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比べてみたくなるもの? 宮崎監督&押井監督&富野監督 

[2008/08/07] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 私の半径1クリック圏内だけの話かもしれないけど、圧倒的に思えた『崖の上のポニョ』(宮崎駿監督)の話題を抑えて、想像以上にネットでは注目されているような気がする『スカイ・クロラ』(押井守監督)。同時期の公開ってどうなんだろうかと思っていただけに、世の中(ネットだけが世の中じゃないですけど)の反応含めて、興味深く観察させてもらってます。(それでも『ポニョ』見るもんかと私は意地をはっちゃってますけど!)

 面白い切り口の記事を書く方だな、と最近ブログを購読させてもらっていたHIGHLAND VIEWさんが、そういうタイミングを捉えて両監督の「リアリティコントロール」を比較した記事を書いておられたので、これは面白いと思って速攻ブクマしました。

宮崎駿

  • 絶体絶命のシーンをドキドキワクワクのダイナミックな動きで突破することこそアニメーションの楽しさ
  • 無茶を通せば道理が引っ込む。観客が「道理が引っ込んで当然」と思うほどの魅力的な動きを
  • 少女を守るために飛び降りる勇気があるか、少女の重さを歯を食いしばって耐えられるかどうか、そこが重要

押井守

  • 絶対絶命のシーンは道理(脚本・構成レベル)でつくられる。ならばその解決も道理で
  • 最悪のシナリオを登場人物たちが知恵を絞り、行動し、それを回避するような話が好き
  • 観客が危機回避を納得できるだけの理屈は必要
  • 問題はその作品のリアリティレベルがどの程度か、ということ(その意味で夢オチもあり)

 上記はちょっと要約しちゃいましたが、真面目な内容がありながら大変面白く読ませる記事になってました。対比を主眼としたためなのか、押井監督はもちろん、宮崎監督も宮崎監督独特の(って言うか余人には真似し難い)リアリティレベルのコントロールをしてますよというところが読み取りにくかったようで、コメント欄に少し熱いツッコミが入ってますケド。

※余談 富野由悠季の場合
絶体絶命 → 二代目主役ロボが助けに来る。

 それより白状すれば、私はここに噛み付こうかどうしようかと思ってブクマしたような気も68%ぐらいするんですが(笑)、「これじゃないですかね。やっぱり。スポンサーの枠組みの中で最大限の仕事をしてきた人としては。ピンチは新商品が登場するためにこそ存在する!」って、この人は実は“分かってる”人だなぁと思って。

 そしたら、はてブでホッテントリーに入ったということで、わざわざお礼を言われてしまいました。恐縮!
 それにしても現在で、398usersはすごいですね!

あとみんな宮崎駿と押井守好きすぎです。
どんだけ好きなんですか。

 いやいや、まったく。

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宮崎駿 『ハウルの動く城』 (2004年) 

[2008/07/28] | 感想系 | トラックバック(1) | コメント(1) | TOP ▲

 恥ずかしながら、テレビ放映されたのしか見てませんでした。

 宮崎さんは「原作クラッシャー」の癖に原作がある作品のほうが出来がよいのは何故なんだろうかと前からよく言ってますが、画面作りの人だからと言われれば、なるほどそうかも。
 昔の作品では、あまり得手ではない物語作りに自分を投影することは控えていたのかもしれなかったですけど、今は“怖いものなし”なんで、平気でストーリーにも自分の趣味を押し込んでくるから、近作のいくつかは「気持ちいい」のか「気持ち悪い」のか、よく分からない作品になっているような気がします。

 この辺の話もありまして、やっぱりもう一度ちゃんと見直してみようと思いまして。
 で、見直してみて、これはテレビで見ちゃダメな作品かもしれないですね。けっこう集中して見ないと。・・・でも、かなり本気で難解な部類の作品ですよねー。こういうのが許容されるんだから、濃いアニメファンじゃない人たちの感性というのも、侮り難いものがあると変てこな方向で感心したりしました。この内容で観客が多かったのだから、まさかキムタクの声だからってだけではありますまい。(笑)

ハウルの動く城 特別収録版

 キムタクの声は案外悪くなかったですね。ハウル役については、元からそんなに演技力の必要なセリフは多くなかった気もしますが。
 倍賞千恵子も、私はまずまずと思いました。これはだって、少女から老婆まで行ったり来たりする役なんて、声以前のところで無理が大きすぎますもん。あるいは彼女は宮崎監督の好みのタイプだったのでは?最後の歌ぐらいはともかくとして、ところどころキャラクターの絵づらを倍賞千恵子に似せたふうに描かれていた部分があったような気もして、そんなことをするから“違和感”とか言われてしまうんだろうな、と感じました。
 役者を使ってもいいんですけど、へつらうような部分が少しでもあると、そりゃアニメファンはそっぽ向くだろうと思います。その点は、倍賞さんが悪いというより監督なのか、鈴木Pなのか分かんないけど、使った側の責任が大きいんだろうと私は思いました。

 宮崎アニメ的な「気持ちいい」ものを期待して見に行ったら、「気持ち悪い」ものをてんこ盛り見せられて、何かのせいにしたい人が声のせいにしたりするところもあるのかも。魔法の世界も気持ち悪いけど、黒煙もくもくな街の風景は、出てきた最初から厭世的な印象がありました。
 主人公のソフィーも、若くして何を世をはかなんでいるのか、というキャラクター。“荒地の魔女”っていうのは、もしかしたら彼女の暗黒面を象徴する分身なのかなぁとか思って見ておりました。(暗黒面だけあって、何と見苦しく描かれていることやら。)
 しかし魔女の呪いで老婆になってしまった彼女の、何と生き生きしていることでしょう。これを見ていると逆に、自意識でパンパンになってしまう若さというもののほうが、ある意味で呪いなんじゃないかと、そんなことを思ってもみたり。

ハウルの動く城

 って言うか、端的には、宮崎監督の大好きだったお母さんのイメージが、老婆になったソフィーには投影されていたりするのかも。転がり込んできたソフィーにハウルが戸惑わないのは、後半で明かされる少年期の出会いがあるからかもしれませんけど、素晴らし過ぎる“プレゼント”などを見ていると、宮崎監督が喜ばせてあげたかった老婆というのがきっといたんだろうなぁと。
 とにかく宮崎監督にとっては、幼女でなければ老婆というわけで(笑)。
 若者独特の自意識の全否定というのは、これはけっこう過激ですよね。

 この作品、どうもわざといろんなことの説明をすっ飛ばしてまして、それはそれでよいと思うのですが、ハウルが「守らなければならないものが出来た」と言って飛び出して行った後のソフィーの行動とその結果とか、ちょっと限界超えちゃってるかなという感じで。

 「未来で待ってて!」

 「ごめんね、私グズだから。ハウルはずーっと待っててくれたのに。」

 説明的なセリフが必要だとは思わないんですけど、もう少し丁寧にソフィーの心境の移り変わりをたどってもらわないと、映画を見ただけでは本線の情が追いきれないと私は思いました。(これを理解できない観客のせいにするのは、いささか傲慢というものでしょう。)

 もう一つは、この作品にも宮崎監督独特の空中戦艦をはじめとする魅力的な兵器が多数出てきますけど、このへんも監督の嗜好を前面に出しすぎてしまっているのかな、と。この辺を取り上げて、“この作品には反戦というテーマもある”みたいなことを言っちゃうと、たぶん的外れでしょうね。むしろ、そういうどうしようもなく自分の中にあるものも含めて“浄化して!”って、放り出されているという、そんな印象。

 とはいえテレビ放映されたときに見た時には、ほとんど斜めに見ていた感じで、正直嫌だなと思う部分ばかりが目に付いていたんですが、今回しっかり集中して見て、なるほど悪くないという印象を持ち直しました。これが万人受けする作品だとは到底思えませんでしたけどね・・・。

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『宮崎駿は女をわかっていない』??? 

[2008/07/24] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(8) | TOP ▲

 古くからの友人から、宮台真司さんが『崖の上のポニョ』をラジオで語っていた内容が面白かったヨと聞かされて、興味を持ったのでググってみたら、何と文字起こししてくれているサイトさんを見つけたので、ネットの神に深く感謝!

 宮崎アニメが大好きだという宮台さん。「飛行視点」という言葉を出していて、一番好きな作品は『ラピュタ』だそうです。

天空の城ラピュタ

飛行しながら風景の流れ、風の匂いということで言うと、ナウシカ、ラピュタは圧倒的なんですよ。ストーリーがわからなくてもふんわり浮かびたいなという子供の願望に直接応える意味では2本の映画は子供にもわかる。ストーリーがわからなくても楽しめる。

 この次の話が面白すぎます。よく言われる話ではあるけど、本人に面と向かって言っちゃいましたか。鈴木Pとかが青ざめて、大慌てで宮崎監督をなだめている図を想像して笑っちゃいました。(笑)

前に宮崎駿さんと対談した事があるんですが、30秒で決裂して鈴木敏夫プロデューサーとか、日テレとか徳間の偉い人が取り持ってくれて対談が継続したんですが、私が彼を怒らせたきっかけは「魔女の宅急便」と「耳をすませば」について宮崎さんは女をわかっていませんねと言ってどうも彼を直撃したようです。図星だったようです。それは僕が少女漫画評論家を看板にして女の子がわかっているマンガと女の子がわかっていないマンガは一目瞭然で、宮崎さんのこの2本の映画はわかっていない。僕の大好きなラピュタの女の子シータ、あるいはコナンの女の子ラナちゃんと同じでしょう。出てくる女の子のキャラクターが造形さえ違え同じで、いつも同じずりネタみたいな感じ。そういう意味でわかっていないんだな。観念しかないんだなと思った。

男の子が女の子を知らない段階で女の子にはこうあって欲しいなという時の女の子ヴィジョン。現実の女の子を知らなくてもこうあってほしいなとい生きる願望だけで生きる生き方もあります。宮崎さんの生き方もいいと思います。空や雲や風を描いてくれたからいいです。

 宮崎アニメ好きとして、アニメーターとしての力をすごく褒めています。

町の中をどう作るか場面設定も同じ。動きをどういう風にするのか、動きをどう見せるのか。実写と違ってアニメーターがコントロールできる。動きがどうなっているのかを日本のアニメーターの中で初めて重視した人ですよ。ディズニーとは違うのは空間の中を動くという概念を初めて世界に提示した人。

 でもまあ、「みんなヒューマンドラマに感動しているつもりでも本当はそういうところに感動しているのではないか。実は。」というのは、なかなかキツいですね(笑)。

 このブログの筆者さんも言っておられますけど、「画作りの人」というのは私もそうなんだと思います。それが正当な“アニメーション”だろうという意見は当然あるでしょうけど、それだけでもないでしょう、とも。ただ「画作り」で頭抜けているだけでもすばらしいというのにも、私は同意します。
 宮崎さんは「原作クラッシャー」の癖に原作がある作品のほうが出来がよいのは何故なんだろうかと前からよく言ってますが、画面作りの人だからと言われれば、なるほどそうかも。
 昔の作品では、あまり得手ではない物語作りに自分を投影することは控えていたのかもしれなかったですけど、今は“怖いものなし”なんで、平気でストーリーにも自分の趣味を押し込んでくるから、近作のいくつかは「気持ちいい」のか「気持ち悪い」のか、よく分からない作品になっているような気がします。

 なんだか『ハウル』、『千と千尋』、『もののけ姫』などを、そういう眼で見直してみたくなってきましたよ。(笑)

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歴史に残りやすいアニメ、残りにくいアニメ 

[2008/01/05] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(7) | TOP ▲

歴史に残りやすいアニメ、残りにくいアニメ サイオンジ探偵社

 音楽の例を引きながら、記号化しやすい音楽のほうが歴史に残りやすい、という話からはじまる、この西園寺さんのエントリー。

 こちらの記事を拝読して、非常に興味深いテーマだっただけに、ちょっと認識(たぶん世代差から来るもの)に違う点があったので、思わずブクマコメントしました。

これは「ちょっと待った」と物言いを付けたい部分が多々あります。少なくとも松本零士のキャラの激烈さは富野さんに負けてないよ?

 ここでコメントした点だけでなく、全般に思うことがいろいろあるので、(いつものことながら)ちょっと雑駁な言及になるかもしれませんが、おろおろと書いてみます。

 まず冒頭の「歴史に残りやすい」という話。いい作品と、人の記憶に長く残って語り継がれる作品は、往々にして違うという見解には、基本同意します。

  • 別に語られやすいものしか歴史に残らないってことではない
  • だけど、人々が語りやすいもの、語りを誘発しやすいもののほうが後々まで人気が続く傾向にあるのはたしかだと思う。

 この2点も同感。ただ、この時点で「歴史に残りやすいアニメ」という話から、すでに少し話題は逸れちゃいましたかね。音楽の例示もそうでしたが、特にここ以下の展開は、“いい作品なのに、歴史に残っていない(ほぼ忘れ去られている)アニメ”についての話ではないような気がします。例示されているのは『機動戦士ガンダム』と『宇宙戦艦ヤマト』ですが、いかに今日における人気に大きな差があるとはいえ、私は『ヤマト』が歴史から忘れ去られた作品だとは、さすがに思えませんので。
 と言うより、歴史に残るかどうかというのは、“ひとつの時代を画したかどうか”にかかる部分が大半だと私は考えています。今日における人気のありなしで、そこの評価が簡単に変わってしまうべきではないでしょう。『ヤマト』が日本のアニメ史の画期だったことを否定する人は少ないのではないでしょうか。

 というわけで、以下を私は、“一時代を画し、歴史に残る作品”の中で、“今も人気が長持ちして語られやすい作品”と、“そうではない作品”の話として読ませてもらいました。
 『ガンダム』も『ヤマト』も続編が存在する作品なのですが、前者の続編がいろいろ言われながらも現在進行形の『ダブルオー』に至るまで作り続けられているのに、後者の続編は一応、『完結編』で終わっています。まあ、それ自体大きなハンディです。
 作品を愛するものとしては、“続編という存在そのものの是非”も本来は気になるところですが、それはさておき。人気がしぼんだから、続編も続かなくなったという状況もあるでしょう。(逆に人気挽回を狙ってか、『ヤマト』新作の計画は今もあるらしいですが。)

 問題の核心として、なぜそうなってしまったのかというところで、西園寺万五郎さんは、

ここはとりあえず、便宜的に話を狭めてみると、ガンダムのほうが文芸批評的な語りをしやすい。
ここで言う文芸批評的ってのは、、作品というものを作家の反映であると無意識的に観じる態度のことを言ってるんだけど、富野由悠季っていう人はそうした語りを誘発しやすいんだと思う。

・・・と、富野監督の作家性について言及しておられて、この着眼は慧眼だなぁと。
 ただ、まだ幼かったとはいえ、両方のブームを一応体験してきた世代の立場から言うと、これはたぶん西園寺さんが触れておられるような、富野由悠季と松本零士の、人としての“キャラ立ち”の差ではないのではないかと思われます。って言うのは、(ネットで検索してみても最近の“盗作騒動”ぐらいしか話題は乏しいんで、それはそれで衝撃なんですけど、)松本零士さんって、面白い(ある意味、面白すぎる)キャラだったんですよねぇ。今もあんまり変わってないという印象を持ってますが、何しろ大真面目に“信念の人”なもんだから。(って考えていくと、たしかに面白さを語りにくいキャラではあるかな。でも、間違いなく富野さんのほうが常識人っぽい気がします。)

 で、あえて記事にして言及しなおしてみたのは、『ヤマト』というのに松本零士の作家性は出ているとは思うんだけど、やっぱりあれを“松本零士の作品”と言うのには、成立の経緯に“西崎義展”というプロデューサーの存在があまりに大きかったという、そのことは、アニメ史に関心を持っている人なら調べて知っておいて欲しいなぁと思ったからなんです。
 作品の是非とは別のところでの『ヤマト』成立経緯の問題、とりわけ(富野監督とも縁浅からぬ)西崎さんという、日本のアニメ史に残る稀代の“怪人”のことについては、これこそマジで書きにくいことこの上ない!(大したことなど書いてないはずの、このブログでさえ、「tag: 西崎義展」って記事が上位表示されちゃうぐらいに、調べたい人に比べて、言及してる人が少ないんだと思います。)変なこと書いて炎上しちゃうのはイヤだって言うよりも、私自身どう考えればいいのか分からないことばかりなんで、戸惑うんですよね。一応、私の知る範囲で主要な参考リンクを挙げておきます。皆さん自身で読んで、考えてみてください。

 もう一つ、『エヴァンゲリオン』の話が出ていて。これも時代を画した歴史に残る作品だと私も思います。でも、『エヴァ』は、おりしも今に至るインターネット時代に登場したということもあって、その語りやすさが作品の内容によるものなのかは私にはよく分かりません。『ヤマト』~『ガンダム』(1st)世代なんてのは、今のネットじゃシーラカンスですものねぇ。(苦笑)
 私に言わせれば『エヴァ』はまだ、たかだか10年の歴史しか持っていないので、「たぶん、人気が永続するのはエヴァのほう」だと断言できるのかは未知数です。『ガンダム』の例に倣うなら、あと20年後ぐらいにそれが言えれば本物でしょうか。たぶん、庵野監督も、今それを思って、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を作り直さなくてはと思ったのではなかったかと思っています。

機動戦士ガンダム 劇場版メモリアルボックス 宇宙戦艦ヤマト【劇場版】 劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に

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ポール・グリモー『王と鳥』 

[2007/12/22] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 見れるものは何でも見てやろう、みたいな感じで。宮崎駿や高畑勲のアニメに大きな影響を与えていると言われているポール・グリモーの『王と鳥』を借りてきました。

王と鳥 スタンダード版王と鳥 スタンダード版
(2007/04/04)
ジャン・マルタン、パスカル・マゾッティ 他

商品詳細を見る

 『王と鳥』として公開されたのは1980年らしいですが、宮崎さんや高畑さんが見て影響を受けたというのは、1952年にフランス初の長編アニメーション映画として制作された『やぶにらみの暴君』ということのようです。「王と鳥 - Wikipedia」を読むと、日本での公開は1953年。グリモー監督には不本意な形で公開されたらしく、改作される前のバージョンは、今では目にすることはできないようですね。手塚治虫は『王と鳥』より『やぶにらみの暴君』のほうを高く評価していたらしいですが、どこがどう違ったんでしょうかね。

 見て面白いかというと、エンターテイメント的には、面白いとは言えないかもしれません。アニメーション的にすごいかというと、それもよく分かりません。1952年の作品として見たら、画期的だったんだと思いますけど。じゃあガッカリだったかというと、実はそうでもなくて。
 宮崎アニメへの影響というのは、ぱっと見ただけでも、かなりすぐ分かるものです。『カリオストロの城』のお城は、この作品の王様のお城そのまんまだし。そびえたつ塔の地下に虐げられた人々が住む街がある、というあたりは『未来少年コナン』のインダストリアを思い出させます。
 ただ、この作品の魅力はというと、テイストで言ったら高畑アニメに近いような、何とも言いようがない苦味だと思いました。

 戦後間もないフランスで作られた作品ですから、暴君の姿にはヒットラーが投影されているのかもしれません。でも、この王様のキャラクターはなかなか味わい深くて、ただ悪逆の象徴として描かれているのではなかったようにも思えます。彼は、改作前の題名にも「やぶにらみ」とあるように、どうも実際に目つきがおかしいということにコンプレックスがあるようなのですが、奇妙なぐらいに城じゅうを自分の肖像画や彫像で埋め尽くしています。まあ、それだけではなくて、人間は容赦なく処分してしまいますけれど、芸術を愛好する心性はあるようで、実際、彼が絵画の中に描かれた“羊飼いの少女”に恋をするというのが、この作品で物語がはじまるきっかけになります。少女は、しかし隣の絵に描かれていた“煙突掃除の少年”に恋をしていて、王の思いは横恋慕。
 エンターテイメント的に考えれば、少年と少女がヒーローとヒロインの物語を構想しそうなものなのですが、この作品ではどうも、あくまで主人公は暴君の王様と、もうひとつは少年少女を助ける変な鳥さんなのですね。

 どちらかというと少年少女は物語に振り回されているばかりで、話を駆動していく役回りは、実に奇妙な鳥さんが担っている、このへんは『長靴をはいた猫』のペロなんかにも近いのかもしれませんね。ただ、変だ奇妙だとさっきから、この主人公格の鳥さん(実際、作品の冒頭に出てきてストーリーテラーの役割を果たしたのも、彼)のことを書いているんですけど、どうも彼は少し意地悪なところがあって、感情移入がしにくかったりするんです。
 絶対的な権力者である王様に対して、彼には自由があるということなのかもしれませんけど。ほんとうに、エンターテイメントとしてはおかしなことなんですが、私なんかは、むしろ悪者のはずの王様のほうに、しばしば感情移入をしてしまいがちでした。そのへんの苦いところが、なんとも高畑アニメっぽいのかな、などと感じられたり。

 話のテンポも独特な感じです。少年を助けるために王との結婚を受け入れてしまう少女とか、結婚式に乱入していく少年とか。これをエンターテイメント的に組み立てなおすと、そのまま『カリオストロの城』になりますね。クライマックスには、なんと巨大ロボットも登場してきます。そして物語の終わりには、“えー、そこまでやるんだ・・・”ということになるんですが。いやはや!
 これをカタルシスといってもいいのですかねぇ。思わず考え込んでしまいました。とても戯画化された表現だといってもいいんでしょうが、これはあまりにも深いなぁ。

 映像特典で、高畑監督と、爆笑問題の大田さんの対談が収録されていたんですけど、これがまたアケスケで、けっこう笑えました。(笑)
 今年、レンタルDVDで見るアニメはこれが最後になると思います。このDVDはスタジオジブリが日本での普及のために出しているそうなんですけど、たしかにこういう作品は手が出にくいだけに、こんな形で見せてもらえてありがたかったです。

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