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世代というのも人間の業ですか 

[2006/12/14] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 さきごろ富野監督の思索の展開に思うことを書いたところですが、この話がそのまま先日来コメントいただいている内容にも繋がっているような気がするので、少し話を続けてみようと思います。
 個人とは不特定多数の個人ではなく英雄のような存在を指し、「ロマン主義とは英雄主義といいかえてもよいのではないですか」というnishinomaruさんのコメントのおかげで、以前に気になって取り上げたとくもとさんのコメント――「ロマン主義(個人の決断が歴史をも動かす)はニュータイプに替わりえる強力な私と我々を結ぶ思考です」という意見についての論点が、私にも少し分かった気がしました。
 英雄主義というのは、エリート論ではないかと思います。…と言ってしまうと、(私もどっぷりとその中に浸かって育った)戦後民主主義的には語弊があるようですが、きちんと検討すべき課題だと思います。と言うよりも、むしろエリート論というのはガンダムの世界では、ほぼそのままニュータイプ論だと思われますが、そこはどうでしょうか。「シャアは英雄になり損ねたキャラ」とは、そのまま“ニュータイプのなり損ない”と重ならないでしょうか。
 つまりニュータイプ(=英雄=エリート)になったからといって、「生命を持たない意識体としての存在」にでもならなけりゃ、生身のままでは世界なんか救えやしないと富野監督がやってきたこと(→関連記事)が、能力を身に着けて人々を導こうとする英雄になろうとする向上心を「さんざん愚弄してきた」のではないかという批判なのでしょうか。
 これは教養とかビルドゥングスロマンについての話でもあるのかもしれないですね。以前に「向上心」考(生きて戸惑い動揺する教養) という記事を書いてみたことがあります。「社会全体が頭打ちな現況の中で、人を差し置いても自分(だけ)は向上したい、という願いはしばしば壁に突き当たります」と私は記しましたが、ここに書いたことを裏返すと、戸惑い動揺したところで終わったのでは、微温的な現状肯定という批判をかわすことが出来ない、いかに未来が見えなくとも「絶望もしちゃいない!!」(アムロ)と言わなきゃならないということでしょうか。
 こうしたアムロの物語は立派な英雄譚ではなかったかと思いながら、では例えば「エヴァが反戦映画である、ということを見落とす観客の責任の方が圧倒的に重いと思います」と断言されたnishinomaruさんのように、確信を持って言い切れるかというと自信を持ちきれないわけです。

いまや特撮やアニメは世代にかかわらずDVD化されネット配信されるボーダレスな時代である。したがって世代論だけでは論じられないと思うのだ。
いつのころから新発売: ボクのオタク論


 私は時代の中での変遷を見たいと思ったわけですが、上の記事を読んで私が思ったのは、そうしたものに捉われておろおろするよりも、そんなものはいっそ無視して、間断なく現在の視座から斬りなおし、その都度評価は改めていかねばならないというnishinomaruさんの徹底した意思でした。
 それは正しい(そうあるべき)考え方だと思います。現在のオタクの状況から逆算すると、オタクの定義の変化についての分析も説得力があります。
 それでもなお、たとえば物語を「他人の不幸は蜜の味」という暗い楽しみとして捉えるような、今日的な感覚というものには、私はどうしても馴染めそうもない気がするんです。
 困ったなぁ。世代というのも人間の業とかエゴとか、そういう乗り越えがたいものの一つだと自覚すべきなんでしょうかね。


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「芸術」と「藝術」 

[2006/10/08] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 ウェブで目にとまって、ちょっと興味深かったので、自分用のメモに書き留めておきます。

なお、日本語「藝術」という言葉は、明治時代に西周 (啓蒙家)によってリベラル・アートの訳語として造語されたが、いまではアートの同義として使用されている。現在は漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により、「芸術」と書く。

しかし、「芸」の音はウン、「草を刈る」のが本義であり別字であり、日本国政府による日本語政策は文化破壊的である。本来「蓺」か「○」(○はくさかんむりの下に「乙」の漢字)と書くべきである。
芸術 - Wikipedia

 東京芸大は、昔はがんこに「東京術大学」と書いていて、最近はそうでもなくなった。うちは歴史のある由緒正しい大学なんだぞ、と威張っているのかと思っていたけど、そうではなかったらしい。…正直スマンカッタ。

 そこにジャンルの「例」が書かれている。たとえば音楽はクラシック限定で例示されているのは、“それが芸術であること”への異論が出にくい(コンセンサスがある)ということなのかな。その意味では、少し前だったら「デザイン」とは書きにくかったのかもしれないですね。もちろん「アニメ」なんてものがこんなところに出てこようはずがありません、ハイ。
 今では「工芸」が芸術であることを疑う人は少ないわけですが、そこへ至る歴史というのはなかなかに屈折に満ちたもので大変興味深いものです。

 それはさておき、「藝術」というのは「リベラル・アーツ」の訳語だというので、そっちもWikipediaで見てみたら、今日の日本で芸術といわれたときに一般的な「視覚芸術」みたいなものはほとんど含まれていなくて、むしろ「一般教養」だというのを改めて読んで、へぇ~…と感心しました。

原義は、「人を自由にする学問」、「自由学科」のことであり、それを学ぶことで、自由人たる教養が身につくものである。この自由人とは古代ギリシア社会においては「奴隷」と対である相対的概念であり、今日的な意味で「自由」を捉えると、原義はわかりにくいものになる。

 …ということで、奴隷ではない自由人を、自由人たらしめるために必要な教養こそが、本来の「藝術」なのである、と。
 今日の社会で、私のような貧乏人は、自由人であるなどとは到底いえないのかも知れず。…逆に言うと、お金持ちのためにしかならないようなものだけが、ゲージュツとなり得ることができるのか、とか。(工芸のたどった道は、厳しいことを言えば、それに似ています。)

 今日の社会にあって、たとえ貧しくとも、「自由人」であることが可能であるのか否か?くだらぬ趣味の話をしているだけのようであっても、突き詰めていけば、根本的な問題はそういうことに繋がっているのではないか、いやそうであるように努めねばならないのではないか。
 財政力だけではなく、教養もまた貧しい自分の身分も省みず、今日はなんとなくそんなことを、ふっと考えてしまいました。


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ベタ過ぎる 

[2006/06/16] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 ただ今帰宅。今日は昼間のガテン系肉体労働が夜八時まで延長戦。その後、電話帳調べ(笑)を先ほどまで続けておりました。まったくどーゆー仕事してるんでしょうかね?

 昨日はビデオに「終わる世界」をセットしたんですけど・・・・・・気付いたら、「終わって」ました。(爆) いや、いつのまにか寝てたみたいです。駄目だこりゃ。

 ベタ過ぎるんですよね、これ、ブログ書いててもそうだし。たぶん自分のキャラクターの根本的問題として、加減が分からず「ベタ過ぎ」というのは、けっこう深刻な問題のような気がしています。
 この頃、ネットを眺めていて、ついつい読んでしまうのが、「オタク」的な趣味と「モテ・非モテ」の関係。オタク的な趣味を、サブカルと言ったりしますが、本来のサブカルチャーという言葉の意味は、むしろ「カウンターカルチャー」というほうらしいんですね。
 で、私が関心あるのは、その本来の意味でのカウンターカルチャーのほうらしいような気が最近してきました。そういう意味では、やっぱり自分は「オタク」じゃないと思うんだけど、世間から見ればそうではないらしい。
 オタクというのは、つまりは「モテない趣味を持ってる人だよ」という解説があって、それは私にはとても納得のいくものでした。それじゃ自分がオタク視されても仕方ないのかなぁと。
 なんか、眠くて何書いてるのか自分でわかんなくなってきたので、今日はこの辺にしますが、オタクは独自のコミュニティを作るということ。それは擬似家族のようなもの。高尚かどうかを別にすれば、旧制高等学校の美しき友愛の物語の核となった「教養」と、意外に似ている所がある。(「女ごとき」にモテたいとあくせくするのはみっともないという変な見栄だとか。)
 私は「脱オタ」は、別にしたくないんだけど、できれば「脱・非モテ」はしたいと思ってる気がしているんですが、その辺がちぐはぐなんですね。(笑)

 どうも馬鹿な自分語りを書いている気がしてきたので、今日はこの辺で。(いつものことか?)

「向上心」考(生きて戸惑い動揺する教養) 

[2006/05/31] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 「教養」という、似合わないことをこの間しばらく考えてきました。教科書は、高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)。もともとは、「Ζガンダムはビルドゥングスロマン(教養物語、成長物語)としてどうなの」という話から、思えば二ヶ月以上以上もかかってここまで来たんですが。(笑)
 第1章の標題は「男の子、いかに生くべきか」でした。
 自分自身を作り上げるのは、ほかならぬ自分自身だ。・・・正直「なるほど」が半分で、「へぇ、教養って本当はそういう意味なんだ」が半分だったわけですが。第4章まできて、その残り半分の正体に気づかされました。最終章は、女性にとっての教養の話(ちなみに著者も女性)なのですが、これがまぁ、格別に「いやったらしい」話柄。(笑)
 第1章で語った教養の定義は「男子たるもの」の生き方の話だったところがミソでありまして、これに対し、久しく女性にとっての「教養」という言葉は、「お育ちの良さを表す目印」だったという、なかなか今どき口にするのがはばかられるような歴史的経緯が記されております。私みたいに学のない人間は、実は「教養」と言われると、こっちのイメージのほうがパッと浮かんでしまうという・・・。

 アイデアは熱いうちに打たないとしぼんでしまうと言いますか、『Ζガンダム』の男性原理VS女性原理の話を、この話の延長で読んでいくとどうなるんだろうか、ってのが私の関心だったのですが、ちょっとネタを寝かしすぎちゃって、うまく言葉にならないんですけど。

 自己形成を目指したいというメンタリティの根本にあるのは、「心貧しく何かを求め続ける」気持ち、すなわち、今ある自分に満足できない焦燥感なのですね。(これは格別、男性だけの特権ではないのは言うまでもない。)
 ただ、それは貧しさに立脚しているという事実も直視しなければならない。つまり教養主義というのは、ブルジョア的視点からは「身の程知らずの上昇志向の落ち着きのなさ」だし、一方、庶民的存在には、「自分たちを置き去りにする裏切り者のエゴイズム」なのだという。
 いわば、「教養」を求める向上心というのは、「成り上がり根性」と背中合わせだという指摘なのですが、それはそのまま「近代日本そのものの姿」(その根性の消滅が日いずる国の没落) でもあったと。

 世の中全体が右肩上がりのときは、それでもよかったのですよ、たぶん。しかし、今はそうではない。
 そこで自身も女性である著者は、今日の教養(いかに生くべきか)を考えるべき最前線に立っているのは女性であるという指摘で筆をおいています。(・・・んん?結論は? 笑)

もし、教養や教養主義にたいする筆者の態度がいま一つ明確でない、批判なのか擁護なのかよく分からない、と感じられるとしたら、それは、人間をその複雑さのままに示してみたいという本書の願いから来ている。教養は、もちろん、この人間の複雑さと切り離しては考えられない。


 これはあとがきの中にある言葉です。私はこの態度は富野アニメの人間観ととても近いものだと感じました。(女の時代が来る、というシロッコの説を別にしても。 笑)
 筆者は続けて、おそらくこうした態度の例として、大西巨人『神聖喜劇』の主人公が「いろいろたくさん私にわからぬことがある」と正直に混乱を告白することについて記しています。

 人間描写の細部のリアリティは、われわれが日々体験する、厳粛と言っていいのか滑稽と言っていいのか、笑っていいのか泣くべきなのか分からない、まさにグロテスクな状況を映しだす。
 そして、そのように細部が積み重ねられるほど、人間をよく掴めなくなるのだ。これは、主人公じたいの感覚である。


 この部分は、私たちにはまるで、『Ζガンダム』の批評のようには聞こえませんか?(笑)
 「確固とした理念としてではなく、生きて戸惑い動揺している教養」という言葉に、私はとても感動をしました。

 「自分自身をどう見るか」が男性原理の教養だったとすれば、「他者にどう見られたいか」「他者をどう見るか」はやや女性原理的(と思われてきた)な教養論になりがちなわけですが、社会全体が頭打ちな現況の中で、人を差し置いても自分(だけ)は向上したい、という願いはしばしば壁に突き当たります。(下手をすれば、あの宗教の人々のようにさえもなりかねない。)
 ・・・私の下手な言葉でまとめてしまうのは、どうなのかなとも思いますが、それはつまり、人と人との関係の中で、戸惑いながら、動揺しながら、しかし互いの向上を飽かずたゆまず希求し続けるというようなことなのかな、というような感想を私は持ちました。
 つまり『新訳Ζ』というのは、そういう今日的なビルドゥングのあり方のひとつの真摯な模索だったのではないのか、と。(そして、それは断じて微温的な「現状肯定」ではない!)

タレント化するクリエイター 

[2006/05/15] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 にわか勉強、高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)で『Ζガンダム』を考えようシリーズ(ぉぃ)を続けていきます。
 第1章は「いかに生きるべきか」を自分なりに考えるのが「教養」ということ、それは教養崩壊といわれる今日では、エリートだけではなく誰もが考えるべき問題になっているということで、『Ζガンダム』の物語はそうしたテーマを検討するにふさわしい構図を備えているらしいと読みました。
 第2章では、戦争という極限の状況に迫られた時、「いかに生きるべきか」の問題は「いかに死すべきか」と背中合わせに浮かび上がってくるということ、死ぬか生きるかの戦いの中でやたらと内省を繰り返す『Ζガンダム』をはじめとした富野アニメのキャラクターたちは、そうした意味でそこに描かれているのではないかということを読みました。
 『Ζガンダム』との絡みで読みたい本命は、実は第4章なのですが、その前に第3章にも目を通しておきたいと思います。

 第3章の標題は「出版社、この教養の敵」というものです。なぜ出版社が教養の敵と言われねばならないのか?
 難しい問題が書かれているのですが、雑駁な解釈を書いておくと「いかに生きるべきか」を考えるための手がかりとなる「教養書」は大事なものですが、その著者がそれによって富ないし名声を手にすることは、実学的なものとは相容れない「教養」本来のものとは矛盾するものだということのようですね。

読まれる人の、出版を通した活躍なくして教養主義はありえなかったが、一方で教養主義は、読むことに徹する受動的な人の存在と結びついている


 「いかに生きるべきか」を深く思索するような人は本来、「ばかばかしい公衆を相手にして少しぐらい手ごたえがあったからといってそれが何だ」と考えて、市場に晒されることへの羞恥心を持つものなのではないのか、という問いがここにあります。
 ただ、「いかに生きるべきか」を思索する教養などというものは、この国では近代国家の成立時に実用性を認められず、制度の外に放置された知識(「制度化された知識の余白」)です。そこでアカデミズムはジャーナリズムと手を組むことになる。「知識の商品化、市場化」は、制度から締め出された教養を大衆社会が救うことでもありました。(無名の学者・夏目金之助が人気作家・夏目漱石になるという例が挙げられています。)
 しかし大衆化とは、ともすれば「虚名」を求めることにも繋がります。大衆は、「いかに生きるべきか」という人格修養のためにではなく、「文化的な威信にたいするミーハー的憧憬」(つまり、かたちを変えた立身出世主義) で作品や作者に接するようになってしまう。
 
 ・・・これを読んでいて、私は最近の富野さんの異様なまでのメディアへの露出というようなことを考えていたのですが、答えは簡単ではないですね。
 学者のタレント化の極限例として浅田彰ら「ニューアカ」と言われた人たちの話が出てきます。この人たち自身は教養の大衆化というものの矛盾は分かっていたということなんでしょう。

しかしニューアカに憧れた若者たちは、最初から何の屈託もなく、自分が商品になること、自分の名前が表紙にぱーっとあることを望んだのだった。


 富野さんはアニメのクリエーターとして最初期の脚光を浴びた人のひとりと言っていいかと思います。彼が「虚名」のタレント化ということについて複雑な思いを抱いていることは、なんとなくうかがえます。
 このことへの解釈は保留としまして、「ニューアカ」現象の顛末の話にはなかなか興味深いものがあります。

「おそらく浅田氏としては、知をこういう風に消費することで、こういう消費自体がばからしくなって、こうしたやり方をアイロニカルなやり方で終わらせる、というのが本来のねらいだったということになるのかもしれません。しかし、結果的にはかえってこういう思想や知の消費のやり方を積極的に模倣する人々をたくさん生み出してしまったんです。」


 「浅田氏」という部分を、例えば「庵野氏」と読み替えてみたくなりませんか?(笑)
 あるいは、タレントは作られるものだという意識の芽生えから「編集者が非常に元気になって、状況を操作しうるかのような権力意識を持ったと思うんです」というような話も、いわゆる「大月アニメ」というものであったりとか、ジブリで言ったら鈴木敏夫の存在であったりとか、アニメの状況に翻案して読めるテーマがいろいろあります。
 これら皆、興味深い視点だと思うんですが、何しろ私の能力不足もありまして、ただ面白そうだよね、と指摘するだけの情けない話です。
 いちおう、『Ζガンダム』との関係で読めそうなメインターゲットは、次の第4章のつもりなので、今夜のところはここまでで筆を置きます。

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