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『マイマイ新子と千年の魔法』 すごくいい「映画」でした! 

[2009/12/27] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 先日、出張で上京する機会があり、翌日何とか休みをもらえたので、『マイマイ新子と千年の魔法』を見てきました。

マイマイ新子と千年の魔法 オリジナル・サウンドトラック

 それは12月18日のこと。地元では上映していないこの作品を東京で観れるのは、この日だけのワンチャンスだったのですが、タイミングとしては最悪でした。新宿ピカデリーは12/17で終了し、ラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーは12/19から。23区内でこの日に観ることができたのは、ワーナー・マイカル・シネマズ板橋(12/18が最終日)だけ。しかも朝9:00からのたった1回だけ。私の実家は横浜の郊外にありまして、一生懸命早起きをして、満員電車に揺られて、観てまいりましたとも(笑)。

 まあしかし、WEBアニメスタイルでの連載記事をチラチラ読んでたのもあって、怠け者の私にしては頑張ったんですけど、ググッと背中を押されたのは廣田恵介さんのブログ記事でした。

 「え、上映継続のための署名運動?何々?何が起こってるの?」っていう感じですね。原作も、実のところ片渕須直監督のこともよく知らなかったけど、とにかく廣田さんのこの入れ込み方は尋常ではない(笑)。
 まあ、それでいろいろググってみたりして、なるほどこれは映画館で観ておきたいかなー、と。

 大正解でした。やや苦労して観たけど満足。とてもいい映画でした。小さなスクリーンなのに半分は空席だったのが意外でした。私の(狭い狭い)観測範囲ではけっこう話題になっている作品で、この日はこのスクリーンでこの一回しか観れないはずなのに。

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『宮崎アニメは、なぜ当たる』 読書感想文(?) 続き 

[2008/09/09] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(6) | TOP ▲

 書き出したときは面白いと思ったんですけど、こういうのって急に面倒くさくなったりしますね。最近、ブログに富野監督の関係の記事が少ないよ、と指摘されたりしてるんですが、個人的には富野小説を読んで、足りない“トミノ分”を補っているような感じです。(今まであまり読んでなかったのですが、皆さんのおかげで急にトミノ小説に親しむようになりました。)
 それなら小説の感想を書いても良さそうなもんですが、アニメの感想と違って「映像→文字」じゃなくて「文字→文字」なところが書きにくいんですね。
 そんな感じで、本の感想を書くのは苦手なんですが、何とかまとめてみたいと思います。

宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由 (朝日新書 121)

 前回は、『ナウシカ』(1984年 配給収入7.42億円)→『ラピュタ』(1986 5.83億円)→『トトロ』+『火垂るの墓』(1988 5.88億円)までというところで、当時の興行成績としてはまずまずとはいえ、最近の宮崎アニメとは文字通り桁が違うだけでなく、やや右肩下がりというところまででした。

 次の、「誰も予想しなかった大ヒット」となった『魔女の宅急便』(1989)が境目なんですね。配給収入21.7億円。この年の日本映画No.1ヒット。
 これ一応原作コミックがあるんですね。知らなかったです。そのぐらい私には関心が薄かった作品。「宅急便だけにクロネコヤマトが製作出資?へぇー」ってなもんでした。やっぱりポイントは、徳間書店に加えて、この作品から日本テレビが製作に入ったってことなんでしょう。

 ただ、ここではそれ以上に「女性観客を惹きつけたこと」がヒット要因として挙げられています。ナルホド。そして大都市以上にローカルのほうが成績がよかったらしいです。
 ジブリでは高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』(1991)も18.7億円のヒットで、やはりこの年の日本映画No.1。(そうだったんだ・・・。)女性ターゲット恐るべしなんですね。

 続く『紅の豚』(1992)はJALの機内で上映する30分程度の作品を、宮崎監督は“息抜きのつもり”で作ろうとしたのが思いが広がってしまい、・・・ということだそうです。この本の筆者はこの作品が「一番好き」だとのこと。それで前作以上の配収27.13億円。
 宣伝代理店は「ファミリー層」向け、鈴木敏夫Pは「大人の観客」向けを主張して対立したそうですが、結局双方が見に来たという結果。・・・「“楽しい” “明るい” “親しみやすい”ジブリ作品のイメージ」が広まったということが言われていますけど、この作品でついにこの年の(洋画を含む)全映画の中でNo.1ヒットを記録してたんですね。

そこへ、宮崎駿というおじさんが、自らの趣味性を前面に押し出した作品を作り上げた。それまでの“エコロジーの巨匠”的な、ちょっととっつきにくいイメージから、“飛行機が大好きで、どこにでもいそうな、腹のつき出た所沢のおじさん”という、より親しみやすいイメージへ。

 私は高畑監督は好きなんですけど、『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)は、変わった作品だなぁという印象でした。それで配収26.5億円で、この年の日本映画No.1と聞くと、すみませんが意外な気がします。
 近藤喜文監督『耳をすませば』+宮崎監督の短編『On Your Marks』(1995)もまた配収18.5億円で、同年の日本映画No.1。もはやジブリ・ブランドの威力だと。(この辺の分析が、この本では食い足りないところなんですけど、何とも言いがたいところなんでしょうかねー?)

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『宮崎アニメは、なぜ当たる』 読書感想文(?) 

[2008/09/03] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(6) | TOP ▲

 夏休み・・・は、全然なかったんですが(笑)、何となく近ごろ乱読した本の感想文でも書いておきたくなりました。難しい本は、ほとんど読んでいないんですけど、昔に比べると少しは本を読むのが好きになりました。PCのモニターばかり見ていると、凄く疲れるという、それだけのことかもしれませんけど。

宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由 (朝日新書 121)宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由 (朝日新書 121)
(2008/07/11)
斉藤 守彦

商品詳細を見る

 書店でタイトルを見て、ぱらぱら立ち読みして、衝動買いをした本です。著者は映画業界紙の記者だった方で、現在はフリーの映画アナリストだそうです。

 富野スキーの私なんですが、このブログで富野アニメの記事はあまり人気ありません(笑)。
 「富野信者が富野作品を褒めるのは当たり前」で、ニュートラルじゃないのがいかんらしいです。あと、宮崎監督のことも時々書くんですけど、これは「嫌儲」な感じが抑えきれていないようにみえるんだそうで・・・。ルサンチマンですかねぇー?(苦笑)

 まあ、そんな不純な動機(?)で読んだわけですけど、映画業界の変遷みたいなものも含めて書かれているこの本は、映画に詳しい人なら知ってるデータも多いのかもしれませんが、無知な私にはけっこう「へぇー」と思うことが多くありました。

 映画館の数(スクリーン数)の増減

  • 1960=7457(ピーク) → 1964(昭和39)=4927 → 2007(平成19)=3221
    • 映画館数激減の原因は、やはりテレビの登場だそうです

 興行収入の“洋高邦低”(日本映画 < 外国映画)

  • 1986年~2005年

 特にハリウッド映画に席巻されていた、この20年間の映画の状況について語る上で、その両者の代表選手としてジブリアニメとスピルバーグを対照しようというのが、この本の狙いだそうです。

  • 1984 『風の谷のナウシカ』 配給収入7.42億円 興行日数48日間→
  • 1986 『天空の城ラピュタ』 5.83億円 42日間→
  • 1988 『隣のトトロ』+『火垂るの墓』 5.88億円 32日間

 トトロが苦戦したのは知ってましたけど、ラピュタも、意外と苦戦したんですね。

シネコン全盛の昨今では、たとえ邦画系で決められた週数の興行を終了しても、余力アリと判断されれば、同じシネコンの別のスクリーンに場を映して上映を続けることができます。

 この頃はまだ、半年以上上映された『もののけ姫』のようなことができなかったという話です。なるほどなぁ。あと、それまではキャラクター商品には消極的だったが、トトロのぬいぐるみが転機となったという話も面白い。

 一方のスピルバーグ。

  • 1976 『ジョーズ』 50.5億円 →
  • 1978 『未知との遭遇』 32.9億円 →
  • 1980 『1941』 8.6億円 →
  • 1981 『レイダース・失われたアーク[聖櫃]』 13.8億円 →
  • 1983 『E.T.』 96.2億円

 『E.T.』の記録は、1997年に『もののけ姫』に破られるまで、わが国の歴代ヒットの記録だったそうです。『レイダース』って私はこっちのほうが好きだし「スピルバーグ」と言うとこのイメージなんですが、意外と苦戦してたんですね。
 名声を確立したスピルバーグは若い監督のプロデュースをはじめて、『グレムリン』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』など、SF冒険ファンタジー大作の「スピルバーグ印」としてブランドイメージ化していく、と。

 あれ、こんな書き方してたら、恐ろしく長くなる!?(笑)
 何しろ、ここまでだと、『ナウシカ』なんて凄い熱気だったという主観的な記憶があるんですけど、映画業界的には、まずまず健闘した、というレベルだったんですね。なんか意外だなー。
 とにかく今夜はここで一回切って、続きは今度また。ちょっと仕切りなおしますね。

『2001年宇宙の旅』 

[2008/09/01] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 たまたまGyaO(何と「昭和TV」枠)で放映されていたので、見ました。こういう名作もたまに入りますねー、気をつけてないと。古い作品だし、何度か見たことあるしなー、とか思っていたのですが、やっぱり凄い作品は凄いですね。1968年、恐るべし。(笑)

2001年宇宙の旅 特別版

 映像の力で十分。余計な説明は不要。・・・そういうセリフはこういう映画のために取っておかないといけませんね。
 もちろん、2001年はもう過去になってしまったので、1960年代に想像されていた2001年というふうに細かいところを粗探ししてしまうと、いくつかは目をつぶらなきゃ気まずいところはあります。しかし、それよりもCGとかがない時代に、どうしてこんなに美しい映像表現が可能だったんだろうかと、思わず感嘆してしまうほうが圧倒的。

 PCモニターで見てしまうと、画面の上下に黒い帯が入ってしまうんですけど、普段はあまり気にならないこんなものがもの凄く邪魔な気がしました。がさつな私には珍しい、こんなこと。(笑)
 内容が難解だっていう話もあるんですけど、ここまで美しいとね。・・・どういうことが「美しい」ということなのか分かんないんだけど、このぐらいまで来ると、こういうことが映画で「美しい」ということなのかと逆に納得してしまうような。(これを基準にしてしまうと、今のCGとかって安手に見えちゃいますね。恐ろしいことですけど。)

 難解・・・。世の中には無意味に難解って作品もありますけど、私はこういう考えさせられる作品はいいと思うんですよ。いろんな解釈があり得るからいいんだと思うんで、あまり続編(『2010年』)は好きではありません。極端な話、小説版も「原作」とは言えないですしね。
 GyaOのレビューなんかを見ていると、けっこう「駄作」とか言っちゃってる人もいて、理解できないものを拒否したい心情というのは分からないでもないつもりですけど、そういう人っていうのは映画だけでなく世界そのものに対しても、自分に分かる部分だけで捉えようとするのでしょうね。(分からない部分のほうがはるかに広くて、だから生きることには意味があるんでしょうに。)

 こういう作品は、特に見るたびに印象が違ったりするんですが、今回は妙に“HAL9000”に感情移入して見てしまいました。人間にとって道具でしかない“彼”の人格(?)のほうに思い入れをしながら出来事を見つめると、それはそれでなかなか切なかったです。

フィクション=「平気でうそをつく」=邪悪なもの?? 

[2008/06/20] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(2) | TOP ▲

 kaitoさんに刺激されて、久しぶりに富野御大のことに触れた記事を書いてみたのですが、いつもながら読み応えのあるコメントをいくつもいただいて。
 忙しいのは一段落したのですが、気が抜けたのか、あまり体調が冴えず、また、いろいろ惑いながら書いていますので、ひどく文意の酌みにくいものを読んでいただいて、ありがとうございます。

そして「平気でうそをつく人たち」(編注)という本を読んで、人間というのはすべてを、個だけではなく組織自体が忘却するという心理的な側面をもっているというのがわかった。これまでのガンダムを全部事実だというふうに肯定してもいい。肯定したことも含めてすでにウソかもしれない。肯定するということ自体、それをする人にとって過去は、本当にあったのか、なかったのかということも全部疑問符をつけていいもんなんだってわかった瞬間、「∀」のというより、ロランやディアナ、キエルの物語をつくり出せたんです。

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

自分の非を絶対に認めず、自己正当化のためにうそをついて周囲を傷つける“邪悪な人”の心理とは? 個人から集団まで、人間の悪の本質に迫るスリリングな書!

(amazon「出版社/著者からの内容紹介」)

 元記事の元記事(笑)から、もう一度読み直してみました。私は(↑)この本は読んでないのでそこは軽く読み飛ばしちゃってたんですが、のりのりさんが、「あの本(「平気で嘘をつく人たち」)を読んでああいう認識にいたるの!???」と反応しておられたので、どんな本なのか(by amazonですけど)見てみました。
 未読なのにいい加減な解釈をしちゃいますが、“世の中には、そういう邪悪な人も存在しますよ”って趣旨の本を読んで、富野監督は“そういう性質というのは人間全般に多かれ少なかれ偏在している”という認識に飛躍しているんですかね?

 ここは『∀ガンダム』についての話なので、「うそ」一般についての話と言うより、フィクションについての話として私は読んだのです。ターンエーには白々しいフィクションがけっこうありますよね。まあ、そもそもロボットアニメなんて・・・というのは脇に置いても。ロラン・セアック(男)がローラ・ローラ(女)とか、ディアナ・ソレルとキエル・ハイムの入れ替わりだって、もっと早く気づくだろ(笑)、というようなものです。
 平気でうそをついているんですね。

たとえばSF作品であっても、SFがわからない人が見てもおもしろかったよねって言わせるのがビジュアル媒体だと、僕は基本的に思ってる。で、僕の場合というか、僕らの世代はそれをずっと映画的なものというふうに考えていたわけです。映画一般なんです。SFであろうがポルノだろうが、文芸映画だろうがいっさい関係ない。みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」というのが映画であるハズなんです。ところが、それを一生懸命区別をつけようとしている人が、たとえばアニメというものを、とても幅の狭い媒体におとしこめているということです。

 それが(↑)このへんに繋がってる。(富野監督にとって、「映画」的=みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」だっていうのも私には“そうなんだー”って感じでしたけど。)
 端的に、“うそ=邪悪”という枠組みではない。

「初代ガンダム」って、「正義と悪は相対的なものだ」という見方を始めて明確に打ち出したTVアニメだと思うんですけど、「∀」になると、そもそも正義とか悪とかという概念自体がない

・・・と大森氏が指摘してるのも、そのへんなのかなーっと。「白富野」は人が死なないから正義だったり善だったりするんじゃなくて、「平気で嘘をつく」ような、したたかなタフネスさ(=しなやかさ)が話のキモだってことですね。
 その、“あえてフィクション”ということの意味を、少し拡大して考えてみたいと思ったのが前回の記事です。
 「例え“目の前の現実”であってさえも、一人の人から見えていることというのは、常に“一面の真実”でしかないという。・・・その危うさを自覚しながら、それでも敢えて何かを語らずにはいられないんだという、そういう覚悟」のことをいきなり書いてしまったんですが、バルタザールさんが指摘されたように、人間の認識力の限界に絶望するべきではないと私も思います。
 それと同様、“メディアを通して知る現実”も、無意味なのではなくて、その危うさを覚悟するという条件のもとで価値はあるし、そのときに手がかりとなるものは“目の前の現実”しかないでしょうね。多分私が言いたかったのは、“身体性”のないフィクションだけで、ものを考えるのは危険じゃないかということです。

  • フィクションであるというその時点で、それは現実に対する一つのメタファー(暗喩)を構成しているとすれば、さらにその中に配置されたメタファーを必要以上に分かりにくくするのは、内向きに閉じた自己満足でしかない
  • “分かる人には分かる”というメタファーの置きかたのほうがそれはカッコいいんですが、それは技術論でしかない

 それから、(↑)メタファーについてこのように書いたのは、kaitoさんの記事にあったオタキングのコメント(「コクピットは元々子宮のメタファーなのに、富野さんのはモロ子宮じゃん」)に直接的に反応したものです。
 「分かる人にしか分からない」というのは、カッコわるいというバルタザールさんの意見に共感するんですが、のりのりさんの冷静な指摘で、少し思い直しました。
 ここでの話の流れからすればむしろ、どうやったって分かる人にしか分からないという認識を、諦観ではなく覚悟としつつ、それでもなお「みんなが見てわかるような映画をつくればいいじゃないか」とオープン・エンターティンメントとしての機能にこだわり続ける富野監督にもっと学ぶべきなのかな、と。

本来、ミーハーの大衆というところに落としていって、わーい!と楽しんでもらえるものをつくりきれないというあたりでは、メジャー狙いをしようと思って一生懸命背伸びをしている人間としては、なんだかんだ言いながら映画屋になり切れない自分を自覚する

 だから富野監督、大好きです!(結局そこかよ。) (*^。^*)

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