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“エレガント”になれない私・・・。 

[2006/04/12] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 “競争”の話題について、バルタザールさんとラジヨさんにコメントをいただきました
 自然界のことを考え始めると、競争っていうのは一度はじめたら、ある程度“生死を賭けた”ところまでいかないと勝負が付かない。だから無用なところでは、めったやたらと競争をおっぱじめたりはしないってことなのかな、と思ったりしました。
 それに比べると人間は競争好きなのかもしれないんですけど、毎度生死を賭けたところまでやり合ってちゃ身がもたないから競争の“ルール”を決めようとする。ところがそこで、“ルールの決め方”を巡る競争が、往々にして、また生じる。
 で、このループを延々繰り返していくと、今の世の中で生死に関わるものといえば、シンプルに考えるとかなり“お金”?しかし「どの時代どの国でも通用する通貨はない」のだから、これとて絶対的なものではない。だからといって、じゃあ腕力(国レベルでいえば軍事力)なのかよ、とまで考え始めたら、この世は闇ですな。
 「大人の男が子供と遊ぶ時間が多い社会ほど豊かである」という定義は素敵ですね。しなくてもいい競争を最小限に抑えることが、ルールの中でも最重要なものであるのかもしれず、それはそのまま自然界の在りようであるのかもしれない、などと思いました。
 “モヒカン族”の話のほうへ繋げていくと、たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法(全体最適化)というのは、その“しなくてもいい競争”を最小限に抑えるためのルールのことですね。
 WEBの話は分かりやすいんですが、HTMLの書式は共通規格だからこそインターネットが成り立つ。なのに、マイクロソフトもネットスケープも自社のシェアを増やすために、自社のブラウザでしか表示できない機能を搭載して他社との差別化をはかった時期があった。・・・エレガントな競争じゃないんだよなぁ。だから機種に依存しない本当の共通規格を決めようよ、というのがW3C(World Wide Web Consortium)なのだそうです。(雑駁な知識ですみません。)
 で、CSS( カスケーディングスタイルシート)というのは、HTML文書の文書本体の部分と装飾の部分を別々にするために同じくW3Cで規格化された、ものすごく合理的な機能です。ただ、現在世界中で使われているウェブブラウザの実数全体の中で1%以下だと聞きますが、CSSに対応できない機種があるのだそうです。これこそ「たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法」だと思うんですけど、ごく僅かとはいえ、その幸福から除外されちゃう人がいる。それを当然だとか、やむないとか言って切り捨てた時点で、ある意味では差別・抑圧への加担なのだという認識は持つべき・・・なのでしょうね。
 というわけで、スカルさんはもしかしたら私以上にモヒカン度が高いようですが(笑)、モヒカンで手斧を持った原理主義者と傍から見えるのも不本意じゃありませんか。
 「合理的」ってのは有力なんですけど、「理由があるから、これはこれでいいんだ」にならないようにお互い気をつけましょうよ。(「真偽の二項対立そのものを脱臼させる」ってのは、案外私の得意技のような気がします。)
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一番幸福になりたい?みんなで幸せになりたい? 

[2006/04/11] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 競争社会の話のほうを「おたく」な話と分けて書こうかと思いましたが、のりのり先生(もう、先生と言っておこう。 笑)のコメントで、すっかり話はまとまってる気がしますね。「本筋を短くコンパクトにまとめることができなくて」と謙遜なさいますが、それはここの管理人の最も苦手とすることです(笑)。お時間の許す限り、追加講義をよろしくお願いします。
 「結果平等」と「機会平等」ですか!なるほど公正な競争であれば、人はみな同じスタートラインに立つべきですよね。(余談:近頃、世の中では学歴社会は崩壊したことになっているのですか?そういう言説を耳にすることはありますが、地方在住者には、なかなか実感のわかない話です。)
 「質」についての競争に、ルールが成り立つかどうか。

では、作品の質は?
例えばその作品分野の評論というものが熟成されて多くの人の間で価値観が共有されていると質のよしあしは分かりやすいでしょうね。そうでないものは類似の評価基準を援用することになるでしょう。


 納得です。例えばアニメについて、私がネット上で交流させていただいている人の中の幾人かは「評論」を確立させようと努力しておられると思いますが、多くの人の間で共有される価値観にまで至るのは、容易なことではないようです。
 私自身なんてのは、評論なんてものじゃなくて、個人的満足度の話しかしてない典型なのだと。それだけに、作品の質と満足度は必ずしも一致しないというのは、実感としてよく分かります。(質というものは、一般には完成度とか、さまざまな視点からの総合点で語られるものでありましょうから。)

あと、競争云々については 
例えば 幸福の量が一定で それを奪い合うタイプなのか、
特に幸福の量に制限はなく、一番幸福になった人が相対的に勝ちというタイプなのか、なんていうのを考えてみるといいかもしれませんね


 競争には勝ち負けは付き物ですが、奪い合うタイプというのは勝者だけが幸福な競争、逆に言えば「負け=無価値」のものですね。
 「一番幸福になった人が相対的に勝ち」のタイプの話をしているときに、判定のしようがない「俺こそ一番幸福だ」という主張を互いに闘わせているのだとすれば、傍から見れば滑稽な話でしかない、と。
 相対的幸福の話で勝ち負けにこだわりすぎるのも困りますが、あまりに他人に無関心でもまた困るから、話はなかなか難しいですね。
 少し話題は変わるのですが、「モヒカン族」という言葉を恥ずかしながら今日はじめて知って、これもなかなか・・・考え込んでいます。
 その話は、今度また。

おたくの階層化・・・? 

[2006/04/11] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 管理人の優柔不断で話題が拡散していってしまってますが、“オタク”の話も“競争社会”の話もそれぞれ面白いし、離れてみては、また絡んでくるような部分もあるので、このままずるずると継続の方向で。(笑)
 ラジヨさんが紹介くださったような、「おたく以前のアニメ・特撮マニア」たちっていうのは、特にコミケを立ち上げた人たちなんかはマニア中のマニア(ハードコア?)という印象で、私みたいな「ぬるいファン」からは、むしろ尊敬される存在だったと思います。これはWikipediaでいうところの「アニメブーム(1970年代後半 - 1980年代前半)」のことになるんでしょうかね。

 宮勤容疑者逮捕直後の 1989年8月、TBSのワイドショーの女性レポーターが、コミックマーケットに集まったオタクたちを指して、生中継で「ご覧下さい。ここに10万人の『宮勤容疑者』が居ます!」と発言し、偏見報道としてオタクから非難を浴びる(女性を中心とした一般人は擁護したが)。


 ひぇー。そんな歴史があったんですか。知りませんでした。
 従来のオタクが抱えていた、マイノリティとしての弱みが払拭されていったのは1990年代後半で、その要因には、「人口の多い第二次ベビーブーム世代が就職などで購買力を持ったことなどが考えられる」ってのはナルホドって感じです。

 社会性があり、なおかつ外見のよい(だらしなくない)オタクはサブカルチャーの愛好家として社会に受け入れられる一方、外見のよくない、特に男性のオタクが、社会から拒絶され、社会常識の欠落した者とみなされるようになった。後者をさしてキモヲタ(気持ち悪いオタク)なる言葉も生まれた。


 今、起きている現象は、傍からみれば「オタクの中での階層化」ですか!やっぱりWikipediaは面白いですね。(海外でのアニメ事情についても詳しいですけど、「おたく」全般の話題にしては、アニメ関係に特化した話が多いかな?)
 はてなのほうが語源には踏み込んでますね。

蔑称(差別用語)として定義されたもの。当時あった流行語「ネクラ(根暗)」の発展系と考えていい

・・・という、この辺の用語感覚が、私やスカルさんやラジヨさんあたりの世代の共通認識なのでしょう。(41さんの場合などだと「仲間内でのダメ人間ぶりを揶揄する表現」という雰囲気でしょうか。)

 団結の旗印の掲げ方を考え直す必要があると思います。

とラジヨさんが言われるのは、傍から見たときひとくくりに“おたく”と総括されないような、ぶっちゃけキモヲタを排除した旗印ってことでしょうか。(意外と微妙~。)

 「モテ」か「非モテ」か異性への媚態の有無が重要な要素なのである。男子の趣味のうち、異性への媚態が目的の趣味は「おたく」ではなかったのである。
Sapporo Life 「おたく」とは何か?

・・・のような興味深い指摘もありますが、あまりに長くなりますので、いったん切りますね。

「量より質」という話は競争には馴染まない? 

[2006/04/10] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 日曜の夜恐るべし。読み応えのあるコメント多数。・・・しかし、こんなにコメンテーターの皆さんに、何でも教わっている管理人でよいのか。(汗)

・頑張って、頑張って、頑張り抜いて負けても、その負けには価値がある
・ただし、最初から競争を否定した所には、なにも生み出さない
・そこの「負け=無価値」という価値観自体が競争原理を理解していない
・徒競走でみんな一緒にゴールして「平等」というような、偽りの平等は要らない
・一番の問題は「負け=無価値」という誤りがまかり通っている事
・一度の敗北で終りにしたがり過ぎ。生きてる限り、頑張って何が悪い。生きてる最中に結果を勝手に出すなって言うの。


 スカルさんの考えている「競争原理」というものが、やっとわかりましたよ。うーん。競争と言うと、頑張って最後に勝つって言うより、うまいことやって人を出し抜くってイメージが強かったので、すごくイヤだったけど、スカルさんが言うような、そういう競争なら分からなくもないなぁ。というより、頑張ったかどうかを知っているのは自分だけだから、自分に負けたくないと言う意味では私と同じことを言っているのかな?

・経済成長を加速する一因として、モチベーションとして勝利者がより大きな利を得るというシステムは有効ですが、その結果、経済的に有利な分野に資源が集中してしまいます。
・市場のメカニズムに任せていては失敗するもの(失敗するものにはいくつかのタイプがあります)で、かつ社会的には必要なものに対しては公的部門が直接行うか、なんらかの支援策を打つ必要があるものもあるでしょう。


 おぉ、なるほど! 競争が有益か有害かは経済に関してはそう考えれば分かりやすいですね。のりのりさん、「本職に近い講義」ありがとうございます。「してもしょうがない」と見捨てないで、こんな本読めとか、こんなサイトなら囚人さんのレベルでも参考になるだろうとか、是非また教えてやってくださいまし。「大半の人が、十分に食べていけるだけの世の中、分野を前提にしている」という指摘にも唸りました。敗者は飢えて死ぬような競争の話とは、たしかに別次元の話をしていることは認識すべきでしたね。

そもそも「競争」自体が成り立っていない状況についてまで「勝ち組・負け組」の話に加えているのではないか?


 心情的に違和感がなかったので、ついつい出だしの部分から、趣味嗜好の例示に引っ張られてしまっていました。
・“量より質”という基準で、本当にルールのある競争になり得るのか?(勝ち負けを決めるのがルールではないのか?)
・質についての競争の中で、参加者の間で共有できるルールを成立させられるのか?
 私のレベルで勝手に整理すると、どうも、こんなような問題みたいですね。(できの悪い生徒かも)

 えーと、長くなったので、続きは稿を改めます。

今日は珍しいぐらい、ただの日記 

[2006/04/09] | ブログ日記 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 北陸路にも遅い桜前線がようやく到達。
 今日は愛車の冬タイヤを夏用に交換する予定だったのですが、ちょっと運営をお手伝いしているボランティア(NPOっていうのかな?)団体のホームページが調子悪いと言うので、貧しいHTMLとCSSの知識をフル動員して一生懸命メンテナンス中であります。
 ウェブのバリアフリーというのは本当に難しいですね。基本的には「正しい」HTMLで書いてあれば、どんなブラウザでも「正しく」表示されるはずなんですが、世の中で出回っているホームページやブログで、「正しい」HTMLで書いてあるところなんて、めったにお目にかかることがない。
 このブログでも、間違ってる部分があることは分かっているんですが、素人のユーザーレベルで直せるものじゃなさそうなので、あきらめています。普通の言葉遣いとおんなじで、少しぐらい間違ってても、ほとんどの相手には意味を汲み取ってもらえるんですが、一部の相手には、ささいな言い間違いで全然意味が通じなくなってしまうことがあるんですよね。
 まぁ、それもこれも勉強だ!(笑)

 「勝ち組負け組」の話には、「競争社会」について両極端なコメントをいただきまして、そういうものなのかなぁと。
 個人的に私なんかは、スポーツでさえ「結果が全て」ってのは大嫌いな性分です。そういう指導者ばかりでなければ、もう少しスポーツ好きな青春を過ごすこともできただろうに、などと思ってみたり。

 受験生時代にも、なぜ競争させられなきゃならないんだろうかと、悩まないでもいいことでくよくよして、ずいぶん無駄足も踏みました。その頃にたまたま目にしたキャッチコピーで今でも好きなフレーズがあります。
“Try Your Best!”
 こんなもの、とても月並みな励ましなんだろうなと思いながら、ついついだらけてしまう自分に負けないように、自分に言い聞かすには、なかなかいい言葉でした。人と争うのは今でも嫌いです。ただ自分には負けたくない。そう思えば、自分なりに頑張ってベストを尽くしたとさえ思えれば、結果がどうであっても悔いは残らない。
 そう言いながら、振り返って考えてみれば、ベストを尽くせなかった悔いも多々あるのですが、それよりも今、悩むのは、自分はこれから何に向かってベストを尽くしたいと考えているのか、答えが容易に見つからないことのような気がします。それはつまり、人はどうあれ、自分なりの価値基準を持とうと考えてきたはずなのに、それが必ずしもうまくはいっていないということなのでしょう。(それでも人からは、“偏屈もの”“頑固者”とよく言われますがね。 笑)

 あぁ、こんなことをしている間に、陽はドンドンと傾いてゆく。人間とりあえず、やれることをやれるうちにやらなきゃ駄目ですねー。(苦笑)
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