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機動戦士Vガンダム 第13巻(最終巻) 

[2006/08/27] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

機動戦士Vガンダム 13<最終巻> 機動戦士Vガンダム 13<最終巻>
サンライズ、逢坂浩司 他 (2004/02/25)
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第49話 天使の輪の上で
第50話 憎しみが呼ぶ対決
第51話 天使たちの昇天

 ついに最後まで見ました。この作品は、はるかに記憶が薄れたら、後半からもう一度見直してみたいような気がします。特に第12巻はVガンダムでの発動篇とでも言えるような密度がありました。最終巻も引き続きよかったんですが、前半を含めた全編を結ぶための苦しさも感じました。(しかし、この印象が薄れる日が来るんだろうか?)

 以下ネタバレが多数あります。未見の方に言うとすれば、Vガンダムという作品は、ブレンパワードや∀ガンダムを見てから接すると、たぶん印象がぜんぜん違うと思うので、そちらをまず見たほうがいいと思います。それらをある程度咀嚼した上で、「どうしても」と感じたときに、覚悟して見るべきような作品ではないかというのが、私の感想です。

以下、終盤の内容への言及があります。


 第12巻のほうからの話になりますが、「優しい普通の人」「闘争本能」「哀しみと嫌悪」といったキーワードが、エンジェルハイロゥを用いてマリアの仕掛けてくる幻想と闘うウッソの場面で、特に印象に残りました。

昂ぶる心のままにおのれの身を任せるものは、そこへ堕ちよ!狩猟時代の本能が忘れられない、哀しい性が消えないなら、地で血を洗う生き方の中に身を沈めましょう。動物としては悪ではないのですから。(マリア)

 この精神的な戦いは凄かった。ファーストガンダムで言ったら『光る宇宙』のようなものとさえ、私には思われましたよ。「そのものの心をそのものに投げ返し、情に溺れさせるのです」という女王マリアは、本当に怖いと思いました。
 これにウッソがかろうじて打ち勝つことが出来たのは何故だったのでしょう。一瞬、「光の翼の歌」が聞こえ、「私が昔、シャクティに歌ってあげた歌が、聞こえた気がした」とマリアはつぶやきました。マリアはウッソに負けたのではなく、自分自身に負けたのではなかったでしょうか。
 この戦いをどう捉えるかは難しい!時間をかけてゆっくり考えてみたいと思います。

 物語の収束に向かう中にも、そのヒントは散りばめられていると思うのですが、「平和を願う究極の姿は赤子であろうが!」とカガチが叫ぶのは一面の真理であり、大人の邪念と情念によって、誰もが「優しい普通の人」でもありながら、それぞれの迷いが戦いを続けさせます。
 …富野アニメのエッセンスを惜しげもなく集中させたようなモチーフが、このあたりの話数に凝縮して見られますが、ここでのテーマはイデオンを直に連想させます。しかし、この物語ではイデは発動せず、「今こそ子どもたちの慈悲が必要」というマリアが、シャクティと最後に交わした言葉は、「あなたが人類を在るべき姿に導いてください」でした。
 カガチと対峙したウッソは「生きものは親を超えるものです」「親は子を産んで死んでいくものです」と叫びますが、それはうぬぼれだとカガチは言う。けれど「僕らが出来なければ、次の世代が!」と返すウッソ。マーベットの胎内に宿った生命を感じることが、この少年をこれほど強くしているのでしょうか。(ブレンパワードで出てきた“世代を重ねることの意味”(*1)という言葉の答えをここで見出すとは思っていませんでした!)
 「泣いて大人になるなんて、哀しすぎるじゃないですか」という彼は、それでも未来を信じようとしている。それは確かに子どもの特権であるかもしれないですよね。成功したか否かは別として、このVガンダムを“子ども向け”(*2)に描こうとした富野監督の、深層心理をそこに見ようとするのはうがちすぎでしょうか。

 それにしても、この物語は、母性を賛美する反面で、それ以外の女性性と父性を否定しますね。ここまでやったら、作品の出来とは別の次元で、反発は当然あるだろうなとも思います。
 「今後も君の活躍を期待しているよ」とウッソを突き放す父は、私の目から見ても不思議です。特攻するジャンヌ・ダルクの艦橋から、すばしこく姿を消していた彼は、やはり危険な“戦争マニア”なのでしょうね(*3)。それが見えてしまったウッソが「鈍感とか、戦争マニアに育ててくれたほうが、楽でした」と嘆く気持ちはよく分かります。ガンダムという作品を作るということは、戦争マニアの価値観と闘うことなのかもしれないですね。モビルスーツはあくまで“道具”なんだということを繰り返して強調して見せたの(*4)も、一見では戦争マニアなファンへのサービスに見えて、実は違うんだろうなと思いました。

 噂に名高い(?)女戦士の肉弾戦も、前後を踏まえて見れば、思ったほど違和感ありませんでした。(嫌悪感は当然ありますが、それは作者の狙いの中にあることですよね。)カテジナさんは、こういう策を考える人であり、「絶対に勝てる」という読みもかなり正しかったと思うんです。「…オリファーさんがいるんだ。新しい生命の中に」という、あの体験がなかったら、ウッソはあそこで敗れていたんじゃないでしょうか。 

 いかにも、このVガンダムという作品らしいなぁと思うのは、ようやくエンジェル・ハイロゥのキールームにたどり着いて、シャクティを助け出したウッソ。…普通の作品であり、作者であれば、この場面で『大団円』に持ち込む展開をいくらでも書けるというのに、ここで終わらずに、それぞれの人物の結末を描ききらずにはいられないというところが、なんとも独特な部分なのではないかと感じました。
 誰もがシャアの再来を期待するであろうポジションにいたクロノクル・アシャーは、「優しさに包まれた深い悪意」であり、ウッソともども「二人の優しさがお互いを敵に」したに過ぎない。「生きることは厳しいこと」なのだと。…それをエンジェル・ハイロゥのシャクティの視座から言わせるから、対するカテジナさんは「巨人の星」的な劇画表現化までも、してみせてしまう。結局、本当の闘いは、“シャクティ対カテジナ”に象徴されるものであったんでしょうか。

 「祈りでは、人の業を消すことは出来ないのでしょうか?」
 このシャクティの嘆きは、『逆襲のシャア』の結末の否定でもあるような気がしました。とても無残なまでの自己否定。こういうことをやったから鬱になるわけです。

 戦後のカサレリア。シャクティはまた川で洗濯をしています。「洗濯」というモチーフが富野監督は好きですね。いつも何かを洗い流したい思いがそうさせるんでしょうか。
 盲目になったカテジナさんが郷里へ帰ろうと通りがかり、シャクティと言葉を交わします。この場面、シャクティは相手がカテジナさんだと気付かなかったの?と思わせるような描写に一瞬戸惑いますが、「道に迷った旅人」だったと言ったシャクティの目に浮かぶ涙を見て、思わずはっとしました。
 私たちは皆、道に迷った盲目の旅人のようなものかもしれないですね。

 長い感想になってしまいましたが、この物語が「戦い続ける、孤独なまでに一人」(前期エンディングテーマ『WINNERS FOREVER -勝利者よ-』 )で終わるのではなく、「再び君に出会えたなら、その瞳を孤独にさせはしない」(後期エンディングテーマ『もう一度TENDERNESS』)で終わってくれて、本当に嬉しかったです。
 この作品は、全編にわたって千住明の楽曲に救われた面もかなり多くあったように思います。「光の翼の歌」は、本当は、『ひなげしの旅のむこうに』と言うのですね。

旅のゆくえの ゆらめく闇に
希望をきざむ人の切ない思いを
ひなげしの色で紡ぎ合わせ
道にしよう

星の向こうに 未来があると
若者達は夢のつばさを広げて
ひなげしの花を散らしながら
旅立っていく

 いい曲です。作曲は千住明。監督自身の作詞ですね。
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機動戦士Vガンダム 第12巻 

[2006/08/26] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

機動戦士Vガンダム 12 機動戦士Vガンダム 12
サンライズ、逢坂浩司 他 (2004/02/25)
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第45話 幻覚に踊るウッソ
第46話 タシロ反乱
第47話 女たちの戦場
第48話 消える命 咲く命

 初見での感想です。なんて言うんだろう?この巻は今までの巻とは別の作品みたいなぐらい、抵抗感なく楽しんで見ることができました。出来の良し悪しとかではなくて、話の筋が通って思えたというか。無理に話を進めるのじゃなくて、登場人物の情の流れに素直に乗って、ひとつひとつ物語が前進していくって感じです。
 突出した才能を持ったウッソ少年だけれど、一人で何でも出来るのじゃなくて、皆が彼をいとおしみ、支えている。エンジェル・ハイロゥの影響ということになっているけど、ウッソだけじゃなくて、いろんな人の感受性が鋭くなっているのが面白いですね。
 女性性ということについても、説教くさくならないで語ることが出来ている気がします。でも、毎度のことながら、このあたりの描写や考え方については、男性と女性とでは感じ方が違っちゃうかも知れませんね。

 考えて見ると、マーベットさんがこういう位置を占めるようになってくるのでは、オリファーさんが生きているわけにはいかなかったわけですね。ウッソのお父さんもそうだけど、どうも父親ってのはこうも立場がないものなんでしょうか。

 タシロもマリアも、その死の場面ではあっても「ああ、こういう人物だったんだよね」と、私は納得できたので嬉しかったです。(贅沢を言えば、ここから逆算して今までの記憶を修正したいなぁ。)

 イデオンのこととか、いろいろ思い出しかけはしたんですが、自分でも意外なぐらい“素”で見てしまって、感想が言葉にならないなぁ。

 もうちょっと見てみて、また続きを書きます。

この感覚に覚えあり 

[2006/05/04] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 「新訳Ζ」祭も次第に過去の出来事になりつつありますが、何気にヒストリカは未だ読み続けていたり。ネットをうろつくよりも、むしろ本(いやヒストリカだけじゃなくてね…)を読むべきだと思う今日この頃ですが、なかなか思うに任せず。
 そうこうするうち、ネットで興味深い「新訳Ζ」論が目にとまったので、ご紹介しておきます。

 最後に死んだ人間達がカミーユに力を貸しますが、これは諸刃の剣ですね。
 宇宙戦艦ヤマト新たなる旅立ちで、死んだスターシャが延々と娘と旦那とヤマト乗組員に延々と語り続けるような痛いシーンの同類と見てしまえば、「富野、おまえも老いたな……」という感想にもなりかねません。
 しかし、ここもよく分析すると非常に興味深いことが分かります。
『機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛』……、果たしてその真の姿は大傑作なのか!?


 謎のアニメ感想家トーノZEROさんの「Ride The Time! オータム マガジン」です。今どき唐突にヤマトの話題が出てくるあたりなんかが、囚人さんの世代にはシンパシーが感じられるところだったり。(笑)

(※余談。私も本当に痛かった「新たなる旅立ち」を、富野さんが手伝ったという話を聞いたことがありますが本当でしょうか、どなたかご存知で?)

 カミーユの中の女性性(対するフォウの男性性)というのは分かりやすい話ですが、「カツから見たカミーユは、口うるさいお姉ちゃん、そのものです」という指摘は、ナイスですね。

 あと3DCGも「へっぽこ」(笑)と言われてます。ここでも少し話題に上っていましたが、ざっくりと平たい目で見てしまうと、そういうところでしょうか。

 おそらく、これはDVD向けのチューニングではないかと思います。DVDとして買って、何回も繰り返して見る……という視聴方法を取るのが最善なのでしょう、たぶん。
 少数の劇場でしか公開されず、大多数の客はDVDで見ると割り切るなら、これは誠実な選択と言えるかもしれません


 これは作品全体に向けての感想ですが、「思い返してみると、実は非常に良くできた映画」という主旨ですから、やはり平たい目で言うと、そうなのかナァと思いながら読みました。

 ジェンダー論がここまで強くていいのかなぁと危ぶみつつ読みすすめていくと、男性性、女性性についての深読みは、さらに踏み込まれていますが、ヤザンはどうかと思いながらブライトについては一部なるほどだったり。あとジ・オの隠し腕は私も男性性のメタファなのだろうなと思っていました。(そこまで言ったなら、言いにくいけどハンブラビ対メタスまで触れてもよかったような。)(それにしてもクワトロとカミーユの相性の話は面白いですね。)
 ジェンダー論的考察は、さらに物語の冒頭にまで遡って語られていますが、個人的には、劇場版では印象を薄められたカミーユがジェリドを殴った話よりも、クワトロ、ハマーン、シロッコ、レコアなどの関係性の話が興味深い内容がありました。

 「星を継ぐ者」「恋人たち」の感想も、たぶん私と近い世代の人で、富野シンパでもアンチでもない平たい視点からだとこういう印象だったのかな、と。特にフォウについて述べられている内容は、私もかなり納得。

 ジェンダー(社会的な意味での性的な役割)として見た場合、フォウは男性的であり、サラは女性的であると見ることができます。
 つまり、この二人の少女は、相反するベクトルを持っていて、主人公であるカミーユを挟み込むような位置にあると言えます。


 とりわけフォウとサラの対比に触れたこの考察は、かなり優れたものじゃないかと思いました。

 たぶん、問題意識を持って語れるか否かが、この映画を楽しめるか否かのターニングポイントではないかと思います。ただ楽しい映像を口を開けて待っているだけの人は、この映画を面白くないと思うかもしれません。


 つまりエンターテイメントというのは、口を開けて待っていて楽しい作品のことではない、ということなのだと思うのですが、大多数のファンは口を開けて待っているだけ。
 星を継ぐ者の感想末尾にある「このような映画の価値を見出し、わざわざ見に来た者達は、そうではない者達と一線を画した何かの連帯感がある感じ」は、やはり実際には存在しないものだったわけで。
 実のところ、その残念な思いもまた、「覚えがある」もののような気がします。

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『星の鼓動は愛』は女性に何故うける? 

[2006/03/08] | 新訳Ζ | トラックバック(1) | コメント(6) | TOP ▲

あちこち『星の鼓動は愛』の感想を読んでいると思うのですが、肯定的な意見の多くは、女性ファン(中には、テレビ版の物語などにはむしろ疎そうな方も少なくない)が書いている例が多いような気がします。男が褒めてるのは新作画のモビルスーツ戦ばっかりですよ(笑)。
劇場で見回しても、男女比は圧倒的に男が多かったと思うのに。おかしなことですよね。
男ってのは理屈がとにかく多いわけです。女性は感覚的ですよね。

まあオールドファンの立場で言うと、テレビ版のカミーユなんてのは、主人公ではあっても全然ヒーローじゃなくて、どっちかというと見下してやりたくなるようなキャラクターでした。女性ファンが「カミーユ可愛い!」とか言ってるのを見聞きすると、正直「馬鹿ジャネーノ」と思ってたもんです。
男が惚れる男ってのは、やっぱシャアでしたね。カリスマのあるヒーローですから。テレビ版でも既によく見りゃヘタレでしたが、第三部では見事にヘタレを演じ切りましたねー。第一部ではヒーロー復活かと思ったのに。でもそれは彼が退化したんじゃなくて、カミーユの成長に比べて相対的にヘタレたんですよね。

『ガンダム』『イデオン』『Ζガンダム』と夢中で見ていた中学生、高校生の頃、私は富野さんの大ファンだと自分で思っていたんですけど、今思ってみれば、その良さなんてほんの表面だけでしか分かっていなかったかもしれないなー、とつくづく思うんです。だから『星の鼓動は愛』を観て、やられたなぁって。

・・・男の『ガンダム』ファンのほとんどの人、胸に手を当てて考えてみれば、実はどうしようもなくモビルスーツとかのかっこよさが好きだ、という事実があったりしませんか?私はそうです。物語だ何だとか言いながら、かたわらではガンプラとかガンコレとかを買ってしまっては、喜んでいる自分がいる。
けどね、「モビルスーツが好きだぁ!」という目線は、これはやっぱり「子どもっぽさ」を引きずってるものなんだって強く自覚すべきなんじゃないかと思うんです。『星の鼓動は愛』という作品の感想をあちこち読み比べしているうちに、そういうことはもう少し、きちんと“後ろめたく”感じなきゃならないもののような気がしてきました。

戦記ものとして考えると、もともとテレビ版の時点から既に、1年「戦争」に比べてグリプス「紛争」レベルの小競り合いなのが『Ζガンダム』の物語なのですよね。そのスケール感は、劇場版ではさらに小さい。設定の背景を考えていけば本来は、そのほうがリアリティがあるんだと思います。ですが、派手な戦争劇を見たいのが男ってやつですよね。人の死を扱う戦争ものの話をしてるのに、ドンパチの規模が小さいことについつい不満を感じてしまったりする。こういうのも理屈じゃない感覚的趣味の領域なんで、もう少し後ろめたそうに言わなきゃ、世間に言葉を発するときの品性の問題だと思う。

けど、男ってやつはメカとか戦争とか、どうしてもかき立てられるものがある。だから、その辺の執着はやむないものとしても、もうひとつ上の目線からも洞察してあげなくては、大人のアニメ論になり得ない。
感情レベルのわだかまりにたいそうな理論武装をほどこして、何のために誰を攻撃してるのか分からないような非難を繰り返すのは、『Ζガンダム』という物語の登場人物たちと同じ迷いの中にいるような気がしてならないのです。

あのカミーユ。馬鹿だと思って見下してたカミーユが、今回の三部作の中で見事に成長したんでね、本当にびっくりですよ。理屈じゃなく感覚で洞察するやり方は、優れて女性的なものだな。(「女性が支配する時代が来る」ってセリフは残ってたんでしたよねー。)

禿オヤジめ、正直な話、「こっちもいつまでもガキじゃないんだ、もはやたいていあんたのネタは割れた!」かのように、いつしか見くびってた面が私にもあったようなのですが・・・。
ここまで考え込ませれるパンチ力が、まだあったなんて!(しかし、これは男としては、完全に少数意見かもしれないですね~)

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