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未来少年コナン 第1話~第6話 

[2006/09/01] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

未来少年コナン 1 未来少年コナン 1
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 絵づらを入れたかったので、DVDにリンク貼っておきますが、Yahoo動画で見ました。

Yahoo!動画 - アニメ - 未来少年コナン

 無料配信期間は2006年7月20日~2006年9月30日ということだそうです。パソコンを買い換えたおかげで、やっとネット配信の動画が見れるようになり、まず真っ先に見始めたのが『未来少年コナン』! (→未来少年コナン - Wikipedia

 …はっきり言って寝不足ですよ。(笑)
 ネットってのは、ほんとにどんどん進化してるんですね。少なくとも無料で見られるだけでも、こんなにいろいろ番組があるなんて。とりあえず、どんなものをチェックしているかは、またそのうちご報告します。

WEBアニメスタイル_COLUMN アニメ様の七転八倒 第69回 宮崎アニメがイケていた頃  
 
 ここにも書かれているけれど、私が直撃された第一次アニメブームの中では、宮崎駿という作家はマイナーな作り手でした。前にも書いたかもしれないけど、ブームに舞い上がっていた当時の私たちに、『未来少年』と言いながら全然SFらしくない、この作品は(メカも変だし)、当初かなりの違和感を持って迎えられました。最初の感想は、「やっぱりNHKはだめだね」だったと思うのですが、それが最後には「さすがはNHKだ!」に変わっていって、でもコナン終了後に始まった『キャプテンフューチャー』を見て、再び「?」に転じたというのも今では懐かしい思い出です。(本当を言えば、キャプテンフューチャーも案外マニアックに楽しんで見ておりましたが、やはりコナンとは格が違いました。)
 とにかく『未来少年コナン』こそは、私にとっては「アニメって…?」と考え込まされる契機となった衝撃の一作でした。

第1話 「のこされ島」
第2話 「旅立ち」
第3話 「はじめての仲間」
第4話 「バラクーダ号」
第5話 「インダストリア」
第6話 「ダイスの反逆」

 この作品などは、ほとんど全部のシーンの展開を覚えているわけなんですが、今見てもわくわくどきどきするし、面白いですよね。特に第1話、第2話あたりは正直に言って絵があまり良くなくて、コナンの顔や体型、ラナちゃんの顔も「これは崩れてるな」と(作画にはうるさくない私でさえ)思うシーンがいくつかありました。当時の私は、週ペースでこのクオリティのアニメを制作していることの異常さをまだ知らないころでしたから、「へぼいアニメだ」と思ったのかもしれないですが、今考えて見ると、制作の進行につれて(普通は中盤以降だれてくるものだと思いますが)、その後こうした崩れが逆にリカバーされていくことの奇跡のほうを思いますね。
 それにしても、とにかくよく動く。「漫画映画」的に強調・デフォルメされたアクションが随所に盛り込まれていて、最初は「うそ~、ありえね~」と感じるわけなんですが、慣れてくるに従って、それが快感になってくる。(この辺は作画監督の大塚康生さんの力が大きいとも聞いたことがあるような気がしますが。)

 とにかくコナンは条件反射的に楽しんでしまうことに抵抗しがたい魅力がある作品なんですが、大人になった今の目で、あえて批評的に観ようと努めてみると、おじいとの別れのシーンは『太陽の王子ホルス』そのまんま過ぎるし、動きのコミカルな面白さも様式化されているというか、『カリオストロの城』や『ナウシカ』にそのまま応用されているものが多く見受けられます。
 ストーリー的にどうかというと、今回はじめてそう思ったのですが、全体の進行がとてもゆっくりしているのですね。めまぐるしい画面の動きで全然そんな印象は持たなかったんですけど、そこで起きている事件は比較的シンプルで、どちらかと言えば“活劇”の背景に過ぎないという位置づけであるかのようにも感じられました。(最近、富野アニメばかりを見ていたから、余計にそう思うのかもしれませんが。)
 子ども用公式サイト絵本風に描かれた各話ストーリーで、けっこう簡潔に要は言い得ているというのは、ある意味なかなか凄いシンプルさであるとは言えないでしょうか。

 「ラナ?それって食えるのか?」(byジムシー)

 そうこう言いながら、とにかく何度観ても声を出して笑えて、爽快な気分にさせてくれる作品というのは、やっぱり凄いと思います。9月いっぱいで全話見なければならないわけですが、当分は睡眠不足が続きそうな予感です。(笑)
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人間の「思考の欠陥」 

[2006/06/18] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

気になったのは、どこかへ動画をアップロードしても映像の製作者には収入がない=自分の好きな作品を作っている人の利益にならない、ということへの無理解が多すぎないか?という問題です。
(ラジヨさん)


 例のyoutubeの問題についてのコメントをいただきました。
 「作品を好き」で見ている人と、作品をネタに仲間とコミュニケーションが楽しければいい人の違いなのじゃないでしょうか。私たちはおおむね前者ですが、世の中には案外、後者のほうが多いということなのかもしれません。
 言われるとおり、WEBでアニメを配信するシステムは、うまく機能すれば、もっと低料金でもっと良質な作品を数多く紹介することができ、クリエイター側にも視聴者の側にも利益をもたらす福音になるんですけどね。こんなことをやっていたら、企業側はもっとあざとく儲ける方法を工夫してきて、悪循環になっていってしまうのではないかと残念です。

もしかすると、宮崎アニメが、ある意味で『「語りたい」意欲』を削いでしまうのでは、指摘のとおり、宮崎監督自身が、アニメ作品を「駄菓子屋の商売」とあきらめてしまっていることと密接な関係があるのかもしれません。


 宮崎監督への愛憎入り混じる思い(笑)を語ってしまったところへyasuakiさんからコメントをいただきました。「駄菓子屋」っていったいどういう意味で使われた言葉なんでしょうかね?

富野アニメでは、敵との戦いよりも、むしろ、仲間との内輪もめや、ライバル心が多く描かれます。
また、ひとつの国や民族が起こす戦いが、集団的なロジックではなく、個々人の様々な意識(嫉妬や、個人的な欲望や、利害など)の積み重ねにより、結果として、誰も意図していない方向に組織として展開していく様子がよくわかります。
(yasuakiの新批評空間:正しい解釈について


 富野アニメでは、組織と個人のせめぎあいがテーマとなるのに、宮崎アニメでは、組織はテーマとはならないのは、宮崎アニメでは、主人公は、常に組織から外れているから。なるほど。そしてそれは宮崎監督が背負ってきたものに由来することではないかと。
 確かに未来少年コナンでもルパン三世でも、主人公は組織では動きませんね。ナウシカもそうだ。組織から超然としているところがいいところなのですが、観念的になってしまいかねない部分でもあります。
 なのに宮崎アニメは、大衆の支持を受ける。
 「人間の思考能力には限界があり、個人の集合体としての組織をイメージすることは難しい」
 「人間の思考能力の特性として、無理やりにでもいくつかの事象に論理的な整合性をつけようという傾向」がある

 最近の宮崎監督は、この辺のことをよく理解していて、ちょっと突き放したところで作品を作っておられるということなのでしょうかね。私は「漫画映画」という言葉にこだわっていた宮崎監督も好きだったんですが・・・。
 それは富野監督が「大衆芸能」という表現で言うものともどこかで繋がっていたんじゃないかと思うんです。

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宮崎駿監督についての雑感 

[2006/06/03] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

こいつの考えてることって好きか嫌いかで言うと大嫌いっていうか馬鹿馬鹿しいにも程があるんだけど、映画つくる力は傑出してると思う。でも最近の映画は痛々しい文化人活動抜きに考えても「語りたい」って意欲が湧かないものが多い。愛着はないはずだけど少し寂しい。
惑星開発委員会 月刊レビュー2002年9月 今月のお題「宮崎駿」 善良な市民さんの宮崎作品総評より)


 古い記事を引っぱってきちゃいました。「今マニアが宮崎肯定するのって勇気がいるかもしれないけど、凄いものは凄い。」ということなので、力点は「映画つくる力は傑出」ということなんですよね。私は書生論大好きっ子(笑)で、かつマニア未満なので、大嫌いとも馬鹿馬鹿しいとも思わないんですけど、「語りたい」って意欲が湧かなくて少し寂しいというところは共感できてしまうのです。
 「宮崎作品はどちらかと言えば好きな方ですが、なんか客観的に観てしまうところがありますね。」(わんこさん)というコメントを読ませていただいて、自分もそうなんだが、それはどういうことなんだろうかと、少し考えてみたくなりました。
 と言って、宮崎作品について「語りたい」とあまり思わないし、例えばこういう文献をネットで見つけても、どうしたわけか熱心に読みたいという気持ちが起きてこない。これが富野アニメについてのものだったらガツガツと読み漁るわけで、こういう自分というのは、ただの偏愛なのだろうか、と。

もののけ姫では得意の空を飛ぶカタルシスをあえて禁欲しています。それは俯瞰的な視点を取れないポストモダンの状況と通底しているので説得力があります。徹底的に地を這う獣の怨念が、九十年代の閉塞感とエヴァのようにシンクロしていました。

しかし残念なことに、獣がベラベラ喋ることで、しかも声優が芸能人だったりして、途端に分かりやすい話になってしまいます。「ああ人間と自然との共存は難しいもんだね」とか。トトロも、ナウシカのオームも、ラピュタのロボットも、もちろんエヴァも、喋らなかった。内容としては抑圧された他者を描こうとしているのに、形式のレベルでは対等に喋れます。
萌え理論Blog-アニメ独自の表現について


 こういうのは読んでて面白いと思うのですが、その私の面白がりかたというのが、「そうだ、ブレンパワードは喋らなかったゾ」とかだったりするのですね。(笑)
 わんこさんは『未来少年コナン』のメカの話をしておられましたが、あれは私には少し不思議な存在で。『ゆうれい船』について書かれたこういうのを読むと、「漫画映画」と「アニメ」の境界というようなことをもう少し研究してみないといけないのだろうな、とは思っているのですが。(私自身が、この中で「1970年代後半のアニメブーム」と言われているものの直撃世代なので、視線に変なバイアスがかかっている可能性は強くあると自覚もしているのです。)
 夢やロマンと直結した「空想科学マンガ」的なものを「漫画映画」と称すのであれば、大衆をも引き付ける宮崎アニメの魅力というのは、アニメ史の中で「アニメ」寄りの「漫画映画」として位置づけられる、その地点に留まり続けているんじゃないだろうか、などとも妄想してみたり。(これは批判的な意味でではなく。・・・宮崎さんはアニメならぬ「漫画映画」という言葉に、まさに執着していた時期がある、という話も聞いたことがあります。)

こういう人間の本質みたいなものを据えた、自然と人間との関わり合いを描く映画を作りたいと思っています。それはメッセージというものでもなく、自分自身に回答が出ていないから、甚だ迷走しながら映画を作ったんです。
yasuakiの新批評空間-もののけ姫QA6:もののけ姫という作品のメッセージは何か


 回答の出ないものを迷走しながら作ろうとする姿勢は、富野さんとも共通していて、私は好きなんです。ただですね、『もののけ姫』という作品の思いは観客に伝わるか、という問いに対して、

思っていません。無理ですね。僕は、このアニメーション映画をつくる仕事を駄菓子屋の商売だと思っていますから。


・・・と言い切ってしまう。そういうところが私のような凡俗の「語りたい」意欲を削ぐ姿勢なのではないのかな、と感じられてならないのです。
 ひいきの引き倒しかもしれないし、人気度の点での判官びいきも無きにしも非ずかもしれませんが、それでも宮崎さんのボキャブラリーには存在しないだろう「愚衆」となどという言葉を使ってしまう富野さんのほうに、私がシンパシーを感じてしまうというのは、どうもたぶん、そんなようなことだと思います。

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