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『星の鼓動は愛』は“純愛”否定? 2 

[2006/10/30] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 富野監督と「純愛」の話 三部作の延長戦の、そのまた続きです。(笑)

富野監督は「30代が恋愛にアップアップしていて、一生シングルかもしれない…」といわれていますが、実際にアップアップしているのは、恋愛(純愛)もせずにお見合い結婚をしてこの頃になって「経済orコミュニティ至上主義」は失敗だったとして、(個別には決定的な理由は色々有るでしょうけれども)離婚している熟年世代の方ではないでしょうか?


 私はなるべく“いぢわるくまじかいし”たくないですけど(笑)、ねもさんのコメントの流れ、はじめは“恋愛至上主義”じゃないと言っておられたように思ってたんですが、だんだん“主義者”寄りになって行っちゃってません?別にディベートをしているわけじゃないですし、基本は、(私には似合わないながらも)“恋バナ”ですから、どうか気楽にお付き合いくださいませ。(笑)

 まず富野監督が“恋愛問題”を専門的に研究してる人ではないだろうというのは、それはそうでしょう。“そういう人”なりの考え方だ、と思って耳を傾けてみてはいかがでしょうか?ちなみに私自身も、恋愛に関しては「まるで駄目男」クンです。(笑)
 ですが、そんな私でも、恥ずかしい話をすれば、土砂降りの雨の中を傘もささずに彼女の姿を求めて泣きながら走った…ぐらいの個人史はあります。(こんな話は長くなるので書きませんけどねー。 自爆)だから、富野さんが自伝などで書いてることで、彼の恋愛体験のすべてが分かるわけでもないだろう、と私は想像するのですよ。
 生きてきた年代、それぞれの体験、…恋愛観などというのは結局は百人百様のものとまで言い出すと身も蓋もないですが、だけど“恋バナ”などというやつは、自分の立場で感じてきたことを、思ったままに語るしかないものではないでしょうか。また、人の話も(専門家、非専門家を問わず、)そうしたものだと思って聞かないと、絶対普遍の真理なんて、そうそうはないんじゃないでしょうか?(といって、百戦錬磨のツワモノ以外の言葉は無意味だというようなものでもないでしょうし。)

 ご指摘のとおり、今「アップアップ」してるのは、格別30代だけじゃないだろうと私も思います。熟年離婚も「アップアップ」だろうっていうのには強く同感。ただ、その原因がお見合い結婚なのかどうかは、私には疑問です。(恋愛結婚であれば大丈夫だと?少なくとも富野監督はそうではないと考えておられるようです。)――それこそ私も専門家じゃないから分かりませんが、いい年をして分別なく別れて、それで幸せになれればいいですけど、ねぇ?
 韓流ドラマブームな中高年の「純愛への憧れ」が、あまりいいものには思えないというのも、だから大賛成。そういう熟年世代に向けてもメッセージを、というのも分かりますよ。ただ、その人たちは残念ながら、富野監督のアニメなんか見ないだろうからなぁ…。(苦笑)
 それから、ここはちょっと大事なところですが、「熟年離婚」は「一生シングル」よりも、「ワーストケース」なのかどうかは議論が分かれそうですよ?……一応、人生でやるべきことはやり終えて、残酷なことを言えば老い先も短い人たちが、感情と現実の折り合いを付けられないのも無残といえば無残ですが、“人生これから”の人たちの問題は、考えようによってはいっそう深刻ですよね。

 そして、“~主義”ということなんですが、富野監督の発言には、「イズムを出発点とした表現というのは所詮論文でしかない」、「所詮、イデオロギーというのは100年持ち得ないかもしれないと考えます。」というものがあります。(→【東大】富野由悠季講演会【五月祭】[2003年5月])
 「~優先主義」か「~至上主義」か、どころの話ではなくて、富野さんという人は、あらゆる“~主義”を根底からぶっ飛ばす、スゲー思想(というかヤバイ思想?)の持ち主だということなのですよ。(でも“原理原則”みたいなことは言うので、そこが果てしなく難しい・・・。)

といったときに、人間が一番支持するのは、体感的に言う快感でしかない。そうするとオーガズムも重要な要素なんだけど、オーガズムに近いようなものを体感、想像できるかもしれない、そういうような欲望を喚起してカタルシスさせる芸能というシステムは、人が永遠に手に入れ、持続させなければいけないことなんじゃないかなと思えてきたんで、イズムというものを捨てた、という言い方があります。


 知性で塗り固めるイズム(=“~主義”)は結局その場限りのものなので、これに代わるべきものとして、(のりのりさんが指摘されたように、)人間の生理に根ざしたシステムとして、「芸能」を構想する。――ちょっと難しいですよね。(笑) 私なんて本質的には“頭ガチガチ”な人ですから、こういうのも感覚的じゃなくて、つい頭だけで考えちゃう。(なので、この話はここではここまで…。)

 話を戻せば、富野監督の立場は、つまり「非恋愛至上主義」という“主義”でもないんじゃないかということです。同様に“個人主義”でもなければ、“コミュニティ至上主義”でもないんだと私は思います。

囚人022さんは、「コミュニティは(そのコミュニティの構成員同士の)恋愛をもっと素朴に祝福してもいいのではないか」といわれていますが、コミュニティに幻想を抱きすぎの様におもいます。


…とねもさんは言われるのですが、仮に“キミとボクだけのセカイ”を夢想してさえも、それは実際には、既に最小限のコミュニティだったりするんじゃないかと私は思うんです。富野さんの言葉で言うところの、「結婚、つまり、性別が違う人と一緒に暮らすというのはもともとが折り合いが悪いものなのよ。それをなんとか定置をして、子供を生んで、家庭を維持して、なおかつ死ぬまで一緒だったりする。そういう他者と折り合いをつけて暮らしていくのが、結婚であり、人間であり、世の中なんです」ってことですね。
 つまりシビアな見方では“キミ”はもう他者のはじまりなんで、“キミとボク”の恋愛だけは特別だというのは、逆にそれこそ「幻想を抱いてるんじゃないですか?」ってことです。
 だからそれを承知で「折り合いを付ける」決意をした二人っていうのは、その馴れ初めが“ドラマチック”だろうと、そうでなかろうと、等しく祝福に値するんだと、もしやそういうことが富野さんは言いたいのではないかなぁって。

(恐るべきことにまだ続く)


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『星の鼓動は愛』は“純愛”否定? 1 

[2006/10/30] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 富野監督と「純愛」の話 この三部作(笑)は、“恋愛べた”の私なりに一生懸命書いたのですが、その中で話の引き合いに出した、ねもさんのほうから気合のこもったツッコミをいただきました。ごめんなさい、ちょっとだけ勝手に要約します。

・自分的には、『カミーユが「妥協の産物」としてファを選択』であっても、『カミーユが、恋愛的な反比例距離を克服して物理的な距離の近さまで近付きたかった結果としてのファ』であってもどちらでも良い
・ただ、どちらの感情が根底にあっても描写の不足感を強く受ける(カミーユに感情移入し難い)
・なので、『星の鼓動は愛』のラストで、映画の主題が「純愛」だからといって、その予め用意されていた結末のエピソード(=カミーユは崩壊せずにファと結ばれる)に向かって、なんの脈絡もなく唐突にファへ向かって愛情を注ぎだすカミーユ描写は、まるで「デウス・エクス・マキーナ」的ではないか?
・あの様な、作品(とかその先の観客)への「愛情優先主義」ではなく「尺優先主義」で作られた描写不足なラストでは納得出来ていない


 これについての私の理解は、先日書いたとおりですが(→「恋愛至上主義」と「星の鼓動は愛」、私の雑感 )、つまり“描写が足りない”のではなく、カミーユとファの恋愛ドラマは“意図的”に少なめに描かれたものではないのかと考えています。
 (ご指摘のように「中学生ぐらいからのお隣さん」を幼馴染と言う言わないは別にしても、)彼らが互いに好ましく思っていることは、既に先刻承知のことなのですよね。これは「何の脈絡もなく唐突」ではないと思います。
 だから、それに「納得がいかない」というのは、彼らの恋愛が“ドラマチック”な要素を欠いているという不満感なのではないのかと私には思われます。
 つまり、ここで問題提起されているのは、「恋愛ってそんなにドラマチックなものじゃなきゃ駄目なの?」ということだと私は考えているのです。そして作者がそういう考えの持ち主であれば、“ドラマチックでない普通の恋愛”を、まさにそのように表現してみせなくてはなりません。――これは物語の長さ(尺)には関係のないことであり、「~優先主義」という言い方をすれば、むしろ“何も優先しない”(ドラマチックな恋愛と普通の恋愛とで、どちらが上でも下でもない)ということを、そのままに見せたのが、この作品の表現ではなかったでしょうか。
(余談ですが、“~優先主義”という言い方は、“~至上主義”よりも、この場合のニュアンスとして適当なものかもしれないですね。つい、言葉のインパクトに引っ張られて“~至上主義”、“~原理主義”などと用いてしまいがちですが、ご指摘のおかげで「語弊もある」ということを教えてもらった気がします。)

 さて、もちろんカミーユは、いくら苦労をしてきたとはいえ老成した大人ではありませんから、まだ若いねもさんやルロイさんと同じように、純粋なものへの憧れを失ってはいないでしょう。ただ、(またものりのりさんがうまいことを言ってましたが、)それはそれとして“純愛”の理想は“殉愛”だけでいいのか、という疑問形はあり得るとは思いませんか?

対照的にZガンダムのサラ・ザビアロフが「頭でっかちな純愛(恋愛至上主義)」を貫いた子なんですよ。「私とハプテマス様は地上で唯一無二の特別な関係なの!」とか言って。でも、サラって本当はカツやカミーユにも揺れてたんです。そこで素直になっておけば良かったのに、そうしないで頭でっかちな純愛を貫いた結果、ああなってしまったんですね。


 psb1981さんのこの指摘も、私は慧眼だなぁと感心しました!

 偉そうに言ってるように聞こえたらいやなんで、正直に書いておきますが、「手近な現実と向き合うということが、すごくみっともないこと、納得の行かないことに思えていた自分を、この作品で発見した」気がしているのは、ほかならぬ私自身です。

そういや、「下衆なもの」と表現されているそれは「人間の生理に根ざしたもの」ということではないでしょうか?


・・・とのりのりさんが鋭くご指摘のとおり。
 「生きている喜び」や「好きな人と抱き合える喜び」――私のような夢見がちな人間は、往々にして(&いくつになっても)“それだけではない何か”を求めてしまうのですが、夢を追いかけるあまり、大元にある“それ”を、いつしかつまらないこと、どうでもいいことだと思いなしていたようです。どうもそこで(少なくとも私は)「アップアップ」してしまっていたような気が。(笑)
 そういうわけで、これは私自身には、実によく当てはまる話だったので、「“恋愛至上主義”というもののためにアップアップ・・・」というのを前提に文章を書いてしまったのですが、「そんなものは一般論ではない」と言われると、なるほど少し、普遍性を再検討する必要は感じております。

続く



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「恋愛至上主義」と「星の鼓動は愛」、私の雑感 

[2006/10/25] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

正直な話恋愛至上主義という感覚は自分には理解できないものでして、割と最近まで女子高生とリアルに接することができる立場だった人間としては(笑)、不思議だなぁと常々思っていました。そういうのを否定したいって気持ちも実に分かるんですが、そういう感覚って古今東西全ての女性が持っているものだと思うんですよ。最近の恋愛至上主義傾向っていうのは、単純に女性の嗜好が世間に反映されやすくなっただけなんじゃないかと思うのです。もちろん世相はありますけどね。
だから、「君たちちょっとそれは違うんだよ、恋愛とはそうではないのだ」という言い方は、ただの大人の傲慢でしかないんじゃないの?とは思いますね。

ただ、自分が新訳Zのラストで腑に落ちないのは、単純に過程の描写が足りてないっていうだけで、ああいうラストになること自体は全く否定するつもりはないんですよ。せめて、ファがもっとカミーユに片思いしている描写があればもっと伝わるのに…と、そう思うだけなのです。(ルロイさんのコメント


 若い人は羨ましい…とか、とりあえず、つい口をついて出てしまいますが(笑)
 なるほど御大の言い方自体が「今の30代が恋愛にアップアップしていて、一生シングルかもしれない」ですから、それは現在ただいま、全然“アップアップ”してない人には、はじめから通じない物言いかもしれないと思いますね。

はてなブックマーク > タグ > 恋愛至上主義

 このあたりを眺めていると、確かにそういう問題を実感している層は(特にサブカル界隈?でなのかもしれないですが)実在すると思うんですけどね。
 それから、もう少し広くネット上を見回していくと、「恋愛至上主義」という言葉に対する男女での感じ方の違いというのも、なるほどあるような気がしてきました。(それをうまく言い当てるところまでは到底行きませんけどね。)

 若い人が“純愛”に憧れる気持ちを持つのは普通のことだと思います。ただ私も「大人の傲慢」を恐れずに言うと、それは“夢”と言い換えることも出来ます。(この世のものじゃないかもしれない。)
 だけど“夢”を持つこと自体を否定する立場でもないんだろうなぁ。“夢のない大人”になんか、なりたくってなるやつなんて誰もいないんだ。
 ただね、いくつになっても夢ばかり見がちで現実を直視できないでいて、なおかつ(自覚のある場合もない場合もあるでしょうが)それに起因して、目の前の現実にうまく対処できないという“大人のなりそこない”が、現に世の中に一定数以上いたと仮定するなら、それに対して「夢を大事にすることも忘れてほしくないけどね、…」と語りかけることは、それは「大人の傲慢」じゃなくて、むしろ大人の責任なんじゃないかと。
 そういう文脈で言うと、ファとカミーユの関係は、描写が足りないんじゃなくて、むしろある意味では、わざと“純愛”らしさを避けて下司に、それこそ“手近なところで間に合わす”感覚をえげつなく描き出しているんじゃないでしょうか?…だって、あそこでファと(みっともなく)抱き合うことが出来るカミーユだからこそ、今回は“崩壊”しないで済んだんですよ?(そこにカミーユとファの“純愛”をあらかじめ描いておいたのでは、あのラストが“みっともなく”は見えないでしょう。)

 たぶんそれこそが狙いなので、「表現としては、ああでしかあり得なかったんだ」というのが、白状すればルロイさんの問題提起をきっかけにして、ようやく私の至ることの出来た理解です。(私もね、あの下品とさえ思える抱き付き合いは、いったい何なんだろうなぁ~と思っていたんですよ。)

 夢はなくしたくないんですよ。だから夢を完全に壊すことはしないように配慮もされてはいるけれど、でも夢を追い続けるだけでは(夢見る主体である)自分自身が崩壊してしまうかもしれないような状態に置かれたなら、みっともなくても手近な現実ときっちり向き合うことも、描いておく必要がある、のではなかろうか。
 Zガンダムというのは現実認知の物語である、という初期からのプロットがあったと思うんですが、その責任を最終的に取るということが、実はああなるんじゃないかと。
 それは今、一見みっともないだけに見えるかもしれないけど、これを観た人の深層心理の中に潜み、やがていつか、彼/彼女が夢と現実の相克に直面し、崩壊の危機に瀕したとき、「みっともない手近な現実と向き合うことだって、そんなに全否定されるべきものじゃないんだよ」と少しだけ、現実を生き抜くために背中を押してやる役割を果たせたなら。
 ……何よりも、(ひどいことを言えば、)何十年も前の旧作をいまさらやり直すという、そのこと自体も言ってみれば、監督にとっての“みっともない手近な現実”のひとつだったのですから。



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富野監督と「純愛」の話 その3 

[2006/10/24] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(12) | TOP ▲

 富野監督と「純愛」という話題で長々書いてきましたが、今回で終わりです。(→その1 その2
 今まで見てきたとおり『新訳Z』の制作にあたり、富野監督が意識して、「こういう時代だからこそ純愛を掲げた」というのは確かなことのようです(ルロイさんのご指摘どおり)。しかし、もうひとつ分かることは、どうもこの方は、世間一般で思うところの“純愛”観の持ち主ではないんじゃないかということも見ておかなきゃならない気がしますね。
 以上を整理したところでもう一度、この記事を見ていきます。

WPB2006年2月14日号 富野由悠季×矢口真里「監督さんと“恋バナ”をするのだッ♪」:シャア専用ブログ

矢 しかも3月に公開されるパート3のサブタイトルは『星の鼓動は愛』。愛ですよ、LOVEですよ!
富 フフフフ(微笑)。
矢 それって、今の若い人に対して、恋愛ってものすごく重要なんだよっていうメッセージなのかなぁ、なんて思ったりしたんです。やっぱり、最近の若者たちの恋愛観にひと言いいたい!みたいなことってあるんですか?
富 特にはありません。さらに言ってしまえば恋愛はもちろん、学歴や年齢のことも気にならなくなっている。……ただし、今の30代が恋愛にアップアップしていて、一生シングルかもしれないという話を聞くにつけて、もう少し当たり前に考えたらいいんじゃないですか、という事は言い方はしたい。


 「恋愛ってものすごく重要なんだよっていうメッセージなのかなぁ」というのが普通の受け止め方なんでしょうが、明確にそれを否定はしていないけど、以下の言葉ではそれとは全然別の話をしているんですよね。だいたい「最近の若者たちの恋愛観にひと言いいたい」のかと聞かれて、特にないと言いながらも実は、恋愛にアップアップしてないで、もう少し当たり前に考えろと「ひと言」以上に語りまくってるし。(笑)

矢 私もお見合いは悪くはないと思います。出会った瞬間に、お互いが「これは……運命の出会いだ!」なんて感じたら、すごくステキだと思う。だけど、今は恋愛結婚の方がスタンダードじゃないですか?
富 そう。現代の結婚は恋愛あってのものだと考えられている。まさに恋愛至上主義なんです。
矢 あー。私も恋愛至上主義かもしれないですね。女のコって、やっぱり16、17歳になると、自然に「好きな人と一緒になれたらなぁ」なんて思うじゃないですか。しかも周りの友達が結婚して幸せになっていく姿を見てたりすると、フツーに意識しますよ。恋愛結婚っていいなぁ~って。
富 確かに、「恋愛感情のない結婚なんて気持ち悪いじゃん」っていう言い方もあるでしょうね。だけど、それはよほどいい巡り合わせがあったからフォーリン・ラブになれるんであって、なかなかそうはいかないでしょう? 100組のカップルがいて、80~90組ぐらいまでは、「まあ、こんなもんだ」と思って結婚したという人のほうが多いんじゃないのかな?
矢 うわっ、監督、痛いところ突いてきますねぇ~(笑)。
富 結婚、つまり、性別が違う人と一緒に暮らすというのはもともとが折り合いが悪いものなのよ。それをなんとか定置をして、子供を生んで、家庭を維持して、なおかつ死ぬまで一緒だったりする。そういう他者と折り合いをつけて暮らしていくのが、結婚であり、人間であり、世の中なんです。


 これね、今の世の中の主流は“恋愛至上主義”だから、反発を持つ人が多くいるのは当然だと思うんですよ。
 それを踏まえて、『星の鼓動は愛』のラストについての「遠くの1万円(レコアとかエマとかフォウ)より、手持ちの5百円な感じ(カミーユの妥協の産物感)が…するのですが…皆さんあんなラストでOKOKなんですかね?」という、ねもさんのコメントも、そういう立場から見た本質的な反発だと思います。
 しかし、ここで反発を感じてしまうことで、自分の中の“恋愛至上主義”があぶりだされるという、実はそういう構造になっているんですよね。知らず知らずの間に“主義者”になっている部分があるのではないか?――そのとおりに考える必要はないけれど、わずかでも各自の“純愛”観を振り返ってみるきっかけを提供できたならば、それはそれで「表現として成功している」といえるんじゃあないかと私は思うのですよ。
 もうひとつ、反発を買うことをあえて言うと、ヘンケンとエマの関係とその結末を、“純愛”のひとつの帰結として考えたときに、「戦場で、戦場ではしゃいでるから…お調子者……。くっ!!」という直後のカミーユの台詞は、私にはやはりこの二人のありようにも重ねて投げかけられた言葉だったと、やはりその考えからはどうしても抜けられません。(→男の死に様とヘンケン艦長の死
 前にも書きましたけど、「恋愛は神聖にして侵すべからず」というところの弊害で、アップアップしているのはどうなんだろうかと。このとき私は“恋愛資本主義”への反発のようなことも併せて書いてしまったんですが、今考えてみると、その反発も少し“恋愛至上主義”(さらに言えば“純愛原理主義”)の思想に毒されている面があったかもしれないと反省されます。
 そういうものに多少流されてしまう部分も含めて、「恋愛というのはもう少し下衆なものだと考えてもいいんじゃないか、それを下衆に扱ったと非難するのではなく、誰もが普通に持っている願望として、コミュニティはもっと素朴に祝福してもいいのではないか」というほうが、より大切なことだったかもしれないな、と。
 『星の鼓動は愛』は生ぬるい現状肯定だったという評がありましたが、“現実直視”と“現状肯定”の境界線をどこに引くのかという問題なのだと思います。
 手の届かないところにある1万円を夢想し続けているより、今、目の前にある500円を大事にするところからはじめてみればどうだろう?…と書いてしまうと、常識的で当たり前のつまらない表明のように見えますが、それが反発を買うものであればあるほど、実は、生ぬるい肯定ではなく、思いがけない問題提起になっているのではないかと。




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たとえゲームは不可避だとしても、 

[2006/07/16] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 「Stage1=恋愛ゲームの勝者だけが、Stage2=人生ゲームへの参入資格を持つ。ついては、恋愛ゲームのマニュアルはコレだ。」…というような風潮、すなわち恋愛至上主義(=恋愛資本主義)に感じる反撥ということについて、先日から、駄文をいくつか記しました。

ニュータイプ論と見せかけて、実は・・・
恋愛至上主義 イクナイ!w

 「モテるための努力を回避する」ということは恋愛至上(資本)主義への批判的態度ということで、「非モテ」宣言(笑)を図らずもしてしまいましたが、矛盾したことを書いているのは一応承知しております。

 恋愛ゲームに上手に適応できなかった人間の中から、少なからぬ比率でモテない趣味であるオタクへ奔るものが出ているという現象。(*1)
 「目の前の相手と向き合う事」を忌避するオタクは、「自分しか愛さない」という事にも繋がりかねないのではないかというオタク批判はおそらく正しいと認めたうえで、「向き合わない」オタクばかりが責められるが、「向き合えない」環境にも問題はあるだろうということを私は書きました。
 恋愛ゲームなんかよりも人生ゲームのほうが本番なのであり、人生ゲームを「現実」として直視することが社会のためだというのなら、恋愛ゲームをクリアできないものは人生ゲームに参加しちゃいけないかのごときルール設定は、実は全然社会のためになっていないという異議申し立てをしたかったのです。

 社会のこうした風潮について、恋愛ゲームを「金になる市場」とみなす広告戦略の存在が指摘されましたが、同時にそのゲームから退いたはずのオタクがまた、モテるために使うはずの資力を他のことに使う「金になる市場」になってしまっているという事実も見なければならなくなりました。(*2)

 自分の「研ぎすました価値観」を磨くことの、今日いかに難しいことか!

 いったん切ります。

*1)
 本来のオタクはそういうものではない、という言説があることも承知しています。この「オタク is Dead?」の問題についても、いずれ考えてみたいと思っていますが、ここではいったん、主として非モテ趣味としてオタクを考えています。
*2)
 避けても避けても出てきてしまいますが(笑)、オタキングによるオタクの定義は「好きなものを自分で決められる知性と偏見に屈しない精神力を持っている人たち」だそうであります。そして、そうした意味でのオタクは死に絶えたのだ、と。



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