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『機動戦士Zガンダム』 第49話 「生命散って」 / 第50話(最終話) 「宇宙を駆ける」 

[2009/09/03] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 テレビ版『Zガンダム』の再見日記も、ようやくラストにこぎつけることが出来ました。書きはじめたのが昨年12月ですから、何度も中断を交えながらとはいえ、足掛け10ヶ月がかりですか。w

 個人的にテレビ版の『Zガンダム』という作品にはいい印象はなかったんだということを、最初の頃にも書いていたはずですが、富野ファンですから何とか良さを見出そうと思いながらここまで見てきて、最後の最後に頓挫していたわけです。何度見直しても、この「fin」の打ち方は私には受け入れられません。ならば・・・第一印象に正直に、この作品は富野アニメの系譜の中でも最悪に近い失敗作と言わねばならないのでは、というのがこのところの苦しさでした。

 最終盤の戦局は、トンデモ兵器であるコロニーレーザーを巡る三つ巴の攻防戦。ティターンズが建造したそのグリプス2は、アクシズを経て現在はエゥーゴが掌握している。考えてみればエゥーゴは、戦略的脅威となる超兵器を守りきれない見込みが高いのならば、二度と使用できないようにそれを破壊してしまうという選択肢もあったはずです。(グラナダという急所を抱えたエゥーゴに比べ、ティターンズにもアクシズにも、“ここを撃たれては終わり”という目標はないのです。)
 なぜそういう可能性が検討されないのか。ブレックス亡き後のエゥーゴのリーダーは(曖昧ながらも)シャアですが、シャアはといえば、実はシロッコが喝破したように「その手に世界を欲しがっている」男だったからではなかったでしょうか。

 アクシズのモビルスーツ隊は、ジュピトリスの撃破を目指して発進したんですが、見境なくシャアによって掃討されています。(こういうところはちゃんと描かれているんですよね。)以後、シロッコとハマーンがシャアを集中的に叩いたのは、この男こそが危険極まりない人物と判断されたからでしょう。コロニーレーザーがついに発射されてティターンズの主力艦隊が消滅したときに、ハマーンがアクシズの艦隊を戦場から遠ざけたのは、結果から見れば非常に妥当な判断でした。事実、シャアが行方不明になった後のエゥーゴは、コロニーレーザーをそのままにして戦場から撤退していますし、この超兵器はその後の戦局に大きな影響を与えていないようです。
 バスク亡き後、コロニーレーザーに一番固執していたのはシャアであり、(やはりシロッコの指摘したとおり)それは冷静さを欠いた判断だったんでしょう。

 何でこんなことになってしまったのかと言えば。『Zガンダム』の当初の構想に従い、(劇場版として別に製作されることになった『逆襲のシャア』までを含むはずだった)本来の物語のあり方を想像するならば、主人公のカミーユが最後に倒すべきラスボスは、実はシャア・アズナブルその人だったのではなかったでしょうか。
 『逆襲のシャア』そして『ZZ』の製作を受け入れてしまった時点で、それに代わるラストが富野監督にイメージできていたのか分かりませんが、出口を見失った物語はつらいですよね・・・。

 結果として既にジャミトフもバスクもいないこの時点では、ただ戦いの亡者として戦場に留まっているようなジェリドやヤザンなどとの遭遇戦なんて、限りなく不毛な消耗戦でしかなくて。そんな中で死んでいくカツもヘンケンも、全く浮かばれません。

「こんな死に方、嬉しいのかよ。満足なのかよ。誰が、誰が喜ぶんだよ!」

 「生の感情丸出しで戦うなど」とシロッコは言うけれど、では「指導する絶対者」の資格とは何なのか。シロッコに従って戦場にいるはずのレコアを見れば、彼女とエマの戦いは「生の感情」がぶつかり合った悲劇そのものですよね。その悲劇を止めようと叫んでいるのはカミーユだけで、シロッコもハマーンも、そしてシャアも(半ば面白半分に)覇権を争っているだけ。
 でもカミーユが感じたのは、もっと本源的に、生命こそが宇宙を支えている力であり、その生命をこんなふうに簡単に失っていくのは許せないということ。この感じ方から得た力をアニメ的に表現すれば(評判の芳しくない)“ハイパー化”になったということですね。こういう超常の力をガンダムで扱うのは似合わんという説には私は反対。ファーストガンダムの最後でアムロが示した洞察力だって普通に超常の力でしょう?ただそうやってケチを付けられるのは、物語の説得力が弱いんでしょう。

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『機動戦士Zガンダム』 第38話 「レコアの気配」 

[2009/05/07] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 先日買ってきた『機動戦士Zガンダム』の小説版を早く読みたいんだけど、いちおう以前に自分で「テレビ版の再見を終わってから」とハードルを設けてしまったので、まだ読めないのでありました。

機動戦士Z(ゼータ)ガンダム〈第5部〉戻るべき処 (角川文庫)

 しかし、目の前に人参をぶら下げる必要が?

 なくもないですね。でもつまらないものを我慢して見ているわけではありません。面白いんです。面白いんですけど、しんどいんです。そんな感じ。

 ついに38話。二回目の地球降下からカミーユとシャアが宇宙に戻り、いよいよ終盤の物語に向かっていこうというところ。この回では地上篇の前半から宇宙篇の後半までを、ひとつのエピソードの中で切れ目なく繋いでいっています。『ZZ』の製作決定で後半全体が引き延ばされていますから、このままラストアクションに入っていかないところはシリーズとしてはテンポが悪いんですけど、一話一話が間延びした感じになることはないのは、さすがです。

 のっけからカミーユへの怨念に凝り固まっているジェリドが出てきますけど、個人レベルの小さな勝負にこだわってるだけの、こんなつまらん男では、もうカミーユのライバルというポジションは保てない。冷徹ですね。

 二話前の『永遠のフォウ』ラストで、もうクワトロ大尉とは呼ばない、と突っ張っていたカミーユなんですが、やっぱり「シャア」とは言いにくいし、この回で案外あっさりと妥協。何か微妙な距離感で、それでもシャアについて行くって感じかな?
 この緊迫した場面で(宇宙で会うはずの)カツへの伝言はないかとハヤトに尋ねるカミーユは、いろいろ気配りの出来る優しい少年。ハヤトの「生きていてくれれば」というセリフは、後のことを考えると切ないです。カミーユは気配りのできる子だから、こういうのも記憶のどこかに残っていて、一人一人の死を重く受け止めずにいられなかったのかもしれないなー。

クワトロ 「一昔前の人々は、この何倍ものGに耐えながら宇宙に出た」
カミーユ 「知っています」
クワトロ 「彼らは宇宙にこそ希望の大地があると信じた。自分達を宇宙に追いやった地球のエリート達を憎むことより、その方がよほど建設的だと考えたからだ。地球の重力を振り切った時、人は新たなセンスを身に付けた。それが、ニュータイプの開花へと繋がった。そういう意味では、確かに宇宙に希望はあったのだ」
カミーユ 「よくわかる話です。僕もその希望を見つけます。それが今、僕がやらなくちゃいけない事なんです。(・・・そうしなければ、フォウはオレの中に生き残ってはくれない。)」

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 ハンナ・アレントの『人間の条件』という本を読んだとき、その「プロローグ」で、あ、これが“ニュータイプ”のイメージの源だな、と直感しました。
 「公共性」について述べられているこの本は1958年(!)に刊行されていますが、その書き出しは、前年のスプートニク(最初の人工衛星)打ち上げのことから始まっているんです。

「地球に縛りつけられている人間がようやく地球から脱出する第一歩」というこの発言が陳腐だからといって、本当はそれがどんなに異常なものなのかを見逃してはならない。というのは、なるほどキリスト教徒はこの地上を涙の谷間といい、哲学者は人間の肉体を精神や魂の囚人として眺めてきたけれども、人類の歴史の中でいまだかつて、人々が本気になって、地球は人間の肉体にとって牢獄であると考え、文字通り地球から月に行きたいとこれほど熱中したことはなかったからである。

 「地球は人間の条件の本体そのもの」ですが、その条件から脱出したいという望みを人間は持つ。こうした「与えられたままの人間存在にたいする反抗」についての判断を、職業的科学者や職業的政治屋だけに委ねることはできない。この「プロローグ」でアレントは、生命のあり方や労働のあり方などの「現代的な不安」を例示していますが、彼女はそれに対して「解答を与えようとするものではない」とし、「人間の条件を再検討すること」をこの本で試みています。
 「空想科学小説」について、「それは大衆の感情と大衆の欲望を伝える媒体として注目に値するものであるが、残念なことにこれまでそのような注意を払った者はだれもいない」とも述べています。とても難しい本ですが、非常に興味深い内容です。

 「そういう意味では、確かに宇宙に希望はあった」とシャアは言い、それにカミーユは「よく分かる」と。地球の重力(つまり人間の条件)を振り切る希望に僕は生きるんだ、と熱っぽく同意しちゃってます。

「本当に排除しなければならないのは、地球の重力に魂を引かれた人間たちだろ!」

「排除しなければならないのは、地球の重さと大きさを想像できないあなたたちです!」

 ちょっと先走って最終話の話題になっちゃいますが、『機動戦士Zガンダム』のテレビ版と劇場版で、最も顕著な相違点を示している上記のカミーユのセリフの変更は、この38話でのシャアとの距離感の取り方で既に決まっちゃってるところもあるような気がします。
 ガンダムみたいな“巨大ロボットアニメ”なんて、大衆の感情と欲望にまみれた「きわめて尊敬すべからざるもの」だったんでしょうが、富野由悠季はそういうところでこそ「人間の条件」を再検討していたような気がします。

 しかし、フォウの死をまだ引きずっているところへダカール演説の高揚感も重なって、しかもシャアの操縦しているシャトルに自分の命を預けているという絶妙のタイミングでこういうふうに“オルグ”されちゃったら、カミーユがシャアから自立した独自の視座を持つことは難しいでしょうね。つくづくテレビ版のストーリーテリングは残酷です。

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『逆襲のシャア』はカオス!だけれども! 

[2008/01/11] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(5) | TOP ▲

 Nishinomaruさんに「逆シャアはカオス、は至言」とおだてられたので、いい気になって今回のタイトルにしてみました。(笑)

『逆シャア』関連の話題ってこのブログで書く機会が(結果的に)多いんですけど、この話題はどうしてこう、濃厚で面白いコメントがたくさんつきやすいんでしょう?それだけもとの作品としても濃いぃからですかネ?(笑)

・・・と自分で書いたとおりでありまして、興味深いお話がいろいろあったので、記事のかたちでまとめてみようと思いました。

 前の記事(「『逆襲のシャア』は難しいけど、いい作品ですね」)は雑駁な感想を順不同で書き留めちゃったんですけど、皆さんの反応から振り返ると、ポイントの一つは、“アムロやシャアの物語”と、クェスやハサウェイ、それにギュネイらの“ウザい子どもたち”のエピソードが渾然一体としているのを、いちおう仮に多層構造のように捉えなおして、個別のレイヤーを見てみようとしたところだったんですかね。これまでにも、たびたび『逆襲のシャア』について、このブログの中で皆さんとお話させていただいてきた成果が、少しはあったんじゃないかと思います。今まで直視を避けてきた“ウザい子どもたち”にも、私もそれなりには目が向けられるようになってきたのかなぁ・・・。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

 「正直言って、GyaOの画質では見られたもんじゃない」とか言ってないで、「ちゃんと」DVD買いなさいヨとpsb1981さんにツッコミをいただきましたが、・・・そうですねー。ホントすみません、お布施を収めないダメ信者で。(笑)

生まれて初めてマトモに観たガンダムであり、富野アニメですね。 小学校4~5年でした。 子供のころの初見の印象や理解は、大人になった今でもほとんど変わっていません。

 それはスゴイと思います!!
 私が小学4年~5年生の頃に見たのって、『宇宙戦艦ヤマト』だものなぁ。今でも大事にしている思いもあるにはあるけど、全般としてはあの頃と同じ目線ではとても見ることができません。・・・そうですね。作品それ自体は変わりなくあるわけで、変わってしまったのは私のほうなんでしょう。以前に私の見方にブレがあるという指摘をいただいたのも、たしかな視座を持つ人と、ずっと発展途上な私の差なのかな。
 それに加え、『イデオン』なんかを引きずりながら私の見た印象には、素では作品を直視できないようなバイアスがかかっていたんだろうか、という思いもよぎります。興味深いお話でした。

 私はその種のバイアスが不可避的にかかっちゃうのも、“それはそれで仕方ない、結局は一期一会です”って、すぐに開き直っちゃうような人です。で、公開当時の私にかかっていたバイアスを考えると、Nishinomaruさんと同様、『ZZ』のテレビ放送は、「アンチ続編というような心情でスルー」みたいなところがありました。うん。
 私はそれきり、ごく最近までまともに『ZZ』を見直してなかったんですけど。“最後の最後で何とかして見せてしまうというのはスゴイなぁ”と変な感心をしまして。ご指摘でナルホドと。ほぼ同時並行で作っていたんだから、特に『ZZ』の終盤などは、ストーリー要素だけでなく、テーマ面でも『逆襲のシャア』と重なる部分が多々あったのは道理で。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア―ベルトーチカ・チルドレン (角川文庫)

 『逆襲のシャア』で本当に富野監督がやりたかったのは、『ベルトーチカ・チルドレン』の小説版だそうですから、それが好きで、アムロがかっこいいと感じるgudaちんさんは、とても真っ当ですよね!シャアの目的意識は分裂気味だけど、感情移入できるというのも、ああ、そうなんだという感じです。
 全体の印象は混沌としている『逆襲のシャア』が、でも、ただグダグダの作品ではないのは、zsphereさんが言われたように、例えばシャアならシャアなりに、個々のキャラクターの視点で通して観ていくと、一人一人のやってることには、それぞれに条理が通っているところがあるんですよね。シャアの屈折ぶり、アンビバレントさにも、本当に物語上のキャラクターとは思えないような人間臭さが、てんこ盛りに感じ取られます。

アムロにサイコフレームの情報を流したのは、余裕というよりは未練とか執着と呼ぶべきものだろうと思います。

 ほんとだ!私はどうもアムロ視点にブレる傾向がありますね。その視点からは、あれはやっぱり余裕をかまして“人を見下すことしかしないやつ!”なんですよ。(視点があちこちしてブレやすいのは、私の悪癖だなぁ。)
 やっとクェスやギュネイを(いったんは)度外視できる程度にはなってきたけど、アムロとシャアの間では心が揺れてしまいます。それは喩えれば“一枚の紙の表裏”なんだから、ある瞬間に同時に両方を認められるわけはないって、頭でだけは分かっているんですけどねぇ。「一筋縄ではいかない作品」!(激しく同意。)
 同様にシャア視点からだと、なるほどアムロの「革命はいつもインテリが始めるが…」も、Nishinomaruさんが言われるように、煽り文句としてしか聞こえないかもしれないのか。うーん、なるほど。

 皆さんの話を伺っていて、ふと思ったんですけど、物語上の時系列から言うと、新訳Zを完結させた『星の鼓動は愛』の後が『逆襲のシャア』であり、ある程度そのように意識もされて『星の鼓動は愛』のラストも作られています。(エンディング曲『Dybbuk』が象徴的。)だけど、制作順の時系列というのもやっぱりあるような気がして、『逆シャア』には繋がらないパラレルワールドとして『星の鼓動の愛』のラストを見たときに、ハマーン・カーンも『ZZ』のようなキレ方をすることもなく、こっそりとシャアと一緒に地球圏を離れて、どっか木星あたりで二人のんびりと余生を送ったのかもしれない・・・などという夢想が、今はじめて浮かんできました。(もちろんアムロは地上でベルトーチカと暮らしているわけです。)
 gudaちんさんの願われたように、輝かしい太陽神にはなれないんですが、案外、あの“えぇカッコしい”のシャアとハマーンだから、Nishinomaruさんが“「飛べない豚はただの豚だ」とか格好付けながら”と言われたみたいに、二人で気障な会話を交わしながら、渋い中年のおっちゃんおばはんになりました、みたいな。(笑)

機動戦士ZガンダムIII -星の鼓動は愛-

 しかし、たしかに、これはあんまり売れ筋のストーリーではないような気もします・・・。だけれども!
 『Dybbuk』には違和感を感じたと言う人が思いがけず多かったわけだから。案外、物語の舞台から去るにあたり、そんな平々凡々としたやり方を、あのシャアやハマーンにさえも与えてやりたいと、心の奥で願っていたファンも少なくなかったということなんでしょうかね。ふむふむ・・・。

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ロマン的な美化にも、シニカルな批判にも「?」 

[2007/05/10] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 ああ。やっぱりzsphereさんだ。(笑)

カオスの縁 ――無節操日記 -  ガンダムと家とか、あと色々

 実際の戦争ではありえない情景であっても、末端の兵士の見解を持った者と、戦争全体を指揮する立場の者とが互いの事情と言葉をぶつけ合う。『Zガンダム』以降のガンダムはそういう場へと変わっていきました。

 富野監督の関心は、「行けって言った奴が何をやったのか」という問題へと移ったのです。

 前の記事でも私としては考えて書いたつもりだったんですけど、こう読ましてもらうと、こちらはすっきり明晰で、「なるほど。どうして自分はこう書けないのかなぁ」と思っちゃいますね。

 “極限状況をロマン的に美化して、それに浸って酔ってるだけ”に陥ることを警戒せよ、というのもよく分かります。〔例示が特に分かりやすい。(笑)〕
 そうですね、大根洗ってるおばあちゃんみたいなの、『星の鼓動は愛』のラスト近くにもいましたね。「そもそも日々の生活で精一杯で、人類の革新がどうのこうのとか言っていられない」人たちの視点が欠落しがちなのは、でも、ロボットアニメやガンダムに限った話ではない気もします。(例えば、“インターネット”で言えば、こんな話とかですよね。)

 リアリズムの本質は「見なれているために実は見ていないものを見させること」、リアリズムは「たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出」し、「それまで事実としてあったにもかかわらず、誰も見ていなかった風景を存在させる」(→柄谷行人『日本近代文学の起源』)というのを読んでへぇ~と思った話は以前にちょっと書きましたけど。
 実写とアニメで何が違うかといって、実写では意識しないものでも映像に入っていることがあるけど、アニメでは意識しないものはまるで映像にならない、みたいな話(どこで読んだのだったかは今は失念。思い出せたら補記します)も以前に読んだことがありました。そんなこんなが頭の中でぐるぐると。(笑)

 観念的なもの“だけ”を描くことや、現実的なもの“だけ”を描くことでも充分難しいと思うのですが、近年の富野監督の作品は、それらを超越的に一つの作品の中で結びつけることを、真剣に問題としている気がします。

 なんだろうなぁ。ロマン的な美化に酔うなって話もあると思うんですけど、たとえば『アナハイム・ジャーナル』のアナハイム元会長インタビューですか。シャアを批判するのは理論的に正しいし、だからアナハイムは常に勝ち組だった、でいいんです。けど、架空とはいえ軍需産業で大儲けしたアナハイム会長が、こう、シニカルな物言いをしたと想像すると、私はやはり不愉快。(←これ、吾ながら、いわゆる「ネタにマジレス、バカジャネーノ」状態。)(笑)
 だってアナハイム会長が言ったんじゃ、貧民とはいえ広く薄い市場でしかなくって、隕石で潰しちゃ商売にならんだろ(だからシャアは馬鹿だ)という批判になっちゃうじゃないですか。――で、シニカルな批判だけで勝ち誇るな、って話もあるんじゃないかと。
 だからこそ∀ガンダムのように、“「生と死の極限」ばかりでない、多面的な戦争を描く事”は意義深いんですよね・・・。

『新訳Z』は、あらゆる“~主義”への警鐘では? 

[2006/11/13] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 恋愛の話は無視できない大事なものなのでしょうが、やっぱり難しいものですね。『星の鼓動は愛』のラストを巡って何回か書いてきましたが(→ちょっと間の空いてしまった前回)、年代ばかりではなく、人によって感じ方・考え方というのには、さまざまな差異があるということを実感。この話をはじめたときは、「違う捉え方もあるということで、どこがどう食い違うのかということを探ってみたい」と言っていたわけなんですが、立場が違うと相手の思いを正しく汲み損ねてみたり、考えていることがうまく伝わらなかったりで、反省しきりです。

個人的な見解では、現代の人にとって達成感のある個人体験がもはや恋愛くらいしか思い当たらなくなっていることが、恋愛重視の正体ではないかと思っています。
精神的に満たされるために必要なことというのかな?

ここで私、「恋愛にアップアップ」とか「純愛への憧れ」とか、「愛なんてもっと下世話なものじゃないか」、とか全部ピンとこなくて…


 のりのりさんの、このコメントには、考えさせられました。――これは揚げ足取りではなく、むしろ同意しているのですが、たしかに恋愛を重視すると言いながら、多くの現代の人は恋愛を“個人”体験として達成することで、精神的に満たされようとしているのかもしれません。何が言いたいのかというと、「恋愛とは本来、相手とのやり取りの中で育まれていくものなのでは?」という視点の欠落についてです。
 ただ「ピンとこない」という指摘も頷けます。つまり、“個人”体験として、お互いに自己満足できていれば“ハッピー”(=精神的に満たされている)と思えている人のほうが、むしろ巷には多いということだと思います。――そういう自分なりの折り合いの付け方もあるのでしょう。と言うか、そうやって折り合ってる人のほうが多いんだな、現代は。そこは納得しました。…となると問題は、(ちょっと極論ですが、)“個人”体験ではない恋愛(本気で他者と向き合うコミュニケーション)でなければ満たされないと考える少数者が、無視できない比率で存在するのかどうか、ということなのでしょうか。

「『星の鼓動は愛』のラスト」を「踏み絵」にして、その反応だけで「恋愛至上主義者」とそうでない者を正しく判別できるのでしょうか?


 ねもさんとは、お互いなかなか思いが正しく通じなくて苦しいところですが、すこしずつ互いの立場が分かりあえてきた部分もあるような気がしています。
 私の書き方が悪いんでしょうけど、今まで書いてきたことは「~主義者」とそうでないものを判別しようというのではなくて、それぞれ自分の中で「~主義者」的になっている部分がないか、振り返ってみるきっかけにならないだろうか、という趣旨のつもりでした。

 「恋愛至上主義」という物の定義が、良く判らない。たしかに言われるとおりだと思います。「恋愛至上主義(れんあいしじょうしゅぎ)とは、恋愛を人間における最高の価値と考える思想・思考形態を指す。そのような思想・思考形態をもつ人物を恋愛至上主義者という。」とWikipediaには書かれています。意外なようですが、戦前から既に議論されてきた言葉のようです。(恋愛至上主義への批判は、もっぱらそれが優生学的な思想と結びつきやすいところから展開されてきたようです。)
 Wikipediaが常にバランスの取れた見識とは限りませんが、「恋愛 - Wikipedia」を見ると、「日本では、自分の好きな人と恋愛をして結婚するという恋愛結婚が現れたのは、明治以降の事」とされ、高らかに恋愛至上主義を宣言し、当時の若者に衝撃を与えたのは北村透谷とのことです。

 明治から大正にかけて、文化人の間にはロマン主義の影響や、家制度によるお見合い結婚への反発として、恋愛至上主義が広まったが、恋愛結婚が大衆化するのは戦後になってからである。お見合い結婚でも親の意向にのみもとづいた結婚は忌避されるようになり、夫婦の間の愛情をもった繋がりが強調されていく。
 高度経済成長期以降は、恋愛結婚の大衆化により、恋愛は普通の男女であれば誰でも出来る・すべきものだという風潮が広がった。


 ここまでの経緯は異論の少ないところですが、バブル期以後の「恋愛で消費行動が重視される傾向」あたりからが、近年“オタク”の問題と絡めて議論の多いところだと思います。「マニュアル的な恋愛」「トレンディドラマ」などがその傾向を助長したと言われていますね。

 男性側がどれだけお金を使ったかで愛情の深さを測る風潮が、それまでの社会的規範に反するとして非難されたり、賞賛されたりしたが、これにより「結婚を前提とした一対一の関係」や「純愛」というロマンチック・ラブの規範から逸脱した恋愛関係が若い世代にも広く認知されはじめたという意見もある。


 賞賛?広く認知?というのがなかなか同意しがたいところですが、少なくともそういう議論、あるいはそういう現実もあるというのは本当のことですね。
 ねもさんが、「恋愛感情(好きか嫌い)」をやはり一番かなとしながらも、それだけでなく「経済力(金が有るか無いか)」とか「美的センス」とか「個人の嗜好」とか、いろんな判断基準が実際にはあって、“「恋愛」というワンパラメータの「至上主義」は、本当に現在の主流なのか”と思えてきたと言われるのには、だから私もまったく同感です。

 ここでは恋愛の話ですが、それだけに限らず、今日では社会全般の傾向として、このように多様に「価値観も拡大・拡散してしまっている」からこそ、かえって各個人は“~主義”(あるいは“アンチ~主義”)に固まろうとしがちではないか?そして、それでは“崩壊”を免れ得ないときに、人はどういうしなやかさを持つべきなのか?…というのが、私が今回の『新訳 Zガンダム』に対して考えたいと思っているテーマなのです。
 先日も飯島愛ちゃんに愚痴ってましたが、富野監督は“今の若者の感じ方は分からない”ということは率直に認めてるんで、それは残念ながら私も似たようなところがあります。「若い人への迎合」では堕落。といって、偉ぶって嫌われてもダメ。…というのは、本当に難しいですね。
 「大人の傲慢」という批判は、けっこうツラい。飯島さんとの対談でも思ったのですが、ファンにとっては『ガンダム』でも『Zガンダム』でも、それらはもはや“自分たちのもの”なので、富野監督の作ったものだという思いではないようです。(それもやむを得ないことなんだと思いますが。)

旧約を見なかった(Zの予備知識を知らない)人に、新約をいきなり見せてラストの(カミーユ->ファの気持ちの流れが)自然な物として伝わるか?


 “自然なもの”としては伝わっているはずだと私は思っています。第一部でも、第二部でも、カミーユとファは抱き合ったり、じゃれあったりしてますからね。ただ自然ではあっても、あまりロマンチックな要素がないのは間違いなくて。
 ロマンチックじゃないと達成感が得られない、ドラマにはそういうものが必ずあるはずだ、という観念も、ひとつの“~主義”に類すものではないでしょうか、ということ。そして、何かの主義に殉じてしまうのでない、しなやかさや、あるいはしたたかさというものも、こうした時代を生き抜くためには大事なのかも、ということ。私が『新訳 Zガンダム』に感じて、誰かに伝えたかったことは、そういうことに過ぎないのですが、力がなくて、これ以上うまく表現できないことが残念でなりません。



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