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富野監督と「純愛」の話 その3 

[2006/10/24] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(12) | TOP ▲

 富野監督と「純愛」という話題で長々書いてきましたが、今回で終わりです。(→その1 その2
 今まで見てきたとおり『新訳Z』の制作にあたり、富野監督が意識して、「こういう時代だからこそ純愛を掲げた」というのは確かなことのようです(ルロイさんのご指摘どおり)。しかし、もうひとつ分かることは、どうもこの方は、世間一般で思うところの“純愛”観の持ち主ではないんじゃないかということも見ておかなきゃならない気がしますね。
 以上を整理したところでもう一度、この記事を見ていきます。

WPB2006年2月14日号 富野由悠季×矢口真里「監督さんと“恋バナ”をするのだッ♪」:シャア専用ブログ

矢 しかも3月に公開されるパート3のサブタイトルは『星の鼓動は愛』。愛ですよ、LOVEですよ!
富 フフフフ(微笑)。
矢 それって、今の若い人に対して、恋愛ってものすごく重要なんだよっていうメッセージなのかなぁ、なんて思ったりしたんです。やっぱり、最近の若者たちの恋愛観にひと言いいたい!みたいなことってあるんですか?
富 特にはありません。さらに言ってしまえば恋愛はもちろん、学歴や年齢のことも気にならなくなっている。……ただし、今の30代が恋愛にアップアップしていて、一生シングルかもしれないという話を聞くにつけて、もう少し当たり前に考えたらいいんじゃないですか、という事は言い方はしたい。


 「恋愛ってものすごく重要なんだよっていうメッセージなのかなぁ」というのが普通の受け止め方なんでしょうが、明確にそれを否定はしていないけど、以下の言葉ではそれとは全然別の話をしているんですよね。だいたい「最近の若者たちの恋愛観にひと言いいたい」のかと聞かれて、特にないと言いながらも実は、恋愛にアップアップしてないで、もう少し当たり前に考えろと「ひと言」以上に語りまくってるし。(笑)

矢 私もお見合いは悪くはないと思います。出会った瞬間に、お互いが「これは……運命の出会いだ!」なんて感じたら、すごくステキだと思う。だけど、今は恋愛結婚の方がスタンダードじゃないですか?
富 そう。現代の結婚は恋愛あってのものだと考えられている。まさに恋愛至上主義なんです。
矢 あー。私も恋愛至上主義かもしれないですね。女のコって、やっぱり16、17歳になると、自然に「好きな人と一緒になれたらなぁ」なんて思うじゃないですか。しかも周りの友達が結婚して幸せになっていく姿を見てたりすると、フツーに意識しますよ。恋愛結婚っていいなぁ~って。
富 確かに、「恋愛感情のない結婚なんて気持ち悪いじゃん」っていう言い方もあるでしょうね。だけど、それはよほどいい巡り合わせがあったからフォーリン・ラブになれるんであって、なかなかそうはいかないでしょう? 100組のカップルがいて、80~90組ぐらいまでは、「まあ、こんなもんだ」と思って結婚したという人のほうが多いんじゃないのかな?
矢 うわっ、監督、痛いところ突いてきますねぇ~(笑)。
富 結婚、つまり、性別が違う人と一緒に暮らすというのはもともとが折り合いが悪いものなのよ。それをなんとか定置をして、子供を生んで、家庭を維持して、なおかつ死ぬまで一緒だったりする。そういう他者と折り合いをつけて暮らしていくのが、結婚であり、人間であり、世の中なんです。


 これね、今の世の中の主流は“恋愛至上主義”だから、反発を持つ人が多くいるのは当然だと思うんですよ。
 それを踏まえて、『星の鼓動は愛』のラストについての「遠くの1万円(レコアとかエマとかフォウ)より、手持ちの5百円な感じ(カミーユの妥協の産物感)が…するのですが…皆さんあんなラストでOKOKなんですかね?」という、ねもさんのコメントも、そういう立場から見た本質的な反発だと思います。
 しかし、ここで反発を感じてしまうことで、自分の中の“恋愛至上主義”があぶりだされるという、実はそういう構造になっているんですよね。知らず知らずの間に“主義者”になっている部分があるのではないか?――そのとおりに考える必要はないけれど、わずかでも各自の“純愛”観を振り返ってみるきっかけを提供できたならば、それはそれで「表現として成功している」といえるんじゃあないかと私は思うのですよ。
 もうひとつ、反発を買うことをあえて言うと、ヘンケンとエマの関係とその結末を、“純愛”のひとつの帰結として考えたときに、「戦場で、戦場ではしゃいでるから…お調子者……。くっ!!」という直後のカミーユの台詞は、私にはやはりこの二人のありようにも重ねて投げかけられた言葉だったと、やはりその考えからはどうしても抜けられません。(→男の死に様とヘンケン艦長の死
 前にも書きましたけど、「恋愛は神聖にして侵すべからず」というところの弊害で、アップアップしているのはどうなんだろうかと。このとき私は“恋愛資本主義”への反発のようなことも併せて書いてしまったんですが、今考えてみると、その反発も少し“恋愛至上主義”(さらに言えば“純愛原理主義”)の思想に毒されている面があったかもしれないと反省されます。
 そういうものに多少流されてしまう部分も含めて、「恋愛というのはもう少し下衆なものだと考えてもいいんじゃないか、それを下衆に扱ったと非難するのではなく、誰もが普通に持っている願望として、コミュニティはもっと素朴に祝福してもいいのではないか」というほうが、より大切なことだったかもしれないな、と。
 『星の鼓動は愛』は生ぬるい現状肯定だったという評がありましたが、“現実直視”と“現状肯定”の境界線をどこに引くのかという問題なのだと思います。
 手の届かないところにある1万円を夢想し続けているより、今、目の前にある500円を大事にするところからはじめてみればどうだろう?…と書いてしまうと、常識的で当たり前のつまらない表明のように見えますが、それが反発を買うものであればあるほど、実は、生ぬるい肯定ではなく、思いがけない問題提起になっているのではないかと。




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「向上心」考(生きて戸惑い動揺する教養) 

[2006/05/31] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 「教養」という、似合わないことをこの間しばらく考えてきました。教科書は、高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)。もともとは、「Ζガンダムはビルドゥングスロマン(教養物語、成長物語)としてどうなの」という話から、思えば二ヶ月以上以上もかかってここまで来たんですが。(笑)
 第1章の標題は「男の子、いかに生くべきか」でした。
 自分自身を作り上げるのは、ほかならぬ自分自身だ。・・・正直「なるほど」が半分で、「へぇ、教養って本当はそういう意味なんだ」が半分だったわけですが。第4章まできて、その残り半分の正体に気づかされました。最終章は、女性にとっての教養の話(ちなみに著者も女性)なのですが、これがまぁ、格別に「いやったらしい」話柄。(笑)
 第1章で語った教養の定義は「男子たるもの」の生き方の話だったところがミソでありまして、これに対し、久しく女性にとっての「教養」という言葉は、「お育ちの良さを表す目印」だったという、なかなか今どき口にするのがはばかられるような歴史的経緯が記されております。私みたいに学のない人間は、実は「教養」と言われると、こっちのイメージのほうがパッと浮かんでしまうという・・・。

 アイデアは熱いうちに打たないとしぼんでしまうと言いますか、『Ζガンダム』の男性原理VS女性原理の話を、この話の延長で読んでいくとどうなるんだろうか、ってのが私の関心だったのですが、ちょっとネタを寝かしすぎちゃって、うまく言葉にならないんですけど。

 自己形成を目指したいというメンタリティの根本にあるのは、「心貧しく何かを求め続ける」気持ち、すなわち、今ある自分に満足できない焦燥感なのですね。(これは格別、男性だけの特権ではないのは言うまでもない。)
 ただ、それは貧しさに立脚しているという事実も直視しなければならない。つまり教養主義というのは、ブルジョア的視点からは「身の程知らずの上昇志向の落ち着きのなさ」だし、一方、庶民的存在には、「自分たちを置き去りにする裏切り者のエゴイズム」なのだという。
 いわば、「教養」を求める向上心というのは、「成り上がり根性」と背中合わせだという指摘なのですが、それはそのまま「近代日本そのものの姿」(その根性の消滅が日いずる国の没落) でもあったと。

 世の中全体が右肩上がりのときは、それでもよかったのですよ、たぶん。しかし、今はそうではない。
 そこで自身も女性である著者は、今日の教養(いかに生くべきか)を考えるべき最前線に立っているのは女性であるという指摘で筆をおいています。(・・・んん?結論は? 笑)

もし、教養や教養主義にたいする筆者の態度がいま一つ明確でない、批判なのか擁護なのかよく分からない、と感じられるとしたら、それは、人間をその複雑さのままに示してみたいという本書の願いから来ている。教養は、もちろん、この人間の複雑さと切り離しては考えられない。


 これはあとがきの中にある言葉です。私はこの態度は富野アニメの人間観ととても近いものだと感じました。(女の時代が来る、というシロッコの説を別にしても。 笑)
 筆者は続けて、おそらくこうした態度の例として、大西巨人『神聖喜劇』の主人公が「いろいろたくさん私にわからぬことがある」と正直に混乱を告白することについて記しています。

 人間描写の細部のリアリティは、われわれが日々体験する、厳粛と言っていいのか滑稽と言っていいのか、笑っていいのか泣くべきなのか分からない、まさにグロテスクな状況を映しだす。
 そして、そのように細部が積み重ねられるほど、人間をよく掴めなくなるのだ。これは、主人公じたいの感覚である。


 この部分は、私たちにはまるで、『Ζガンダム』の批評のようには聞こえませんか?(笑)
 「確固とした理念としてではなく、生きて戸惑い動揺している教養」という言葉に、私はとても感動をしました。

 「自分自身をどう見るか」が男性原理の教養だったとすれば、「他者にどう見られたいか」「他者をどう見るか」はやや女性原理的(と思われてきた)な教養論になりがちなわけですが、社会全体が頭打ちな現況の中で、人を差し置いても自分(だけ)は向上したい、という願いはしばしば壁に突き当たります。(下手をすれば、あの宗教の人々のようにさえもなりかねない。)
 ・・・私の下手な言葉でまとめてしまうのは、どうなのかなとも思いますが、それはつまり、人と人との関係の中で、戸惑いながら、動揺しながら、しかし互いの向上を飽かずたゆまず希求し続けるというようなことなのかな、というような感想を私は持ちました。
 つまり『新訳Ζ』というのは、そういう今日的なビルドゥングのあり方のひとつの真摯な模索だったのではないのか、と。(そして、それは断じて微温的な「現状肯定」ではない!)
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