不調!12月は、それでなくても気ぜわしくて嫌いです。(←時候のあいさつ。w)
 今日はまた、ネットで見かけた話題から。

東浩紀は小黒氏との会話で、「七〇年代のアニメ作家たちは、大きく表現主義と物語主義の二つに分けられると言われている」との示唆を受けたと述べている。表現主義派は大塚康生、宮崎駿、高畑勲といった東映動画出身の人間たちであり、物語主義派はりんたろう、安彦良和、富野由悠季といった虫プロ出身の人々である。

アニメビジネスがわかる:
アニメビジネスがわかる本34

 こちらのブログは面白い記事がてんこ盛りで、あちこちと興味深く読ませてもらったんですが、上で引用した記事には、“アニメ様”こと小黒祐一郎さんご本人から「訂正」が入ってました。

 それから「七〇年代のアニメ作家たちは……」の話だけど、これはどこかのパーティで言った話。多分、どこかで勘違いされている(増田さんの勘違いではなく)のだろうと思うけど、りんたろうさんを始めとする虫プロの人達が「表現主義」だと言ったはず。
 以下はパーティで話してない内容かもしれないけれど、この考え方で言うと、富野さんの立ち位置が曖昧だ。富野さんのスタイルは虫プロ出身なのに「表現主義」的ではない。だから、富野さんはアニメ界の主流になる作品は作ったけれど、虫プロの流れの中では主流ではない。という話。
 念のため、訂正。

編集長メモ:
増田弘道さんのブログ「アニメビジネスがわかる」

 東映動画系、虫プロ系というのはよく言われる話なんですが、「表現主義」「物語主義」という言い方を聞いたのははじめてで、もし最初からそういう対比なのだったら、語感から言って「勘違い」の発生も無理はないという印象。でも「どこかで」勘違いが、ということなので、伝言ゲームの途中で、違うプリズムの通過時に屈折が生じたものなのでしょう。「表現~」のほうにしか訂正記事の中で言及をしておられないから、もしかしたら「物語~」というほうは途中で誰かの解釈した尾ひれがついたということなのかも。
 まさに伝言ゲーム恐るべしなんですが(笑)、そもそも“アニメ様”が「りんたろうさんを始めとする虫プロの人達」を表現主義的と名づけた、その意味は、ぜひ聞いてみたいと思ったのでありました。

 ところで、

保守本流という言葉がよりふさわしいのは東映動画でした。

・・・というのは、先日Nishinomaruさんからいただいたコメントの一節なのですが、アニメーションらしいアニメーション(いわゆる日本的な“アニメ”ではなく)としての本流は、東映動画系にあるんだろうなぁと私も思います。というところで、じゃあ虫プロ系とかっていったいなんなのかという話です。

言い得て妙であるが、日本のビジュアル大衆文化はマンガに集約され、一方アメリカは映画がその位置を占めている。氏が言うように日本の大衆的エンタティンメント・コンテンツの頂点にはマンガがあり、そこからアニメやテレビドラマ、映画が派生して行く。一方、アメリカでは映画が頂点にあり、ついでテレビアニメやコミックといった二次著作物が発生するが、そこが日米の映像エンタティンメントの大きな違いと言えるであろう。

アニメビジネスがわかる:
アニメビジネスがわかる本32

 上記は、宮崎駿さんの著書『出発点1979年~1996年』を増田さんが紹介した文のまとめなんですが、宮崎監督がテレビアニメ的な過剰表現(つまり虫プロ的表現、でしょうか)を“講談”に喩えたのを受けて、「日本のアニメには伝統的な大衆文化の影響が垣間見られる」と述べておられるのが面白く。
 そうして、アメリカの“映画”に対して、日本の“マンガ”について宮崎さんが、「アメリカ社会で、いちばん社会全体を繋いでいるのは、マンガじゃなくて彼らにとっては映画なんです。日本は多分、テレビとマンガがそれを担っていて、映画の方は隅っこの方にいっちゃったということだと思うんですね」と書かれていたのを上記のようにまとめてあります。
 “日本のビジュアル大衆文化の頂点は、アニメじゃなくマンガ”という見方についても、たぶんそうなんだろうなと思います。伝統かどうかはわからないですけど、マンガには浮世絵だとか、何か歴史を辿ってもよさそうなルーツがあるのも面白いですよね。
 仮に、日本では、その大衆文化の伝統の底力的に、虫プロ的な表現も認められる素地があるということを、宮崎監督は(不本意かもしれないけど)言っているのだとすると。“アニメーション”的には東映動画系が本流だけれども、“大衆文化”的には虫プロ系が本流となる目があるということなのかもしれないですよね。

 そこで虫プロ系の中では異端児扱いの富野監督の立ち位置なんですが。“アメコミ風”とよく言われるタツノコ系との親和度が高いんじゃないかと、私は前からぶつぶつ言っているわけです(笑)。
 そういう意味で言うとアメコミは、“映画”を頂点とするアメリカ的な文化風土の産物なわけで、富野監督的にもピタッとはまっている気がするんですよね。
 ただそうイレギュラーな位置づけにおさまってしまうと、アニメ様に「富野さんはアニメ界の主流になる作品は作った」って言ってもらった立場はどうなっちゃうのかです。まあ、ぶっちゃけ、その辺のアンビバレントなところが魅力と言えば魅力なんですけどねー。(笑)

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『火の鳥』復活編・異形編 

[2007/11/29] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 今日は珍しく「これを観たい」という作品が決まっていてレンタル屋さんへ行ったんですが、こういう日に限って、それはレンタル中。こうなると、流浪の民でありまして、あれでもないこれでもないと、さんざん悩んだ挙句に借りてきたのが、なぜかこの一本になってしまいました。

火の鳥 復活編・異形編火の鳥 復活編・異形編
(2006/07/28)
竹下景子、松本保典 他

商品詳細を見る

 手塚治虫の原作マンガ『火の鳥』は、あの『地球へ・・・』と同時期に『マンガ少年』に連載されていて、大判の単行本で何度も何度も読んだ作品でした。手塚治虫という漫画家が、私は好きなのかどうか、これは昔からよく分からないなぁと思っている対象だったりするのですが、『火の鳥』は別格で、絵がどうであっても、このストーリーにはどうしようもなく引き付けられるものを感じていました。

 今回観たアニメ版は、2004年にNHKで放送されたもので、監督は高橋良輔さん。本当は、『黎明編』全4話が先にあって、次がこの『復活編』、『異形編』だったんですけど、『黎明編』はマンガの記憶が強すぎたのと、『異形編』は物語を知らなかったので、全部観るかどうかはとりあえず保留という感じで、これを借りてきて観てみることにしました。

 『復活編』は、よく覚えているストーリーだったんですが。まあ、とにかくひどく肩が凝りました。肩に力が入ったと言いますか。そういうストーリーなんで、どうもこうもないんですが(笑)。
 『異形編』のほうは、そういう意味では、抵抗なく観ることができて、かなり楽しかったですし、オチが分かっているのは不幸なことなのかなぁと。ただ、原作マンガは何度でも何度でも繰り返し読んで飽きなかったという記憶もあり。
 考えてみれば『復活編』は、そもそも原作のときからして、このキャラクターがあまり好きではなかったと、見ながら思い出しているような感じで。もう一度見直せば、ちょっとミステリー仕立てふうの組み立ては、決して悪い狙いではありません。それでも、『異形編』も最後に物語の構図が明らかになる構造ですが、個人的に私が話の先行きが分かっていなかったことをのぞいても、こちらのほうが上出来なのではないかと感じられました。

 と言いつつ。マンガ原作とアニメの関係、そのすわりの悪さのようなことも考えたりしていましたが、物語を追う中で、何かそんなことはよく分からなくなっちゃいました。高橋監督で、今のアニメの技術だったら、もっとまとまり良くやれそうな気もしたんですけど、特に『復活編』のほうは、この“割り切れない感じ”そのものが原作の持ち味だったりもしますしね。(うぐぐぐぐ・・・。)

 原作マンガの絵の雰囲気は、「Tezuka Osamu@world」の中で見ることができます。

→ 「復活編」 (場面カット
→ 「異形編」 (場面カット

 それと、各話の予告編を「NHKアニメワールド」内で見ることができますので、よかったら絵の雰囲気の違いを見てみてください。

 ああ、そうか。良輔監督は時代劇好きなんでしたね! 『異形編』が魅力的なのは、そこもポイントなのかもしれません。あと、男装の麗人の入浴シーンは、NHKだけあって控えめ表現なんですが、そこがまた何とも良い!(笑)

 しかし、この作品はいったいどういう視聴層を想定して作られたものなのでしょう。子ども向きでもなければ、アニメオタク向けとも言えないような。NHKならではの作品だったのかもしれませんね。『火の鳥』という名作マンガそのものが、壮大な実験性を持っていたということもありますが、この作品も“虫プロ的アニメ”の現在形を示す実験作だったのかもしれません。
 で、どうも私は純粋虫プロ系ではなく、かといって東映動画系でもなく、あえて言うとタツノコ系のアニメが、なぜか一番体質に合っているのかもしれません。あくまで個人的な趣味の話ですが。

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