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「意地を通して信念に死んで行く男の美学」 

[2007/07/17] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 元はといえば『機動戦士ガンダム0083』でのアナベル・ガトーの最期っていう話なんですけどね。

私このパターン嫌いなんだな。より詳しく言えば、そこで「意地を通して信念に死んで行く男の美学」みたいなシーンに酔って感動することに、私の中でいつもストップがかかるんですね。何故だか。

・・・とzsphereさんがおっしゃったのに、同感してコメントしたのが話の始まり。

カオスの縁 ――無節操日記 -  「名誉に死んで行く男の美学」の可能と不可能

 改めて問題提起いただいたので、考えてみたいんですけど、ここで書くことは、アニメとかマンガとか、そういうフィクションの中での表現のあり方という話です。

 「意地を通して信念に死んで行く男の美学」っていうと、真っ先に私の頭に浮かんでくるのは、松本零士の『戦場まんがシリーズ』だったりするんでした。(世代だなぁ。)

 スタンレーの魔女鉄の墓標オーロラの牙 わが青春のアルカディア衝撃降下90度悪魔伝の七騎士復讐を埋めた山勇者の雷鳴曳光弾回廊、・・・このへんですね。正直に言うと、モロにはまっていたと思います。アニメで言ったら、『銀河鉄道999』の中でキャプテンハーロックが「男には、負けると分かっていても行かねばならないときがある」って名セリフがあって。シビれました。

さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~【劇場版】

 『さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~』にもね、スゲー感動しました。だからその後で作られたTV版の『宇宙戦艦ヤマト2』で、ヤマトが最後に体当たりしなかったのには、正直もの凄く落胆し、ほとんど憤りさえ感じました。そんなの続編を作りたいだけの詭弁じゃないかと。

Zガンダム以降の富野作品における特攻は大抵無様に失敗する。もしくは「特攻なんて時代錯誤なことをやってる自分が恥ずかしい」という「照れ」がある。

 psb1981さんが富野アニメの中での体当たりについて、こう書いておられますけど、私も同感。
 「自分のために。趣味で死ぬ」というのは、松本零士で言うと『戦場まんがシリーズ』はまさに(くどいぐらいに)そうでした。しかし『さらば~』はそうではない。松本零士が「特攻を美化するとして良しとせず」って、本当なんだろうか、と今でも思いますが、だとすれば、一線はそこにあるんでしょうね。

 でも今だからそう思えますけど、子どもの頃は、“オレも愛するものを守るために死にたい!”とか、ベタに思ってましたよ。愛するものもなかったくせにねぇ。(笑)
 だからララァの「あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに!」(「光る宇宙」)っていうセリフには、意外にぎくっとしました。

こういう子って、青春しているクラスメイトを「平和ボケした愚民どもが!”いざ”となったらそうはいかんぞ」と心の中で罵りながら、その「いざ=世界の危機」を待ち望み「そうなれば自分だって主人公に…少なくとも今よりマシな境遇に…」なんてぼんやり考えていることが多い。日常の中に居場所を上手く見つけられず、非日常の世界へ行きたくて仕方がないのだ。

・・・とpsb1981さんが言われたのは、まさに私のことだなぁ。(苦笑)

 Zガンダム以前の富野アニメで言うと、例えば『ザンボット3』や『ダンバイン』での体当たりは「自分のために。趣味で死ぬ」とは言えませんでした。「為すべきと信じたことを持てる力の限り行った先に、“魂の安息の場”があると信じて生きる(そして死にゆく)ということについては、どれだけ考えても考え足りないですね」と前に書いたとおりで、割り切れない思いは今もあります。
 あれらの作品では、体当たりの瞬間に潰れていくコックピットやブリッジの描写がやけに印象に残っています。あんな怖さや、割り切れない思いを残して、エンターテイメントとしてどうなのか、というのはもちろんあるんですけどね。

 『Vガンダム』での体当たりの描写のしかたでは、もう少し違う意味で割り切れなさが残っているのはオリファーさんの最期です。ルロイさんの「Vガンダムの思い出」の中では、子ども心にも「大爆笑」になってしまうぐらいの無意味さ、無様さ。“男の美学”みたいなものから言えば、これほど酔えない、感動のしようもない死に様をどう考えていいのやら。

ぼくみたいにかなり意気地のない男の子でも、ひょっとしたらそういう人間局面に立ったときに、女房子供のために「おめえ、たたき殺してやる。女房子供には触れさせねえぞ。逃げる時間ぐらいはもらうぞ。」というふうに考えて、死んでいけるだろうなってことを、少しは想像できるようになりました。

・・・と富野監督自身は『戦争と平和』の中で述べているそうです。
 『ダンバイン』で痛感したのは、王道をもって覇道を退けようとするような“聖戦士”には、生命を賭けても成し遂げねばならない使命があるということだったんですが、それはエリート論でもあります。精神年齢は“お子チャマ”なところもある私のような凡俗は、身の丈に応じて読み取るように、少し注意していないとヤバいのかも。(笑)

 “聖戦士”の話で言うと、痛々しくもこっけいなサコミズ王の物語、『リーンの翼』に触れないわけにはいかないですね。

リーンの翼 6

「生き神様でした」
のあとの言葉は、褒め称えてくれたでもなく、感謝してくれたでもなく
「憐れんでくれた」
という言葉でした。サコミズは戦火の中に放りこまれた人々を哀れみ悲しんでいます。でも、サコミズ自身も憐れんでほしかったのです。
国家のためとはいえ、自分が死ななければならない。それが簡単に受け入れられるはずがない。それでも無理をしてどうにか自分を納得させて、せめて自分の死が残って生きる人にとって意味のあるものなのだと何度も自分に言い聞かせて、死出の旅路に出た。
そんな境遇に追い込まれたことを、共に悲しんでくれる人がいる。 それが最大のなぐさめになったのでしょう。

BWT // 雑記帳 / アニメ リーンの翼 感想2

 戦争というのは、“勝てば天国、負ければ地獄”に思えて、その実態は勝っても負けても畜生道の地獄絵図だ、という認識をなくしてはならないと思うんですね。そこに“生と死”が凝縮しているから、物語の題材にはなりやすいんですけど。

 自戒を込めて言うと、凡俗って言うのは“カッコいい死に様”には簡単に憧れちゃうもんだと思うんです。だからガトーみたいな最期はエンターテイメントとしては最高ですよ。ただ、彼のああいう最期を憐れむ気持ちには、私はどうしてもなれないんだなぁ。それは一言で言えば、『0083』の物語の作り方のずさんさゆえなんですが。
 富野さんという人は、エンターテイメントということをとても強く希求しながら、でも、最後の最後のところで安易にエンターテイメントに落してしまうのではなく、ぎりぎりの割り切れなさを描かずにはいられない人だと思います。私なんかは、そこの不器用さがたまらなく好きなんですね。
 その富野監督が立ち上げた宇宙世紀のガンダム世界の隙間を狙って、設定がキレイにハマることを物語よりも優先して作ったように思える『0083』という作品の中で、ガトーというのは、ただカッコよく物語を終えるために死んでいったという気がするんです。だから、ガトーというキャラクターは嫌いじゃないかもしれないんですけど、そういう物語の作り手を、私はどうしても認める気にはならないんだなぁ・・・。

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“戦争”を描くことは神聖にして“方便”にすべからず? 

[2007/05/09] | 随想系 | トラックバック(1) | コメント(2) | TOP ▲

 ちょっとタイトルは挑発的過ぎますが。(笑)

いつのころから新発売3 - 戦争を方便にする戦後派への反感

 こちらで私が書いたコメントへのお答をいただいたのですが、お返事が例によって長くなったので、こちらから失礼します。
 “方便”については、「元は仏教用語」とh-nishinomaruさんの仰っておられるとおりだと思います。非常にリスキーなことをやっているという自覚を、富野さんは強く持っておられると、私は思っています。
 アニメで戦争を描く意味というのは、どこにあるのでしょうか。実務的な意味での“方便”ではなく、「元は仏教用語」という指摘にも耐える“方便”は、(生と死が常に背中合わせの)人間という存在の、極端に分かりやすい例示でしかないんじゃないでしょうかね。

 それよりも、最初にコメントをさせていただいたエントリー(《ターンエーの癒し》=近世以前への退行)では、富野アニメで描かれる戦争の質が変わってきている、という指摘のほうが、実は興味深いと思っていたのでした。
 人間を描くための“方便”として“現代の戦争”を見つめていくと、リアルな人間というものがどこにいるのか、次第に見えなくなってくるんだと思うんですね。つまり、ひとりのパイロットでしかないアムロは、歯車の一枚でしかない。――『機動戦士ガンダム』では、そこに“人間”のいる物語を成立させるために、例えば“ニュータイプ”などという、また別の方便が必要になったのではなかったかと私は思います。
 しかし、《現代の戦争》を描くために、理想を交えたそうした人間像を描いたことは、では不謹慎ではなかったのか?という反問も浮かんできます。

 「戦争を描くこと」と「人間を描くこと」の、《手段》と《目的》の関係(鶏が先か卵が先か)とか、考えるべき内容は、はじめるときりがないぐらいに多くあると思います。が、h-nishinomaruさんのお書きになっている中にあるような、戦後派的な「正義」の危うさを描こうとすることに関しては、見ていてイヤになるぐらい富野さんは自覚的な人だと『ザンボット3』などを眺めていても思うので、話の方向が変なほうに行ってしまったかな、とコメントの仕方が不用意だったことをお詫びしたいと思います。

 富野アニメが描く戦争が、現代から近世以前に退行しているのではないかという指摘は、戦争の側に軸足を置いて人間を見つめるか、人間の側に軸足を置いて戦争を見つめるか、という視座のシフトの問題であって、「退行」という言い方には馴染まないのではないかと私は感じます。
 翻って言うと、人間性のある(まだあった)戦争というのは近世以前のようにしかならず、現代戦の中に人間性を見出すことは著しく困難(敢えてそれを描くのは、しばしば思惑あっての嘘)だと言うことが、富野アニメの系譜から如実に見えてしまうのは、それだけでも興味深いことではないでしょうか。

 h-nishinomaruさんは「ファースト・ガンダムに限っていえば、真摯に《現代の戦争》を活写しようとした、オカルト性の皆無な、すぐれてリアルなアニメだと、思っています」と追記されています。たぶんTV版のことでしょう。ニュータイプみたいな“オカルト風味”の薄いTV版を支持する人が多いのは私も承知していますが、現代戦のリアリティを追求するだけなら、(例えば押井守の『パトレイバー2』のように)人間性の不在をとことん浮かび上がらせるほうが、むしろ誠実です。それはそれで、ひとつの表現です。

 ただ私は、戦争という状況を生死一如の人間という存在の典型と考えた場合に、では現代という時代の中にあっては、例えば人間性なるものには、どこにもその居場所はないのかと問わずにはいられなくなるんです。人間性の不在を改めて痛感させられるだけでは物足りなくて、人間の在るべき場所をさまざまな視座から真摯に思索する試みに触れることは、(例え答はいつも見つからなくて、それが単に“検討中のデッサン”のようであっても、)私にとっては無上の喜びなんですね。

 近世以前への退行というのでは、「NHK大河ドラマの戦国時代もの(日本史をモチーフにしたホームドラマ)」と同様ではないかということも言っておられました。近ごろあまり見たこともありませんが、ある意味で「総中流」な現代に通じるホームドラマとして楽しめる、それが現代人の欲しているものなのだとすれば、エンターテイメントとすれば、それでけっこうなんじゃあないでしょうか。
 戦後派の振りかざす「正義」は確かに胡散臭い。その胡散臭さは今さら指摘されるまでもないから、世の中“無党派”だらけというのも仰るとおりだと思います。そんな現代人が、今、真に欲しているものは何なのでしょうかね。(・・・という言い方は、根拠のない希望に支えられたものかもしれないな、とも思いつつ。)

戦争ものを描く意味 

[2006/05/14] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 「Ζガンダムは“ビルドゥングスロマン”(=成長譚、教養物語ともいう)として読めるのか」という話の続きを久しぶりに。
 引き続き、にわか勉強の参考図書は、高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)。この本は“教養(主義)”の歴史の入門書としてとても分かりやすいし、読みやすいです。インテリの皆さんはご存知のことが多いのでしょうけど、私なんてほんとに教養不足だから。(笑)
 こういうインテリ的な本を読んでアニメの話なんてしなくてもいいのかもしれないんですが、マジメにいい糸口になっていると思うのですよ。
 第1章「男の子いかに生くべきか」 について書いたのは、3月末ですね。なんて遅読・・・。
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-276.html
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-277.html
 前回の反省を踏まえて、なるべく柔らかく書きたいと思いますが。(汗)

 第2章の標題は「戦争、そして教養がよみがえる」ということです。

こうして戦争末期、若者たちが「人生二十年」説を信奉し、国家のための死を決意しなくてはならなくなったとき、教養はかつてないほどの人気を享受したのだった。


 振り返ると教養というのは、「自己形成」(いかに生くべきかを考え、いかに生きるかを決め、つまり自分自身を、ほかならぬ自分自身の手で作りあげること)のために必要となる、実用知識以外のものを指します。 
 これはサラリーマン的な実用主義、功利主義から見れば、むしろ邪魔者扱いされるような存在です。世間では、「ただお勉強が出来るだけの優等生」は、それはそれだけで充分なので、内省と自己批判ばかりされていても目障りなのですね。
 1930年代の世界恐慌に続く不景気、そしてファシズムの足音の中で、「教養の崩壊」が言われるようになります。そういう中で「インテリ」たちも内省することをやめ、「大衆の一員のごとく健康で朗らかで、功利的で、エゴイスティックで、打算的」な生き方を選び始めたのですね。そして教養に替わってサブカル的な知識を求めるようになる。
 ところが、こうした「教養の崩壊」が言われる時代こそ、実は教養の必要が叫ばれ、求められる時代でもあるわけですね、なるほどです。そして教養マニュアル(笑)的なものが出され、それなりに受容もされたりもするのですが、「あれを読めば日常の話題に困らないという一つのあれだろうと思うんですが」というような読まれ方であったりとか。

 ・・・えーと、これはたしか戦争前夜の1930年代の話なんですが、妙に現代に通じるような部分が多いですね。
 しかし、戦争という極限状況を迎え、事態は一変するのです。

もう先には死しかないということこそ、無償なる教養の最大の推進者であった


 「男の子いかに生くべきか」の問題は、「男の子いかに死すべきか」を目の前に突きつけられたときに真剣みを持つのですね。
 今日の話は、「戦争もの」を描く意味ということだけになるのですが、死と背中合わせのその状況下で、やたらと内省を繰り返す富野アニメのキャラクターたちというのは、今日という時代の中で、ある必然を持ってそこにいるという思いを私は強くしました。
 昔、『きけわだつみのこえ』を読みはじめて、あまりにつらくて投げ出してしまったという苦い過去が私にはあります。さまざまな見方がありますけれど、「無私無欲の死」に美学を求めたいと考える、あの哀しくも高貴な思いも一つの真実だったのですよね。
 無知と無批判から脱却したいという真剣な希求こそが「いかに生くべきか」を深く内省する契機となり得る。それが戦争賛美にならないようにだけは、気をつけなければならないのですけどね。

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